(神奈川県鎌倉市扇ガ谷)
元々この地には石造の地蔵菩薩があり、元禄三年(1691)に堂が建て替えられた際に木造の地蔵菩薩が安置され、石造の地蔵菩薩はその背後に安置された。胎内には「源頼朝の息女の守本尊」と書かれた銘札があったという。頼朝の息女とは大姫のこととされ、頼朝の人質となっていた木曽義仲の子義高と恋仲になっていた。義仲が近江粟津の戦い(滋賀県大津市)で頼朝勢に殺害され、頼朝は人質であった義高も殺害した。その後、大姫は悲しみの末病となり、建久八年(1197)二十歳の若さで亡くなったという。
(愛知県宝飯郡一宮町江島字新屋 2000年8月20日)
豊川左岸、曹洞宗花井寺末の随泉寺境内には幾つかの石仏がある。その内の一つ旧鵜飼嶋村の庚申塔は、天明四年辰(1784)十一月吉日、施主當村中、太郎左衛門銘の六臂(六本の手)青面金剛像であり、日輪、月輪、蛇と剣を持ち、中央の手は合掌をしていて、三猿と二鶏が彫られている。その他には丸彫りの聖観音、舟形光背の地蔵像等がある。
(愛知県新城市豊島字スワブ 2000年8月20日)
豊川右岸、旧中村の曹洞宗吉祥山永徳寺境内には、享保十四年(1729)銘の三十三観音塔と、明和二年(1765)十二月十四日造立銘の庚申塔がある。地名の「スワブ」も清和源氏諏訪部氏ゆかりのものかもしれない。
(東京都千代田区飯田橋)
飯田橋では、場所の兼ね合いから街路にこのような史跡石柱が建てられている。飯田町新徴組屯所は文久三年(1863)出羽庄内藩出身で尊皇攘夷派の清河八郎によって浪士組がつくられたことに始まる。浪士組は朝廷に攘夷を約束するために上洛する徳川家茂を警護した。然し清河は幕府側の刺客らによって麻布一之橋で暗殺された。その後、浪士組は新徴組と名を改め、この地に屯所を設け、庄内藩預りとして江戸市中取り締まりに当たった。
(愛知県宝飯郡一宮町東上字東京寺 2000年8月20日)
飯田線東上駅の北、滝平台地の裾には、かつて陽広山東郷寺(とうきょうじ)であった迦葉山妙劉寺(みょうりゅうじ)がある。地名の東京寺はその名残である。山門前には石仏が整然と並んでいる。一躰は庚申塔で、右手に日輪、弓、蛇、左手に月、矢、三又矛、蛇を持つ青面金剛像の足元には邪鬼と三猿が彫られている。また、信濃往還(伊那街道)沿いであったこともあり、多くの馬頭観音像がある。
(東京都新宿区赤城元町 旧郷社)
神楽坂の頂きには現代と融合した神社がある。正安二年(1300)上野国赤城山麓から牛込に移住した大胡重治により、牛込田島村(早稲田鶴巻町)に赤城明神として創建されたのが始まりという。寛正元年(1460)江戸城を築城した太田道灌により近隣の牛込台に遷座した。その後、弘治元年(1555)大胡宮内少輔により現在地に遷座されている。
(愛知県宝飯郡一宮町一宮字野添 2000年8月20日)
私が幼い頃から真夏の暑いときでも涼を感じられた竹薮の一角に小さなお堂がある。そのお堂には扉はなく、高い位置に棚があってそこに厨子を置き、その中に小さな丸彫りの薬師像が置かれている。
(東京都新宿区西早稲田・豊島区高田・文京区関口)
神田川の内、豊橋(ゆたかはし)から飯田橋までをかつて江戸川と呼んでいた。今も江戸川橋や江戸川公園等に名残がある。その旧江戸川区間には江戸時代からの桜並木があり、他の神田川とは違った印象を感じることができる。
(愛知県宝飯郡一宮町大木字荒屋 2000年8月17日)
帯川の堤防の下に欠損した石地蔵がある。これは荒屋墓地の六地蔵である。地蔵は大地の恵みを神格化したインドの神から、釈迦の入滅後、五十六億七千万年の弥勒仏の下生(出現)までの無仏時代に衆生済度を受け持つ菩薩として誕生し、日本では奈良時代から信仰され始めた。その内六地蔵は、地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道の六道輪廻によって生まれ変わった者を救うとされ、江戸時代から墓地に安置されるようになったものである。
(東京都文京区目白台)
戦災により廃寺となった新長谷寺の本尊、目白不動を地名由来とするこの地は、台地上に明治34年(1901)開学の日本女子大学がある。但し、豊島区目白町は昭和7年(1932)、文京区目白台は昭和42年(1967)にそれまでの字を合併して制定された地名である。神田川沿いには敷地凡そ二千坪の新江戸川公園があって、江戸時代は清水徳川家や一橋家、細川家の下屋敷であった場所であり、その後は細川家本宅を経て、昭和36年(1961)からは都立公園、昭和50年(1975)からは区立新江戸川公園となっている。園内には細川家時代の回遊式泉水庭園と学問所であった松聲閣がある。
講談社みどりの公園
日本女子大学
(富山県中新川郡立山町芦峅寺 中部山岳国立公園 2000年7月14日)
室堂平を下る頃から、辺りはガスが立ち込め始めた。下界に近づくにつれて気温も夏を思い出すように高くなってきた。やがて杉の原生林にさしかかると標高977mの美女平へ。我が住居近隣の本宮山より高いが、昼過ぎということもあってか、かなり暑く感じた。ここから弥陀ヶ原方向に目を向けるとカルデラを見ることができる。美女平の由来は、飛鳥時代の越中国司佐伯有若の子、有頼によって立山が開山されたことに始まる。有頼には許婚者の美しい姫がいた。ある時、有頼に逢いたい一心で姫は立山に登ったが、有頼は山を拓くまで帰ることはできないと、素気なく姫を追い返した。姫は仕方なく山を下りる途中、一本の杉に「美しき 御山の杉よ 心あらば わが ひそかなる 祈り ききしや」と祈ったところ、後にその願いが成就し、二人はめでたく結ばれたという。その後この杉を「美女杉」と呼ぶようになり、この美女杉のある辺り一帯を「美女平」と呼ぶようになったのだという。
この後は立山連峰から発する常願寺川に沿う富山地鉄に乗り富山市へと向かう。
(真言宗神齢山悉地院大聖護国寺 東京都文京区大塚)
江戸幕府五代将軍徳川綱吉は、天和元年(1681)生母桂昌院の発願により上州高崎の大聖護国寺住職であった亮賢に、幕府の高田薬園の地を与え桂昌院の祈願寺として護国寺を開基した。
重文 本堂 元禄十年