(中市場城 愛知県新城市野田字野田市場 2005年5月8日)
建武年間(1334-6)野田館の富永氏が野田川右岸に築いた城である。明応年間(1492-1501)富永勝光は吉良義明臣となり、この地を一旦退いている。その後、永正三年(1506)富永資舟が再び居城した。現在は埋葬場となっているが、堀と土塁が確認できる。
(神奈川県鎌倉市長谷)
元暦二年(1185)壇ノ浦の戦いで敗れた平家一族の平盛久は、京で捕らえられ鎌倉送りとなった。そして斬首の前日、盛久は自らの護持仏である清水観音(京都清水寺)が夢枕に現れた。翌日、この地で斬首を行われようとしたところ、盛久が持っていた経巻が光を放ち、処刑人の目が眩んで刀が落ち、二つに折れ斬首を免れたという。この報告を受けた源頼朝自身も同じく清水観音を護持仏とし、また同じく前日に清水観音が夢枕に現れたことから、盛久の処刑を取り下げたとされる。頸座は処刑される場所を表す。
(愛知県岡崎市福岡町南御坊山 2004年9月19日)
土呂八幡宮の境内に土呂御坊跡の碑が立つ。室町時代に蓮如によって創建された浄土真宗鷲塚山本宗寺の跡であり、永禄七年(1564)本願寺教団の拠点となったため、三河一向一揆の兵火によって焼失している。往時は東西二町(218m)南北一町(109m)の敷地があり、本宗寺を中心に東西十町(1090m)南北八町(872m)の寺内町が形成された。また、「泥棒」という言葉は、この「土呂坊」からきているという説がある。
(2004年3月28日)
丁度一年振りのナミハヤ入りである。父がよく城東線と言っていた環状線に乗り、縁の地今宮を経て湊町難波へ。千日前を通り、また縁の長堀を通って土佐堀淀屋橋、堂島、曽根崎を経てキタへと歩いた。ほぼ一日中の歩きであっ
たが、今の商都の生業を知ることができた。
(名古屋市中村区中村町 2004年3月21日)
豊臣秀吉、加藤清正いわゆる豊清二公が生まれた地、中村は、中世には鎌倉街道が通り、後に東海道の陸の迂回路である佐屋街道沿いとなった。豊臣秀吉を祀る豊国神社の大鳥居は高さ24mでかつて日本一であり、この地の誇りを伺い知ることができる。
中村区記事:柳橋白龍神社 タワーズライツ2007 タワーズライツ2008 タワーズライツ2009 Skyscraper in Nagoya MEIEKI-Sky Scraper スパイラルタワーズ ささしまライブ24
(まみあな 東京都港区麻布狸穴町)
かつて猯(まみ:アナグマ:イタチ科)の棲む穴があったことから名付けられたという。また、徳川家光がその穴の視察を命じたとされ、故に魔魅(まみ:化け物)や間歩(まぶ:鉱山の坑道)という説も伝わっている。
(愛知県宝飯郡一宮町東上字柏沢 2004年2月1日)
柏沢橋から宮出川源流へ向かう道路の坂のことをいう。昭和35年(1960)に砂防工事されるまで、幾つかの沢水が集まってできた小さな水溜りがあった。字柏沢地内の民家の内、高所は水脈が深く、井戸が掘れなかったため、明治時代まで数件の村人はこの沢水までこの坂を通って水を汲みに行き、そのため“水坂”と呼ぶようになったという。また、貰い水をした人は山の持ち主に、年一回、米一升、多い人で二升の礼をしたということである。
(岐阜県美濃加茂市山之上町 2004年1月2日)
昨年開園した平成記念公園日本昭和村を訪れた。道の駅に併設された都市公園で、高度成長期前の設定となっている。近隣の明治村、大正村を意識したものであろう。
(京都市北区紫野大徳寺町 2003年11月30日)
明応年間(1492-1501)陽峰宗韶(そうじょう)によって開創された、大徳寺塔頭(たっちゅう:境内末寺)にして、大徳寺四派の内の一派(龍泉派)である。明治9年(1876)同じ塔頭の芳春院に統合されたが、昭和33年(1958)に再興されている。