(愛知県知立市来迎寺町古城 2005年11月20日)
来迎寺は承平元年(931)宇治平等院の来迎寺法師が開山したものという。また同時期には寺に隣接して八橋葦香城の村上氏によって今崎城が築城され、村上兼房が寺社奉行を勤めた。後に斎藤氏の城となり、永禄三年(1560)今川氏に攻められ落城した。その際に討ち死にした武士を葬る「さむらい塚」(古城塚)が東側に残り、明治時代中頃と昭和元年に合わせて六十貫(240kg)の古銭が出土している。元和九年(1623)衰退した来迎寺は臨済宗として再興されている。
(山梨県大月市富浜町鳥沢)
相模川の上流桂川に沿った鳥沢宿は、上宿と下宿があり、それぞれ本陣、脇本陣が設けられ、旅籠は合わせて二十四軒あったという。また、地名の由来として、東隣に犬目、西隣に猿橋があることから、十二支に因んで名付けられたのではないかとされている。
(愛知県知立市牛田町 2005年11月20日)
明治用水は西三河を潤す灌漑用水路であり、豊田市水源町で矢作川から取水し、本流、中井筋、西井筋、東井筋の幹線水路(88km)と、西高根用水等支線水路(342km)からなる。名前の通り明治時代に完成したが、文政五年(1822)豪農都築弥厚と、石川喜平、伊豫田与八郎、岡本兵松によって計画され、明治に入り愛知県に引き継がれた。昭和48年(1973)から暗渠化が始まり、平成12年より緑道や自転車道の整備が開始された。
(相模原市緑区橋本)
JR横浜線と相模線、京王相模原線の分岐するターミナルがある橋本は、江戸時代、八王子通大山道の宿場として栄え、境川の袂(たもと)の集落であったことから、橋を渡ったたもと「橋本」と呼ばれたのが始まりという。将来リニア中央新幹線の神奈川県駅が設置される計画があるため、近年は地価の上昇が続いている。
(真言宗弘法山遍照院 愛知県知立市弘法町 2005年11月13日)
私が最初に訪れたのは昭和53年であり、まだ現在の本堂は造営中であった。弘仁十三年(822)弘法大師空海が重原(知立市)に一ヶ月滞在し、自らの像を三躰彫ってその内の一躰を祀るために堂宇を創建したのが始まりとされる。その一躰は、別れを惜しんでやや右を向いて振り返っている造形であることから見返り弘法と呼ばれ、秘仏となっている。延宝元年(1673)には、刈谷藩により現在地に移されている。
(相模原市中央区上溝字田中)
不規則に建ち並ぶ古い住宅地の中に、整然と並ぶ建物があった。昭和29年(1954)に整備された、2棟12軒の市営田中住宅である。老朽化を理由に平成29年度末で廃止され、解体のときを待っている。
(愛知県南設楽郡鳳来町能登瀬・豊岡 2005年11月9日)
開湯千三百年という湯谷温泉を訪れた。豊川水系宇連川沿いに点在する旅館。比較的近く、何度か訪れている地でありながら、この温泉に入ったことがない。今回は、辺りの色づきよりも、身を浸すことを主体としてみた。平地より早く日の暮れるこの地で、山に日が落ちて行くのを見ながら長く浸かっていた。心にゆとりは持てたが、湯疲れしてしまい、いつもより早く就寝する体力低下気味の私であった。
(関連記事:湯谷平成十一年)
(相模原市中央区上溝)
八王子通大山道が通る上溝は相模原市の旧市街地である。上溝の由来は姥川と鳩川が流れる大きな窪地を溝と見立て、上流を上溝、下流を下溝としたことによる。字田中、相模線の築堤沿いには田中不動尊があり、正徳二年(1712)創建の宝龍院が廃寺となった際、護摩堂の不動明王を引き取り、田中不動尊として祀ったものである。
番田駅(旧上溝駅)
鳩川
小田急多摩線が接続計画のあるJR相模線上溝駅
(名古屋市北区辻町 2005年11月8日)
平安時代の記録「延喜式神名帳」に記載される。また、奈良時代に建てられた多胡碑(群馬県吉井町)及び社伝によると、藤原宗勝が秩父郡羊山から銅塊を発見して朝廷に献上した功績により、多胡郡司に任命され多胡羊太夫と名乗った。宗勝が京を往復する際にこの地に屋敷と神社を建て、それが羊神社の由来とされる。火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)を祀るため、火除けの神として信仰され、「羊」から「火」を引き地名を「辻」としたという。
(神奈川県伊勢原市)
大山阿夫利神社・大山寺への参詣道の麓の中継地である伊勢原は、大山街道の内、藤沢からの田村通大山道、沼津からの矢倉沢往還、平塚からの矢崎通大山道、大磯からの伊勢原通大山道が「伊勢原」を通る。伊勢原の名は、元和六年(1620)に伊勢神宮から勧請された伊勢原大神宮に由来する。
(だちぼくぼら 岐阜市達目洞 2005年11月3日)
山に囲まれた隠れ里。岐阜では水辺の窪地を表す「・・洞」という地名が多くある。達目洞付近は都市計画道路岐阜環状線のトンネルが開通し、その部分は変貌したものの、周辺はゆっくりとした時の移ろいを見せている。江戸時代、臼井宇右衛門によって付近は開発されたと伝わるが、慶長年間に記された『内府公軍記』には「荒神洞柴田修理亮古屋敷より搦手之口だちぼくへあがり」とあり、『太田和泉守記』には「荒神洞柴田修理亮古屋敷達目口を攻上り」と記載がある。故に達目洞の隣「荒神洞」と呼ばれた地に織田信長臣柴田勝家の屋敷があったことが分かる。現在、付近の水辺には「逆川のヒメコウホネ」が自生し、貴重な自然が残されている。
(神奈川県伊勢原市上谷 かながわの花の名所100選)
伊勢原市北部の西富岡より発し、平塚市南原で鈴川に合流する全長14kmの二級河川である。中流の上谷橋付近から西川橋付近にかけて、四月になるとハナシノブ科のシバザクラ(モスフロックス)が咲く。昭和45年(1970)住民が奥多摩より株分けしたのが始まりで、平成9年には愛好会が発足し、現在のように約600mの花の名所となった。
(神奈川県厚木市戸田・海老名市門沢橋)
相模線門沢橋駅を降り、西に向かう。相模川には、両岸の地名である戸田と門沢橋を一字ずつ取った戸沢橋が架かる。かつてこの付近には戸田の渡しがあり、大山道の渡船として結んでいた。昭和42年(1967)全長526mの戸沢橋が竣工し、製造業や農業が盛んな付近の物流を助けている。また、近年になって相模川に沿う圏央道が開通し、更に上流側には新東名海老名南JCT~厚木南IC間の部分開通により、戸沢橋の渋滞が緩和されている。
(岐阜県各務原市鵜沼東町 市指定史跡 2005年10月31日)
桑原野山西公園内にあり、5世紀に築かれた直径38mの円墳である。江戸時代に中央部が削り取られ変形している。その際に「金縄」が出土したことから金縄塚古墳と呼ぶようになったという。