京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

他人と一緒に生きる

2008年09月08日 | 日々の暮らしの中で
平等院鳳凰堂の甍の上に立つ鳳凰の姿。―お札となって私たちの上を羽ばたき幸せを贈る?―世に幸をもたらす想像上の瑞鳥。
「平等院」
この世に生まれるすべての命が死という道を通る。いのちの根源は「平等」であることを説いているのだという。
平等の命をどう生き生きと生ききることができるか。

我が家によく足を運んでくださった方が亡くなった。生きる者の宿命。
誰もが個人史を刻んで生きている。愛する者親しい者が消えてゆく、個人の消滅の悲しみは大きい。
過去、残された多くの個人の歴史や物語が、かかわってきた家族、家庭さらには地域の中で刻まれることで、個の域を脱し、「人間の営み」という大きな世界の中に組み込まれていくような気がする。彼らが築いてきたものを受け継いでいるのだ。

夏の間ご無沙汰した友人がいる。そろそろ会いたいなあと思い始めていたが、絵はがきが届いた。
モディリアニ展に行ったこと、少し涼しくなった大阪の街を娘と歩いたこと、「お盆前に義父を亡くした」ことなどがしたためてあった。
秋の嵐山散策を楽しみにしていると。

「生きている意味」とは何なのだろう。
生きてゆくことは、だれかにとってのかけがえのない他人として存在してゆくことである。自分はだれにとってかけがえのない他人であり得ているかということが重要で、その中にしか答えは見つからないというのが凡人の辿り着いた実感だという。(「寝床で読む『論語』」より 山田史生)

「凡人の生きる道……それはひたすら他人の他人として生きてゆくことである。他人の他人として生きてゆくというのは、自分のために生きることが、自分のためだけでないような生き方をすることである」と語っている。

娘・息子にとっての母であり、夫にとっての妻であり、○○にとっての△△、……と。

本当に大切なものは、目の前にある、ありふれた日々の暮らしの中にある。
与えられた平等の命、そこにある「他人と一緒に生きている」という事実をしっかりと受け止めてみたいと感じる。



コメント (4)
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