京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

 「八重を育てた故郷」

2013年06月15日 | 展覧会
「会津と八重  八重を育てた故郷」 この企画展の一環として、講演会「八重を育てた故郷を語る」に参加してきました。
会津歴史考房を主宰される野口信一さんが「会津若松城下 その歴史と文化」、同志社大学の露口卓也教授が「八重と兄・覚馬に見る会津」と題して講演された後、対談されました。


6歳から9歳までの男子のグループが、遊びの内に人の道を習い、日新館には10歳からの1000人以上の入学者が学び、藩内には100か所に及ぶ私塾があったとのこと。「什の掟」に示される「ならぬことはならぬ」に触れられ、愚直で、融通がきかないといった会津の精神性をお話です。会津の誠意、忠義、誠実さを丁寧に描いてくれてあると、NHK大河ドラマ「八重の桜」の感想も述べられました。資料提供をされているのです。

5‐7代の藩主に仕えた家老・田中玄宰(はるなか)による庶民生活向上のために、良質の手工業品での殖産興業。改革とその功績を「会津名物類聚」を示されてお話でした。人参役場、ニシン鉢と山椒漬け、会津彼岸獅子、唐人凧、会津蝋燭、絵蝋燭、会津塗物、本郷瀬戸、下坂槍、長道刀…。廃藩置県で「藩」のタガが外れたことで生き残る道ができ、名を成した多くの会津人。
これまで『エッセイ 麗しの磐梯』(会津マッチャンさんのブログ)で拝読してきたことが時折思い出される中、野口さんのお話に耳を傾けておりました。

鳥羽伏見の戦い以後、朝敵、賊軍とされてしまった会津。恭順を示しているのになぜ徹底的に会津を攻撃したのか。難しい問題だとしながら、残された人たちがどんな思いで明治以後を生きてきたのかをテーマに露口教授はお話でした。「亡国」とか、感情の複雑さを私にはすべては理解しきれないですが、関心を持って拝聴しました。

会津戦争後70年を経ても「言語に絶する狼藉を被りたること、脳裏に刻まれて消えず」(会津人柴五郎の遺書)、「ひどく悲しいことが重なって…お話するのも嫌になる」(日向ユキ「万年青」)…と、理不尽の情、遺恨の情を訴えながら生きた人たち。
一方で、そういった思いがない筈はないが、八重も覚馬も恨みつらみを内に抱えて生きたとは思えない。薩長批判をしたものを読んだことがないと言われます。
囚われた薩摩人救済のために東京に赴き助力した覚馬という人間。敵を敵として認めるが、敗北感は認めない奮闘精神の八重さんの視点が大事だということ、印象に残りました。いっぱい不幸や困難がありまして…、とは語らない八重さんだったようです。

山本家の不幸は、会津のみなの場合と共通するはずだが、この不幸をどう克服しようか、克服する道を示しているのがこの兄妹。恨みつらみから立ち直る観点が、「国家」。彼らの立ち位置は国家であって、そこから見て会津を考えたと思われると。
文明開化の近代化をよく見て、そして会津をよく見よ、それが会津を生かす道だと、若いものには語ってきたことだろうとお話でした。
全国に先駆けて京都に小学校中学校を開校し、殖産興業、文化施設、病院等々、京都の文明開化に尽くされた覚馬、八重の功績にも触れて。

ドラマはドラマですが、今後のドラマを通して何かを感じていけることを自分に期待したいところです。









コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする