京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

 「面白かったよ、楽しかったよ」

2013年08月13日 | 日々の暮らしの中で

「まったく性格が異なっていたにもかかわらず、血を分けた兄弟のように信じていることができた。一緒にほろんでもいいと、無条件で思っていた二人の男がいた。その一人が彼だった。」  

【目を閉じると浮かぶのは、あいつに初めて会った頃のことばかりだ。
16歳の秋。屋上の部室だったか、パンドラだったか、大神宮の地下の雀荘だったか。その隣のバリケードに差し入れを持ちこんだママのいたバンバンだったか。靖国神社だったか、人形の家だったか。軽い心だったか。クラスは一度も一緒にならなかった。たぶん16歳の秋。

お茶の水のMDに泊まり込んでいた夜更け、あいつと正門前に来る屋台のおでん屋によく行った。高校生だとわかってからは、おやじがいつも半額にしてくれた。引き手のところに汚く錆びついたような鉱石ラジオがぶら下がっていて、ひび割れた音で深夜放送がいつも流れていた。“突破あるのみ”が迫っていたある夜、腹いっぱいにしておこうとあいつが言いだし、ヘルメット片手に食べに出た。ラジオから、「♪明日という字は明るい日と書くのねぇ」と「♪圭子の夢は夜ひらく」が流れていた。がんもを食う手を止めた。16歳の高校生が二人、ため息をつきながらその歌を聴いていた。

17歳の秋に二人で作ったガリ版刷りの同人誌に使ったあいつの名が〈塊打無鉄〉。書いた散文のタイトルが「無間地獄」だった、はず。神田のウニタ書房に100部置いてもらったことを唐突に思い出した。全部売れ、あいつが安酒に消した。走ると早く酔えるからと、九段坂を駆け足で3往復して、屋上の部屋でタバコをふかしながらさぼっていた。あいつとおれは、ピースを吸っていた。
あいつは、鮎川信夫の詩「死んだ男」と吉本隆明の詩集だけを読む老成した17歳だった。星霜が過ぎてもなお、あいつはそんなふうにおれの中に生きている。

「知ろうとして知ったら負けると気がついて知りたくはなし知るほかになし」、そんなことば遊びがあったのを思い出す。あいつはそういうのを好んでいた。おかしな17歳だった。】  ・・・略・・・ 

M氏によって綴られたことで初めて知ることができた弟の高校時代でした。M氏には昔から何度かお会いする機会もありました。この時の仲間にも。こんな生活をしながら、弟は3年間で高校を卒業しました。卒業アルバムに、校庭の朝礼台で演説をぶっている写真が残されています。一年後、大学に進学。ゲバ棒はペンに持ち替えました。倒れた時、カレンダーには10日先の締め切り日が2件書かれてありました。

姉と弟、同じ家庭で育ちながらこの高校時代の異なり様には衝撃を受けます。しかし同時に、彼が「時代」の中で真剣に生きていたことも理解しようと思えるのです。
コメント (4)
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