京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

ノボさんのべーすぼーる

2022年09月20日 | こんな本も読んでみた
「一人の若者が銀座の大通り、路面鉄道を歩いている」
若者のいでたちは、「頭に短いツバの帽子をちょこんとのせて…襟を詰めた白いシャツ、膝下までの七分ズボン、ゲートルを巻いたようなソックスに革靴」である。
若者の姿を見つけた東京大学予備門の同級生が声をかけた。
「ノボさん。どこに行きますか」
「おう、あしはこれから新橋倶楽部のべーすぼーると他流試合に出かけるんぞな」
通称ノボさん、21歳の秋。


佐伯一麦さんのエッセイ「子規庵にて」(『月を見あげて』収)を読んでいて子規の辞世の句に触れた。一方では、べーすぼーるに夢中なノボさんこと正岡子規の若き姿をとても気持ちよく読み始めていたただけに、長く病床に伏す日々を想って心に沁みる。

庵の庭は「小園の記」にあるように〈ごてごてと草花植えし小庭かな〉の趣だったが、植物や集って来る虫たちの中に病弱の身を置くことで生命力を掻きたてようとしたことが窺われた、と佐伯氏は書いている。


「小園の記」のコピーが手元にある。
1年間軍に従い、帰途に病を得て療養ののち家に帰りついた。病が進むなか、「小園は余が天地にして草花は余が唯一の詩料となりぬ」と書く。
蝶がひらひらと舞うさまに「我が魂」を重ねたり、欲しかった葉鶏頭の芽が育ち二尺ほどになって、「かゝやくばかりはなやかな秋」を迎える。
ノボさんは「あざやかで美しいものを好んだ」。

正岡子規の辞世の句となる三句を引いておこうか。(9/19は糸瓜忌だった)
  糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
  痰一斗糸瓜の水も間にあはず
  をととひのへちまの水もとらざりき


伊集院の作品には香りがあり、人がいる。
そんな言葉に誘われて、『ノボさん 小説正岡子規と夏目漱石』を読み始めたのだぞな
コメント (2)
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