出直して、特別展「文化財よ、永遠に」が開催中の泉屋博古館へ向かった。前回ここを訪れたのは’16年の11月だった。
夫婦と思われる二人連れの会話から男性の言葉が耳に入ってきた。「こんなふうに修理しました、いうことやな」。確かに、そうだった。
図解がなされ、修理中の発見の説明も丁寧に添えられてある。けど、もう少し文字サイズを大きくしてもらえるとありがたい。眼鏡を持参していたが目を凝らしての読み取りは疲れるものだった。
「文化財修復のために必要なものはヒト、モノ、カネ。まず、人の篤い意思が求められる」。
500年前、戦乱で焦土と化した京の街で仏像修復に一人の僧が勧進活動を始めたところ、関東地方にまで広がりを見せたそうだ。
そして400年経って、(昭和の修理で、とあったか)大覚寺の五大明王像のうちの大威徳明王像の胎内から、この修復の経緯など記したものが粗末な紙で小さく包まれて発見されたという。僧の名を忘れたが、その志に打たれる。
浄瑠璃寺の、あの暗いお堂に座す大日如来坐像を真直に拝見。藤原定家の「明月記」、「水月観音像」との再対面が大きな楽しみだった。
定家は不要となった書簡の紙をつなぎ合わせ、その裏に日記を認めていたことは知ってもいた。裏打ちした紙を取り去ったことで隠れていた書簡の内容が現れたのだ。全58巻の日記だからその情報量は膨大だろう。中世史の分野に寄与したという。裏面の書簡の文字がすけていた。
筆先で水をつけながら、ピンセットの先で少しずつ裏打ち紙をはがしていく作業は、水月観音像の修復作業を解説するビデオの中でみたが、このビデオが、読むより見るで、わかりやすかった。赤い糸に通した水晶の数珠に妙に魅かれるのだが、水晶の透明性を出すために、表と裏両面から赤い色を塗っているのだとか。金剛三昧院に伝来していたというから驚いた。その後一度海外に流れ、再び日本に。
酒井忠康氏が館長として展覧会図録に寄せたあいさつ文42編を一冊にした『展覧会の挨拶』が書評で紹介されていた。会場には行かずに、展覧会をのぞいてみようっと。足しげく博物館通いはしていないが、携わった様々な人たちの労苦、学芸員の方々の努力や工夫を思い、少しでも鑑賞の機会を増やそうか。鑑賞者のまなざしが、修復の気運を高めることにつながっているということが記されてもいたし…。
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