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京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

月と闇

2008年09月12日 | 日々の暮らしの中で

下鴨神社の「名月管弦祭」、上賀茂神社「賀茂観月祭」、さらには、嵯峨野の大覚寺大沢の池での「観月の夕べ」、滋賀県石山寺の「秋月祭」など、中秋の名月を愛でるイベントの紹介がにぎやかです。
どのくらいの明かりがともされるのでしょうか。

絶滅が危惧されている原種の藤袴が百鉢、烏丸通りの御苑の西側、“迎賓館通り”と名付けられた区間におかれています。花はまだ開く一歩手前の状態でした。
夕刻からは灯籠で照らすライトアップが始まります。

ネオンが輝き、深夜営業の店舗の増加、自動販売機の設置、街灯の整備も加わり、暗い夜道を歩くことの危険性が減ったとはいえ、夜まで明るい光に照らされています。

夜遅く、何か心楽しく、天空の月と一緒に歩く嬉しさを感じながら家路を急いだ記憶があります。
白く冴えた月の下、コートの襟をたてポケットに手を突っ込んで、寒風に身をすくめながら歩いたことも。夜道は暗いのが普通でした。
輝く月の美しさを居ながらにして感慨深く眺めるのは、電気の消えた暗闇の中ではないでしょうか。

「闇」の状況設定がどうしても欲しい。
「ちぢにものこそかなしけれ」ととりとめのない物思いにふけった、いにしえの人たち。
大沢の池や琵琶湖の「大きな闇」、その上に照る月を想像して見て下さい。
紫式部は湖面に映る仲秋の名月を眺め霊感を得、物語の構想を得たという伝説もあるようです。
聞こえるのは、湖岸に寄せるさざ波と虫の声。静かな闇の中で、月の霊気を浴びてみたいものです。
心の中に月が入り込んでくるかのような、神秘的な感覚です。

すべてを闇の中に沈めましょう。聞こえるのは虫の音と…悲鳴だったりして。

   

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ラジオ、「聞く」ことの力

2008年09月10日 | 日々の暮らしの中で
「富貴不能淫」(富貴にも心乱されず)
中国でのこと。数年前、英語通訳者の資格試験で、この孟子の名句が出た。 
“Be rich,but not sexy.”(金持ちになれ。けれどセクシーにはならないで)という珍解答がネットで広まり、中国語の乱れに批判が高まったという。

漢字圏以外の言語を中国語に訳すには、原語の発音に合わせて漢字を当てて、本来の意味を伝える工夫をするらしい。生まれた優れた訳語として二つ。
「可口可楽」 (おいしくて楽しい=コカ・コーラ) 
「黒客」  (招かざる客=ハッカー)

英単語が洪水のように入ってきて、「BF」(ボーイフレンド)、「88」(バイバイ)。
一過性が多いものの、語呂合わせの造語も含め若者の間でははやるのだそうだ。
中国語を理解しないが、具体的に大変興味深く読んだ記事でした。

言葉の乱れ。時代の中に、生活と密着した中に言葉が存在するためでもあるでしょう。
携帯電話を使ってのメールのやり取りが盛んになった頃の、「一指送電」という創作四字熟語。近いところでは、「KY」(空気が読めない)も挙げられます。

今夜のことでした。
「阿弥陀・弥勒・観音のなかで菩薩でないのはどれ?」
質問をろくに読むことさえできない者が読み上げる(そのおかしさを前面に出した番組ですが)。そして、ろくに語彙力もない回答者。正解ではあったが、「くさってないのはあみだだよ―って思って」とのたまう。意味不明!いつものことだが、恥ずかしくないのか!?と腹立たしささえ感じる。まあ、落ち着いてっと。

難易度は高くないのに正しく読めない漢字がある。中学生から珍回答はついてまわる。
大学入試は言うに及ばず、就職試験で話題にされても私には驚きさえ感じない。
耳から、音声として語彙を取り込む環境も少なすぎる。

ラジオの存在があります。いろいろな話しぶり、多様な人の登場。映像がない分、話す者は言葉を尽くさなければ意は届かない。
聞く側は耳からだけの情報に心を傾けられる。想像し、自由にイメージをふくらますことが可能です。

「前畑がんばれ」の実況は有名です。TV中継終了後のラジオでのプロ野球の実況放送、必死に想像力を働かせて「観て」いるのでした。
もう何年も、はるかに昔のことですが。見えたと思えるほどに、状況を深く聴くことはできるということです。

耳障りな話し方、素敵な日本語、発言の内容…、すべてがそのまま私の耳にはいるのですから、聞かないのは損なのかもしれません。
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烏相撲 力士も真っ黒で

2008年09月09日 | 催しごと
     九月九日山中の兄弟を憶ふ    王維
   独り異郷に在りて異客と為る
   佳節に逢ふ毎に倍々(ますます)親(しん)を思ふ
   遥かに知る兄弟高きに登る処
   遍く茱萸(しゅゆ)を挿して一人を少(か)く

昔学んだ重陽の節句。返り点・送り仮名をつけ訓読するリズムにも魅かれた、大好きだった漢文の授業が懐かしい。

最近こんな一文に出会ったばかりです。
「なぜならば、ことばのうつくしさは、そのことばによる認識のうつくしさなのだということを、漢詩の読み下しの日本語くらい、端的におしえてくれる日本語はあまりないような気がするからだ。」(長田弘氏)

上賀茂神社で烏相撲の神事が営まれる今日、青空が広がる爽やかな朝を迎えました。日差しはまだまだ強いのですが、万歩計の携行を忘れることなく家を出ました。



  

こんなに小さな参拝者たちも。居並ぶ力士は二十四人、みな真っ黒に日焼けして夏休みの思い出を背負っています。小粒ぞろいでしょうか。
しかし、決め手は上手投げ、うっちゃり・はたき込み…、豪快さから計算づく?まで。周囲の歓声を誘います。
無病息災、豊年を祈って地域の協力のもとでの行事に、神様はさぞやお喜びだったでしょう。

神社をあとにし、さらに北西へ。「柊野別れ」の角に立つ「柊野郵便局」の掲示板で、「旅の風景シリーズ第一集 京都嵐山~嵯峨野」の切手が残っているのを知り購入。古くは「朝霧ガ原郵便局」といったらしい。

皆さんにこれらの切手を貼って、お手紙をさし上げたい気持ちです。
万歩計の数字は「9535」を示していました。
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他人と一緒に生きる

2008年09月08日 | 日々の暮らしの中で
平等院鳳凰堂の甍の上に立つ鳳凰の姿。お札となって私たちの上を羽ばたき、幸せを贈ってくれている?

世に幸をもたらす想像上の瑞鳥。
「平等院」
この世に生まれるすべての命が死という道を通る。いのちの根源は「平等」であることを説いているのだという。
平等の命をどう生き生きと生ききることができるか。

我が家によく足を運んでくださった方が亡くなった。生きる者の宿命。
誰もが個人史を刻んで生きている。愛する者親しい者が消えてゆく、個人の消滅の悲しみは大きい。
多くの個人の歴史や物語が、かかわってきた家族、家庭さらには地域の中で刻み直され、人間の営みという大きな枠の中に組み込まれていくのだろう。
彼らが築いてきたものを私たちは受け継いでいるのだ。

夏の間ご無沙汰した友人がいる。そろそろ会いたいなあと思い始めていたが、絵はがきが届いた。
モディリアニ展に行ったこと、少し涼しくなった大阪の街を娘と歩いたこと、「お盆前に義父を亡くした」ことなどがしたためてあった。
秋の嵐山散策を楽しみにしていると。

「生きている意味」とは何なのだろう。
生きてゆくことは、だれかにとってのかけがえのない他人として存在してゆくことである。自分はだれにとってかけがえのない他人であり得ているかということが重要で、その中にしか答えは見つからないというのが凡人の辿り着いた実感だとか。(「寝床で読む『論語』」より 山田史生)

「凡人の生きる道、それはひたすら他人の他人として生きてゆくことである。他人の他人として生きてゆくというのは、自分のために生きることが、自分のためだけでないような生き方をすることである」とも。

娘・息子にとっての母であり、夫にとっての妻であり、○○にとっての△△、……と。

本当に大切なものは目の前にある、ありふれた日々の暮らしの中にある。
与えられた平等の命、そこにある「他人と一緒に生きている」という事実をしっかりと受け止めてみたい。



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時間の不思議

2008年09月06日 | 日々の暮らしの中で
「時間の不思議」。
時間はそれを意識する人によって様々に受けとめられる。
あっという間の短く感じる時間もあれば、長く感じる時間もある。

あわただしく用事を片づけ、ときに来客の応対、ときには公用まがいに車を走らせ日々の雑務をすます。自分のためだけに使う時間も欲しい。
次々に多くのことを処理し、あっという間に一日が終わってしまう。こう感じる日がなんと多いことか。
本を読んだり、気まままに過ごす時間も欲しい。
ところが、たまにそんな日があると、ああ、今日は何もすることがなく、やけに長い一日だったという言葉が出る。

あわただしい時間を送るときというのは、時間が自己の内面に触れることがなく、表面的に流れるだけなので手ごたえの無いものになるため、あっという間の時間になってしまうのだという。
一方、時間が長く感じられるときというのは、≪共通感覚≫つまり五感-視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚を働かせ心を開いて、自己の内面に触れながら過ごしているときなのだという。

いうならば、人間は充実した豊かな時間を生きるためにこの感覚を生き生きと活動させることが大事となるわけだ。
「時間の不思議」。時間は、この根源的な共通感覚と結びついているのだという中村雄二郎氏の文章に触れた。

今日は娘から依頼のあった本を探しに河原町へ。
先日来、気になっていた本があって、ついでに購入した。

帰り道、いつもの一つ隣りのベンチに腰かけて一休み。
風が通り抜け、森林浴気分で眠くなるほどの快適な場所。


    大きな切り株の上で、全く心許して?
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太宰さん、本当は?

2008年09月05日 | 日々の暮らしの中で
「三七七八メートルの富士の山と、立派に相対峙し、みじんもゆるがず、なんと言うのか、金剛力草とでも言いたいくらい、けなげにすくっと立っていたあの月見草は、よかった。富士には月見草がよく似合う。」
     (太宰治 『富嶽百景』)

すくっと立つ黄色い花、月見草(1.2~1.3m)を富士の前に添えて、イメージを描いてきました。

勘違いと言うのか思い込みだったと言うべきなのか。
先日yattaro-さんのブログ(http://blog.goo.ne.jp/yok1sioka)を通し、新しい気付きがあったのでした。

本当の月見草は、夕べに純白で開花するのだということをです。
さらに、野生化することもなく、ごく僅かに栽培されめったに見られないということ。
黄色の花の仲間は「待宵草」のグループに属し、太宰氏の時代ですと「大待宵草」となるそうな。するとこの部分はどうなるのでしょう。
「月見草」は・・・。「富士には大待宵草がよく似合う」では・・・。

意図的なのか、単に彼も思いこみ?勘違い?なのかわかりません。
ここに本来の白い花が咲いている可能性は低いでしょうし、黄色の花が群生していればこそ富士とよく似合って一枚の絵ができそうです。

思わぬ気付きで、少し頭をひねり続けてしまいました、この二日間。
そして「月見草・宵待草」は夏の季語。
でも、これって勘違い、思いこみだったのでしょうか。
大きく変わることはないのですね。では、この二日ほどはどうなるのでしょう。

 
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「やっぱり」って?

2008年09月04日 | 日々の暮らしの中で
兄弟も自分もやっぱり、やっぱりやったことないし、やっぱり見たこともないし、やっぱり、やっぱり信用のある病院で、やっぱり、やっぱりもう一度・・・」
(今朝のワイドショー番組で何度となく耳にしました。)

先日のオリンピックで、また日々街かどでのインタビューで、どれほどこの「やっぱり」が横行していることでしょう。
耳障りでたまらず、「全然やっぱりじゃないですよ!」と、くいさがりたくなる思いです。
後が続かなくて、それはもう接続詞まがいの「やっぱり」です。極端な例ですから、問題外ですが。
相手の何に同意しているのでしょう。今まで通り依然と何か、どこかが同じなのでしょうか?

日ごろ、相手の思いや考えを推測しながら受け答えすることは多いだろうと思います。
反応を気にしすぎる、それは「潜在的な意識」として話し方の基本に横たわっている。言いたいことも十分に言えないまま終わる。それは「日本語会話の伝統的欠陥」だと作家・吉村達也氏は書いておられる。

相手(親しい友人であっても)への理解に立脚したところで言葉を発することが求められるのでしょう。
「こんなこと言ったら怒らせるかな」はちょっと違うのです。気にして口をつぐめば、思いは届かない。
届いた言葉は、耳を澄まして受け止めよう。
つたなくても自分から言葉を発しようとすることの大切さも思います。

「やっぱりやっぱり」騒動からくどくどと考えてしまいました。

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妻と握手でおはよう

2008年09月03日 | 日々の暮らしの中で
知人Mさんの第二の目は「左の人差し指の先」にあります。

数年前急に生じたしびれが右手にまでおよび、将来を見通せないまま不安な日々が続いていると言います。
日常的なことの一つだったPCのキーをたたくことも、点字での読書も、「今だからできることか?」と思いだすと、毎日が今までとは違った時間の流れとして身にしみると語ります。

「今日もよろしく!」
ある朝、奥さんの前に手を差し出したそうです。

コミュニケーションの一つとして、朝、握手から始めよう!と実行に移したのだという。今まで人の思いを汲むことも、自分の感情を表現することも十分ではなかったと。まだタッチ程度の握手なのだと笑います。照れくさいのでしょうか。
やがては「健康を確認し合う」瞬間として変わっていくのでしょう。
家人に感謝し、日々の時間をいとおしむMさん、大きな幸せにつつまれているのを感じます。

あいさつは人間関係の基礎となる文化的行動として身につけてきたものでしょう。
ないがしろにされたり、おろそかにされがちな昨今。
双方が相手の心に歩み寄る、心と心のチャンネルを合わせられるような心の動きを身につけたいものです。
幼い子供の社会性を培う「はじめの一歩」は、家族の在りようか、と感じたりもします。

愛犬の、足の長い彼女との「ゆっくり散歩」、そして秋の夜長の読書、すべてが変わらず日常のひとコマでありますように。

  村のお祭りです...ひとの縮図
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指の動きに慣れようと

2008年09月02日 | 日々の暮らしの中で
       きょうという日    (室生犀星)
    時計でも
   十二時を打つときに
   おしまいの鐘をよくきくと、
   とても 大きく打つ、
   きょうのおわかれにね、
   きょうがもう帰って来ないために、
   きょうが地球上の上にもうなくなり、
   ほかの無くなった日にまぎれ込んで
   なんでもない日になって行くからだ、
   茫々何千年の歳月に連れ込まれるのだ、
   きょうという日、
   そんな日があったかしらと、
   どんなにきょうが華やかな日であっても、
   人びとはそう言ってわすれて行く、
   きょうの去るのを停めることが出来ない、
   きょう一日だけでも好く生きなければならない。

秒針が時を刻む音は部屋に響きますが、時計が鳴る音に耳を傾けたのはもうだいぶ昔の記憶です。ふと数え出していて十、十一、「ああ、もう十二時か…」と。

使い慣れた点訳用ソフトがこの新しいPCにインストールできたため、今日は入力の設定をし直し、指の動きを早く慣れさせたくて、ずいぶん長時間点字を打っていた。

点字は6点で打っていきますから、使用する6つのキーを決めます。
例えば、キーの[SDF LKJ]を使ったり。が、PCによって異なることがあり、旧のPCでは[ASD KJH]で基本の6点を設定して使ってきています。
「あ」はF(旧ではD)、「い」は FD(旧ではDS)、「う」は FJ(旧ではDH)のキーで。二つ以上は、FD同時に打ちます。六つのキーを同時に打つと「め」です。

今回、AがSにと、全体にわずか一つづつキーの位置が右へずれただけです。
ところが不思議と指がキーの上に落ち着かない。画面を見ているうちに、指は左へずれてしまって…。

十年近くたち、無意識のうちに自分の指・手首の角度や姿勢は決まってしまっているらしい。点訳開始に当たっては、好みの姿勢や角度で構えることを自覚していますから。

飲み物の自動販売機に点字が付いているのをご存知ですか?

今日もあと十分もすればお別れです。...そう、一生懸命の日でした... 。
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あなたが開くページは

2008年09月01日 | 日々の暮らしの中で
   「歎異鈔旅にもち来て虫の声
   …死ぬまで愚痴鈍根の断ち切れない人間として彼が…直ちに好きであった」
 
   「朱雀の辻に、鈴を鳴らして、今朝から、喚いている男があった。」
「序」に続き、吉川英治著『親鸞』(講談社)の冒頭の一文です。

そして、こちら。
   「昨夜からの雨も朝にはあがって、京の大路には秋の日ざしがまぶしい。
   忠範は目をほそめながら歩いていた。
   はるかに比叡の山が見える。
   比叡山は、どっしりした山だ。
   四明ケ岳、大比叡の連邦から東山にかけて、ゆるやかな稜線がつづく。」

美しい遠景の描写の中に八歳になった忠範が登場してきます。「どけ!どけ!…」いきなりの怒声が上がり、「かすかな死臭」が漂う“第一回”。
「忠範の胸も、期待に震えた。〈ほんとうにそれは起こるのだろうか?〉」
明日への期待がわきます。

五木寛之氏の連載小説『親鸞』(京都新聞)が始まりました。魂が込められるという最初の一文に、開始とともに触れることができる嬉しさを感じます。
親鸞が歩いた京の街。そして少年時代、青年時代。宗教者ではありますが人間としての親鸞を、どのように描いてくれるのでしょう。
「南無阿弥陀仏」と唱えれば仏様のお慈悲にあずかれると説く親鸞。

澄みきった月の夜、ページを開くあなたの本はなんですか?

   且つ忘れ且つ読む燈火亦親し  (相生垣瓜人)

 

  ここのベンチは私のお気に入り。涼しい木陰での読書もいいですね。
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