「クジラのまち」として知られる和歌山県大地町。太地町のイルカ追い込み漁を批判的に描いた米映画「ザ・コーヴ」がアカデミー賞を受賞して以来、太地町は世界中から批判の矢面に立たされてしまった。そんな太地町の漁民たちの戸惑い、反捕鯨団体シーシェパードの監視活動の様子を追い続けるドキュメンタリー映画である。
久しく映画を観ていなかったので、私の中で渇望感が湧いていた。そんな中、北海道新聞に映画「おクジラさま」の記事が掲載され、興味を抱いたので10月20日(金)午後、「ディノスシネマズ」札幌に足を運んだ。
映画はニューヨーク在住の日本人映画監督(札幌出身の佐々木芽生監督)が「ザ・コーヴ」公開の7年後にどちらにも肩入れしない中立の立場から、両者の言い分も含めて太地町の様子を描いたものである。
映画ではさらに米人ジャーナリストを狂言回し的に登場させている。彼もまた欧米社会の価値観とは一線を画し、この問題を中立的に考えようと太地町に居住してウォッチする。
※ 太地町にやってきて抗議行動を繰り返すシーシェパードの人たちです。
両者の言い分は相容れない。
シーシェパードの側は、クジラ(イルカ)は人間に近い動物であって、これを殺戮して食用にしたり、生け捕りして水族館などに売るのは残酷極まりない行為である、という。
一方、太地町側はクジラ(イルカ)漁は400年以上前から続いてきた漁であり、食習慣についても日本に根付いた食文化であって、外国からとやかく言われる筋合いのものではないと主張する。
※ シーシェパードの抗議行動に困惑する太地町の漁師たちです。
映画はまだまだいろいろなシーンや言い分が出てくるが、この問題についてあるいはどなたかから非難されることを多少は覚悟しながら、少しこの問題について考えてみたい。
私は幼いころ、当然のようにしてクジラの肉を食していた一人として、世界の中で日本のクジラ漁が規制されてきたことに少なからず不満を抱いていた。私たちが幼少の頃に「捕鯨オリンピック」などといって、資源保護の思想もなく乱獲していた時代は当然反省しなければならない。しかし、今資源は完全に回復し、適切な資源管理のもとでのクジラ漁を規制する何ものもないのではないかと思う。しかし、欧米においては「クジラ」を特別視している感があるのだ。
太地町の問題もその延長線上にあると思える。わざわざ欧米から日本の片田舎である太地町にやってきて、エキセントリックに言葉汚く太地町漁民を罵る姿には滑稽ささえ感じてしまう。
※ 中立的な立場から取材をする米人ジャーナリストです。
映画は、タイトルにもあるとおり、どちらも正義をかざして譲らないことをレポしている。しかし、今のところ潮流としては、太地町は徐々に追い詰められている感もある。
そのことに対して、件の米人ジャーナリストは、太地町(ひいては日本)は情報発信においてシーシェパードに大きく後れをとっていると指摘する。
私は彼の指摘は日本の最大の弱点を指摘しているようにも思える。
情報が人間の思考に影響を与えることの大きさを私たち日本人はもう少し重視する必要があるのでは、と教えられた映画だった。
スポーツイベントにおいて、今やボランティアの力なくして運営はできなくなっている実態があるという。そのボランティアの在り方について、「現状のままでいいのだろうか?」ということが本講座の主題だった。

10月15日(日)午後、紀伊国屋札幌本店のインナーガーデンにおいて「東海大学公開講座ヒューマンカフェ」が開催されたので参加した。
テーマは「スポーツの『ボランティア』を考える」と題して、順天堂大学スポーツ健康科学部准教授の渡正氏と、北海道大学教育学研究院助教の山崎貴史氏が登壇し、東海大学札幌キャンパス助教の植田俊氏がコーディネーターを務めて講座は進められた。
コーディネーター役の植田氏がまず、自らが学生を率いて今年2月に札幌市を中心に開催された「第8回アジア冬季競技大会」に大会ボランティアとして参加された際の印象や疑問を呈された。
その際感じたことは、スポーツイベントにおいて主役はあくまで選手であり、ボランティアは脇役として『分離』された状態にあることに疑問を呈された。氏が言うには、ボランティアもまた、そのイベントにおいて主役としての扱いを受けることができないのか、という疑問を呈した。
その疑問に対して、今回登壇した二人の研究者は障がい者スポーツのボランティアといった側面から多々論じられた。

※ 同じような写真を私も撮ったのだが、東海大のHPの写真の方がよりクリアだったので拝借させてもらった。
渡准教授は、2020東京オリンピックにおいては、①大会ボランティアと②都市ボランティア併せて9万人が必要とされているとした。そして氏はスポーツイベントのおけるボランティア必要論に疑問を呈した。
というのも、オリンピックにおけるボランティア必要数が集まりにくい状況の中、よりボランティアを必要とするパラリンピックにはたしてボランティアが集まるだろうか?という現状への不安から発されたものと解した。
そこで氏は、障がい者がボランティアとしてイベントに参加するという形態についてもっと積極的に考えても良いのではないか、と提案された。
山崎氏は、北翔大学が取り組んでいる「車椅子ソフトボール」チームに野球部の現役学生がサポートする例を紹介した。
「車椅子ソフトボール」の場合は、障がい者だけではなく、健常者も一緒にプレーできるルールとなっているらしい。そのため、学生はサポートするだけではなく、プレイヤーとしても真剣に「車椅子ソフトボール」に参加している様子をレポートした。そして、ある意味この姿が理想的なスポーツボランティアの形ではないか、と提起された。
その他、障がい者スポーツに対するボランティアの当たり方について多々論じられたが、ここでは植田氏が提起した問題について少し考えてみたい。
植田氏の問題意識は、ボランティアであっても大会の主役の一人としての扱いをされないものか、というものだった。
具体的には、冬季アジア大会において参加したボランティアの中で、通訳ボランティアとか、レセプションで演舞した「よさこい」の踊り手たちは、自分のスキルを伸ばす場であったり、特技を発揮する場であったり、とそれぞれが意味のあるボランティアであった。
しかし、植田氏が引率した学生たちの役割は選手団の入村式における国旗掲揚の役割であったり、選手を案内する役目のような補助的な役割であり、やりがいをあまり感ずるものではなかったという。
植田氏はボランティアといえども、参加することによってそれぞれにとって意味あるものでなければならないのではないか、という趣旨と理解した。
しかし、私は「難しい問題だなぁ」と感じながらお聞きしていた。確かに通訳とか、特技を披露することは、その個人にとってやりがいのある役割だと思われる。しかし、全てのボランティアに主催する側はそうした意味ある役割を用意できるだろうか?それは難しい問題ではないのだろうか、と私には思えたのだが…。

私は過去に、野球、サッカー、ゴルフ、マラソンなどのボランティアを体験した。すべてが補助的な役割であった。私がリタイアした後のボランティアだったから、ということもあるが、私のモチベーションは大会の成功を裏から支えることができた、という自己満足だった。
ボランティアは無償性、自発性、利他性、先駆性だと植田氏も冒頭に述べられた。私はそこにこそボランティアの真髄があると思っている。
そしてボランティアとは、例えスポーツボランティアであってもそれに尽きると思うのだが、はたしてどうだろう?
植田氏は現状を肯定するだけでは変わらない。だから敢えて問題提起されたのではと受け止めたのだが…。

10月15日(日)午後、紀伊国屋札幌本店のインナーガーデンにおいて「東海大学公開講座ヒューマンカフェ」が開催されたので参加した。
テーマは「スポーツの『ボランティア』を考える」と題して、順天堂大学スポーツ健康科学部准教授の渡正氏と、北海道大学教育学研究院助教の山崎貴史氏が登壇し、東海大学札幌キャンパス助教の植田俊氏がコーディネーターを務めて講座は進められた。
コーディネーター役の植田氏がまず、自らが学生を率いて今年2月に札幌市を中心に開催された「第8回アジア冬季競技大会」に大会ボランティアとして参加された際の印象や疑問を呈された。
その際感じたことは、スポーツイベントにおいて主役はあくまで選手であり、ボランティアは脇役として『分離』された状態にあることに疑問を呈された。氏が言うには、ボランティアもまた、そのイベントにおいて主役としての扱いを受けることができないのか、という疑問を呈した。
その疑問に対して、今回登壇した二人の研究者は障がい者スポーツのボランティアといった側面から多々論じられた。

※ 同じような写真を私も撮ったのだが、東海大のHPの写真の方がよりクリアだったので拝借させてもらった。
渡准教授は、2020東京オリンピックにおいては、①大会ボランティアと②都市ボランティア併せて9万人が必要とされているとした。そして氏はスポーツイベントのおけるボランティア必要論に疑問を呈した。
というのも、オリンピックにおけるボランティア必要数が集まりにくい状況の中、よりボランティアを必要とするパラリンピックにはたしてボランティアが集まるだろうか?という現状への不安から発されたものと解した。
そこで氏は、障がい者がボランティアとしてイベントに参加するという形態についてもっと積極的に考えても良いのではないか、と提案された。
山崎氏は、北翔大学が取り組んでいる「車椅子ソフトボール」チームに野球部の現役学生がサポートする例を紹介した。
「車椅子ソフトボール」の場合は、障がい者だけではなく、健常者も一緒にプレーできるルールとなっているらしい。そのため、学生はサポートするだけではなく、プレイヤーとしても真剣に「車椅子ソフトボール」に参加している様子をレポートした。そして、ある意味この姿が理想的なスポーツボランティアの形ではないか、と提起された。
その他、障がい者スポーツに対するボランティアの当たり方について多々論じられたが、ここでは植田氏が提起した問題について少し考えてみたい。
植田氏の問題意識は、ボランティアであっても大会の主役の一人としての扱いをされないものか、というものだった。
具体的には、冬季アジア大会において参加したボランティアの中で、通訳ボランティアとか、レセプションで演舞した「よさこい」の踊り手たちは、自分のスキルを伸ばす場であったり、特技を発揮する場であったり、とそれぞれが意味のあるボランティアであった。
しかし、植田氏が引率した学生たちの役割は選手団の入村式における国旗掲揚の役割であったり、選手を案内する役目のような補助的な役割であり、やりがいをあまり感ずるものではなかったという。
植田氏はボランティアといえども、参加することによってそれぞれにとって意味あるものでなければならないのではないか、という趣旨と理解した。
しかし、私は「難しい問題だなぁ」と感じながらお聞きしていた。確かに通訳とか、特技を披露することは、その個人にとってやりがいのある役割だと思われる。しかし、全てのボランティアに主催する側はそうした意味ある役割を用意できるだろうか?それは難しい問題ではないのだろうか、と私には思えたのだが…。

私は過去に、野球、サッカー、ゴルフ、マラソンなどのボランティアを体験した。すべてが補助的な役割であった。私がリタイアした後のボランティアだったから、ということもあるが、私のモチベーションは大会の成功を裏から支えることができた、という自己満足だった。
ボランティアは無償性、自発性、利他性、先駆性だと植田氏も冒頭に述べられた。私はそこにこそボランティアの真髄があると思っている。
そしてボランティアとは、例えスポーツボランティアであってもそれに尽きると思うのだが、はたしてどうだろう?
植田氏は現状を肯定するだけでは変わらない。だから敢えて問題提起されたのではと受け止めたのだが…。
自分がふだんやっていることを振り返る機会などそう多くはない。そんな中、ある原稿依頼があり、自分のやっていることを振り返る機会があった。このほど私が綴った文章が機関紙に掲載されたので、私の記録としてここに転写しておくことにした。
少し前のことであるが、北海道生涯学習協会から同協会が発行する機関紙「ほっかいどう生涯学習」に「私の生涯学習」というテーマで寄稿してほしい、という依頼があった。
私としては、自分のやっていることを振り返る良い機会ととらえ承諾し、原稿を書いて送り届けた。このほど9月30日付で発行されたので、その文章を私の記録としてここに転写することにした。

私の生涯学習
道民カレッジ連携講座の受講を終えた後、私の中では「学んだことをどうまとめようか?」という思いが私を支配します。というのも、私の中では受講することができた貴重なお話を、私なりの解釈で、私なりの感想を綴ることによって、できるだけお話を記憶に留めたいという思いがあるからです。
そして私は、そのことをブログという形で発信しているところに、私の学びの一つの特徴があるかな、と思っています。
ブログの内容は連携講座の受講感想だけではありません。登山、フットパスウォーク、ステージ鑑賞、スポーツ観戦、映画鑑賞、旅、あるいはボランティアなど私が体験するあらゆる分野に及んでいます。
私は現職時代を道内の地方で過ごし、退職と同時に札幌へ転居したのですが、退職後4年半ほどは、第二の職場での仕事もしながら、少しずつ講演会を聴いたり、フットパスウォークに汗したりする程度でした。
私が本格的なさまざまな分野の学習や体験、鑑賞などに出かけるようになったのは全ての仕事からリタイアした65歳前後からです。
それからは日中できるかぎり家にはいないように努めました。私が学習し、行動する際の基本は「何でも見てやろう!何でもやってみよう!」という思いです。そこに“バランス”というキーワードを添えて…。そうすることで、私は自らの頭と心と体がバランスよく鍛えられると思っているのです。
私が現在関心を寄せていることは、生涯学習グループ「めだかの学校」に加わり活動していることです。このグループの特徴は、自ら学習課題を見出し、企画し、周りにも呼び掛けて道民カレッジの連携講座として運営しています。「共に学び合う」というコンセプトに私はとても共鳴しています。
こうした積み重ねが、このほど「道民カレッジ奨励賞(1,000単位取得)」、「北海道大学生涯学習学友会アドバンスト・メンバー証」の受賞(受証)という形で一つの節目を迎えました。これはこれで一つの大きな喜びです。
しかし、振り返ってみると、自分の身体を酷使しながら達成した登山やフットパスウォークにはより大きい喜びがあるようにも感じます。特に、冬期間に豊平川(河口~豊平峡ダム)、石狩川(河口~旭川市)の河畔をスノーシューで歩いた体験は私の中の奥底に強烈な記憶として刻み付けられました。
これからも健康に留意しながら、“バランス”良く、いろいろな学びや体験を深めていきたいと考えています。ブログ「田舎おじさん札幌を見る!観る!視る!」を伴走の友としながら…。
少し前のことであるが、北海道生涯学習協会から同協会が発行する機関紙「ほっかいどう生涯学習」に「私の生涯学習」というテーマで寄稿してほしい、という依頼があった。
私としては、自分のやっていることを振り返る良い機会ととらえ承諾し、原稿を書いて送り届けた。このほど9月30日付で発行されたので、その文章を私の記録としてここに転写することにした。

私の生涯学習
道民カレッジ連携講座の受講を終えた後、私の中では「学んだことをどうまとめようか?」という思いが私を支配します。というのも、私の中では受講することができた貴重なお話を、私なりの解釈で、私なりの感想を綴ることによって、できるだけお話を記憶に留めたいという思いがあるからです。
そして私は、そのことをブログという形で発信しているところに、私の学びの一つの特徴があるかな、と思っています。
ブログの内容は連携講座の受講感想だけではありません。登山、フットパスウォーク、ステージ鑑賞、スポーツ観戦、映画鑑賞、旅、あるいはボランティアなど私が体験するあらゆる分野に及んでいます。
私は現職時代を道内の地方で過ごし、退職と同時に札幌へ転居したのですが、退職後4年半ほどは、第二の職場での仕事もしながら、少しずつ講演会を聴いたり、フットパスウォークに汗したりする程度でした。
私が本格的なさまざまな分野の学習や体験、鑑賞などに出かけるようになったのは全ての仕事からリタイアした65歳前後からです。
それからは日中できるかぎり家にはいないように努めました。私が学習し、行動する際の基本は「何でも見てやろう!何でもやってみよう!」という思いです。そこに“バランス”というキーワードを添えて…。そうすることで、私は自らの頭と心と体がバランスよく鍛えられると思っているのです。
私が現在関心を寄せていることは、生涯学習グループ「めだかの学校」に加わり活動していることです。このグループの特徴は、自ら学習課題を見出し、企画し、周りにも呼び掛けて道民カレッジの連携講座として運営しています。「共に学び合う」というコンセプトに私はとても共鳴しています。
こうした積み重ねが、このほど「道民カレッジ奨励賞(1,000単位取得)」、「北海道大学生涯学習学友会アドバンスト・メンバー証」の受賞(受証)という形で一つの節目を迎えました。これはこれで一つの大きな喜びです。
しかし、振り返ってみると、自分の身体を酷使しながら達成した登山やフットパスウォークにはより大きい喜びがあるようにも感じます。特に、冬期間に豊平川(河口~豊平峡ダム)、石狩川(河口~旭川市)の河畔をスノーシューで歩いた体験は私の中の奥底に強烈な記憶として刻み付けられました。
これからも健康に留意しながら、“バランス”良く、いろいろな学びや体験を深めていきたいと考えています。ブログ「田舎おじさん札幌を見る!観る!視る!」を伴走の友としながら…。
コースとしては短時間で登れるイワオヌプリ登山だが、この日二つ目の山とあって、体力のない私にとってはけっこう負荷のかかる登山となった。それにしても360段余りに上る直登の階段登行には参りました。

※ 今回の二つの山の登山で唯一目にすることができた紅葉シーンです。見た目にはもう少し鮮やかだったのですが…。
当初はまったく考えていなかった、この日にイワオヌプリも登るというプランは降って湧いたように思い浮かんだ。
そのアイデアが思い浮かんだのは、シャクナゲ岳を登り終え、明朝に登山予定の登山口の状況を確認するために、登山口のある五色温泉に向かっているときだった。
イワオヌプリは比較的短い時間で登ることのできる山だとの認識があった。その時、時計はまだ13時前だったこともあり、「あれっ?もしかしたら登ることができるかも?」との考えが頭をもたげた。そんな思いになったのも、シャクナゲ岳を登り終えても、意外にも思っていたより体力が消耗していなかったことが影響したのかもしれない。
そう思い始めたら、翌日に登る場合のデメリットが次々と湧き出て(翌日の天気、会議、車中泊 etc.)登山を決行することを決めた。
イワオヌプリは、9月にアンヌプリに登った時に、絶えずその姿を目にしながら登った山だ。その山容は他の山と違って、緑の山ではなく地肌が剥き出しになっている部分が多い特異な山容だった。それは、ニセコ山系の中で最も若い火山で、一時期は硫黄を産出したこともあり、イワオヌプリはアイヌ語で「硫黄山」という意味だそうだ。

※ イワオヌプリの登山口です。写真の鉄橋を渡って山に向かいます。

※ 鉄橋を渡ると、ご覧のようなイワオヌプリ特有の光景に出会います。
登山口の駐車場から立派な鉄橋を渡ると、さっそく地肌を剥きだした光景に出会うが、そこから登山コースが始まる。
その始まりだが、真っすぐ伸びた石の階段が頭上にずーっと伸びていた。この階段は疲労していた私の体力を一気に奪った。
石の階段が終わると、今度はまた木材を使用した階段が伸びていた。あまりの階段の多さに、その階段の数を数えてみると130段あった。下山時には石の階段の数も数えたら、なんと230段もあり、合計で360段もの階段を直登し、下山したことになる。

※ 真っすぐ伸びる360段の石段です。一つの一つの高さがあり閉口しました。

※ 石段に続いて現れた木製の階段で、こちらは130段ありました。
階段を登り終えた後は、一部に大きな岩場を乗り越える個所もあったが、概ねは山麓をトラバースするように緩やかな上りが続いた。
登山開始から35分後、イワオヌプリとチセヌプリの分岐点に到達した。
ここからは岩がゴロゴロと転がっている登山道となり傾斜も付いてきたが、周りはまだ灌木に覆われている。

※ 階段後に現れた大きな岩の重なったところですが、長くは続きませんでした。

※ 分岐点までのほとんどはこのような緩やかなコースでした。

※ チセヌプリとイワオヌプリの分岐点です。イワオヌプリは右にコースを取ります。

※ イワオヌプリの案内板(?)は、ごらんのようなワイルドな案内が多かったようです。

※ 岩場に入っての最初は、両脇に灌木が茂る中を上るコースでした。
やがて灌木地帯は過ぎて、岩石だけが転がる地帯に入った。岩石が転がる中、時には真っすぐに、時には岩石を避けてジグを切ったりしながら高さを稼いでいった。
ピークに達したかな?と思われたところは大きなクレーターのようであり、また賽の河原のような火山灰が堆積していた。

※ 灌木がなくなると、ご覧のような岩石が転がる中を延々と登り続けます。

※ そして至った賽の河原?それともクレーター?
さらに上りは続いたが、斜度は緩やかになっていた。そして今度こそはピークだと思ったところもピークではなく、先を行く3人組が遠くの峰を歩いているのが見えた。
その時だった。眼下に見事に色づいた紅葉の一帯が目に入った。二つの山を登っていて、唯一見ることができた見事な紅葉だった。
また、先ほど上ってきたシャクナゲ岳もシャクナゲ沼とともに端正な山容を見せてくれた。

※ 先行する3人組が山頂へ至る尾根道をトラバースして行きます。

※ この日の午前中に登ってきたシャクナゲ岳とシャクナゲ沼がきれいに見えました。
コースはさらに、峰づたいにぐるっと回り込むようなコースとなっていて、けっこう気をもたせるイワオヌプリだった。標準時間よりややかかったが1時間15分で山頂に到達した。

※ 夕暮れが近いことを感じさせるイワオヌプリの山頂標識です。
時間も遅かったので、頂上では写真を撮り、飲み物を口にしただけで直ぐに下山を開始した。
大きな岩がゴロゴロと転がっている下山路は、登るより神経を使う。慎重に、慎重に下山することに心がけた。

※ このように岩がゴロゴロした中での下山は慎重にならざるを得ません。
初級レベルの山とはいえ、私のような体力のないものにとって二つの山を一日で登ることには身体の方に抵抗感があったようだ。
間もなく下山完了という階段にかかる前ごろ、眩暈の症状が出て、どうしたものかと思ったが、下山を続けるよりほかなかった。
続いて階段の下降に入ったときだった。今度はふくらはぎの裏が攣る症状が出た。この症状はこれまでも何度か遭遇していた。立ち止まり懸命に筋を伸ばすことを心がけた。
なんとかだましだまし、下山にも登山と同じくらい時間をかけて登山口に下りてくることができた。
※ 今シーズンの登山はこのイワオヌプリをもって終了かな?と思っています。
【イワオヌプリ(五色温泉コース) 登山データ】
標 高 1116m (標高差 366m)
駐車場 国道58号線上に「観光案内所」があり、そこに20台程度の駐車場有り。その他にも駐車場がある。
行 程 《グランドシニアの足とお考えください》
登山口→(35分)→チセヌプリ分岐→(40分)→イワオヌプリ山頂→(35分)→チセヌプリ分岐→(35分)→登山口
時 間 上り(1時間15分) 下り(1時間10分)
天 候 晴れ一部雲、弱い風
登山日 ‘17/10/16

※ 今回の二つの山の登山で唯一目にすることができた紅葉シーンです。見た目にはもう少し鮮やかだったのですが…。
当初はまったく考えていなかった、この日にイワオヌプリも登るというプランは降って湧いたように思い浮かんだ。
そのアイデアが思い浮かんだのは、シャクナゲ岳を登り終え、明朝に登山予定の登山口の状況を確認するために、登山口のある五色温泉に向かっているときだった。
イワオヌプリは比較的短い時間で登ることのできる山だとの認識があった。その時、時計はまだ13時前だったこともあり、「あれっ?もしかしたら登ることができるかも?」との考えが頭をもたげた。そんな思いになったのも、シャクナゲ岳を登り終えても、意外にも思っていたより体力が消耗していなかったことが影響したのかもしれない。
そう思い始めたら、翌日に登る場合のデメリットが次々と湧き出て(翌日の天気、会議、車中泊 etc.)登山を決行することを決めた。
イワオヌプリは、9月にアンヌプリに登った時に、絶えずその姿を目にしながら登った山だ。その山容は他の山と違って、緑の山ではなく地肌が剥き出しになっている部分が多い特異な山容だった。それは、ニセコ山系の中で最も若い火山で、一時期は硫黄を産出したこともあり、イワオヌプリはアイヌ語で「硫黄山」という意味だそうだ。

※ イワオヌプリの登山口です。写真の鉄橋を渡って山に向かいます。

※ 鉄橋を渡ると、ご覧のようなイワオヌプリ特有の光景に出会います。
登山口の駐車場から立派な鉄橋を渡ると、さっそく地肌を剥きだした光景に出会うが、そこから登山コースが始まる。
その始まりだが、真っすぐ伸びた石の階段が頭上にずーっと伸びていた。この階段は疲労していた私の体力を一気に奪った。
石の階段が終わると、今度はまた木材を使用した階段が伸びていた。あまりの階段の多さに、その階段の数を数えてみると130段あった。下山時には石の階段の数も数えたら、なんと230段もあり、合計で360段もの階段を直登し、下山したことになる。

※ 真っすぐ伸びる360段の石段です。一つの一つの高さがあり閉口しました。

※ 石段に続いて現れた木製の階段で、こちらは130段ありました。
階段を登り終えた後は、一部に大きな岩場を乗り越える個所もあったが、概ねは山麓をトラバースするように緩やかな上りが続いた。
登山開始から35分後、イワオヌプリとチセヌプリの分岐点に到達した。
ここからは岩がゴロゴロと転がっている登山道となり傾斜も付いてきたが、周りはまだ灌木に覆われている。

※ 階段後に現れた大きな岩の重なったところですが、長くは続きませんでした。

※ 分岐点までのほとんどはこのような緩やかなコースでした。

※ チセヌプリとイワオヌプリの分岐点です。イワオヌプリは右にコースを取ります。

※ イワオヌプリの案内板(?)は、ごらんのようなワイルドな案内が多かったようです。

※ 岩場に入っての最初は、両脇に灌木が茂る中を上るコースでした。
やがて灌木地帯は過ぎて、岩石だけが転がる地帯に入った。岩石が転がる中、時には真っすぐに、時には岩石を避けてジグを切ったりしながら高さを稼いでいった。
ピークに達したかな?と思われたところは大きなクレーターのようであり、また賽の河原のような火山灰が堆積していた。

※ 灌木がなくなると、ご覧のような岩石が転がる中を延々と登り続けます。

※ そして至った賽の河原?それともクレーター?
さらに上りは続いたが、斜度は緩やかになっていた。そして今度こそはピークだと思ったところもピークではなく、先を行く3人組が遠くの峰を歩いているのが見えた。
その時だった。眼下に見事に色づいた紅葉の一帯が目に入った。二つの山を登っていて、唯一見ることができた見事な紅葉だった。
また、先ほど上ってきたシャクナゲ岳もシャクナゲ沼とともに端正な山容を見せてくれた。

※ 先行する3人組が山頂へ至る尾根道をトラバースして行きます。

※ この日の午前中に登ってきたシャクナゲ岳とシャクナゲ沼がきれいに見えました。
コースはさらに、峰づたいにぐるっと回り込むようなコースとなっていて、けっこう気をもたせるイワオヌプリだった。標準時間よりややかかったが1時間15分で山頂に到達した。

※ 夕暮れが近いことを感じさせるイワオヌプリの山頂標識です。
時間も遅かったので、頂上では写真を撮り、飲み物を口にしただけで直ぐに下山を開始した。
大きな岩がゴロゴロと転がっている下山路は、登るより神経を使う。慎重に、慎重に下山することに心がけた。

※ このように岩がゴロゴロした中での下山は慎重にならざるを得ません。
初級レベルの山とはいえ、私のような体力のないものにとって二つの山を一日で登ることには身体の方に抵抗感があったようだ。
間もなく下山完了という階段にかかる前ごろ、眩暈の症状が出て、どうしたものかと思ったが、下山を続けるよりほかなかった。
続いて階段の下降に入ったときだった。今度はふくらはぎの裏が攣る症状が出た。この症状はこれまでも何度か遭遇していた。立ち止まり懸命に筋を伸ばすことを心がけた。
なんとかだましだまし、下山にも登山と同じくらい時間をかけて登山口に下りてくることができた。
※ 今シーズンの登山はこのイワオヌプリをもって終了かな?と思っています。
【イワオヌプリ(五色温泉コース) 登山データ】
標 高 1116m (標高差 366m)
駐車場 国道58号線上に「観光案内所」があり、そこに20台程度の駐車場有り。その他にも駐車場がある。
行 程 《グランドシニアの足とお考えください》
登山口→(35分)→チセヌプリ分岐→(40分)→イワオヌプリ山頂→(35分)→チセヌプリ分岐→(35分)→登山口
時 間 上り(1時間15分) 下り(1時間10分)
天 候 晴れ一部雲、弱い風
登山日 ‘17/10/16
登山路の前半から中盤の状況を見て「これは楽勝!」と思ったのだが、そうは問屋が卸してはくれない。頂上直下の大きな岩が立ちはだかる急斜面の連続に音を上げながらも、眺望の素晴らしい山頂に立つことができた。

※ 昨日のブログで掲載したパノラマ版です。四つの山が見事に重なって見えます。
この日(10月16日)、寝不足ながらも早起きし、およそ2時間半かけて、登山口となる「神仙沼レストハウス」の駐車場についたのは午前7時過ぎ、駐車場には一番乗りだったが、直ぐ後に男女のペアの車が停まった。
登山準備をし、午前7時25分空気がひんやりする中、登山を開始した。天気は快晴である。

※ 朝7時過ぎの「神仙沼レストハウス」の駐車場です。私の車の他、もう一台が…。

※ 神仙沼に至る木道がシャクナゲ岳の登山口でもあります。
最初は木道が続く。コースから少し外れるが「神仙沼」に寄ることにした。神仙沼は池塘を配した高層湿原(神仙沼湿原)の奥まったところにあった。以前来たときは沼の中から水草が顔を出し、必ずしも美しいとは思えなかったのだが、今回は水草もそれほど目立たなく、なかなか神秘的に見えた。

※ 神仙沼湿原には、池塘が配され黄葉した黄金色の水草が湿原を染めていました。

※ 空を映した神秘的な神仙沼が静かに佇んでいました。
神仙沼から20分ほどゆくと「長沼」が現れた。特に感動するほどの沼ではないが、長沼の対岸にはチセヌプリが屹立していて一幅の絵といった感じである。
長沼までは道は比較的整備されていたが、長沼からは本格的な登山道という感じワイルドな道に変わった。
閉口したのはぬかるんだ道である。この時期は、道が凍ったり、融けたりを繰り返すのだろうか、ちょっとしたところは全体がぬかるんでいて、そこを避けて通るのが大変だった。

※ 周辺には、神仙沼、長沼、大沼、シャクナゲ沼と多くの沼があり、沼巡りのコースもあるようです。

※白樺の木はすっかり葉を落としていました。

※ 長沼と、その向こうに聳えるチセヌプリの山容です。逆光なのがちょっと残念です。

※ ご覧のようなぬかるみがいたるところに見られて、私を悩ませました。
傾斜はそれほどでもないのだが、何せ道がワイルドで、岩が転がっていたり、立木が道を塞いでいたり、と変化に富んでいた。
それでも徐々に、徐々に高度を稼いで登り続けた。
長沼から45分後、頭上を覆う立木がなくなってきたと思ったら、カムイヌプリとシャクナゲ岳に分かれる分岐点に着いた。
分岐点からはこれから登るシャクナゲ岳、2013年に登った経験のあるチセヌプリがくっきりと見えた。だから、登山口からここの分岐までは2013年に一度登ったことのある経路だった。
この分岐点から先、シャクナゲ岳山頂までが初めての道となる。

※ 分岐点が近い岩場です。写真の上から朝日が射してきているのが分かります。

※ 分岐点の表示ですが、雨風のために表示の文字は消えていました。傍に別の案内がありました。

※ 分岐点から見たチセヌプリの山頂です。山頂は写真通り平らに広がっています。

※ こちらはこれから登るシャクナゲ岳です。左側のピークと思われます。
分岐点からは尾根歩きのようななだらかな道が続き、「この調子では楽勝だな…」と思い始めていた。
ところが!!ちょうど「シャクナゲ沼」との分岐点を過ぎたあたりからだったろうか?大きな岩が積み重なった急斜面が現れた。一つ一つの岩を乗り越えるのが大変だった。中には段差が大きすぎて、コンパスの短い私の脚ではどこに足をかけていいのやら、二度、三度と思案の末になんとか乗り越えたところもあった。

※ 急斜面が始まる前に撮ったシャクナゲ岳の山頂です。

※ 頂上直下では、このような岩場が次から次へと現れ、私を悩ませました。

※ 岩場の陰には前夜降った(?)みぞれが融けずに残っていました。

※ こんな大きな岩場をどう乗り越えるか、二度、三度と試行錯誤を繰り返しました。
正確に時間は測っていなかったが、そんな岩山と格闘すること30分(?)、岩山の途中で私を軽~く追い抜いていった若い人に迎えられ、シャクナゲ岳山頂に立った。
眺望は360度遮るものがない最高の眺望だった。私が判別できた山は、目国内岳、今年9月に登った昆布岳などだったが、羊蹄山、アンヌプリ、イワオヌプリ、チセヌプリの四つの山が重なって見える光景には感激した。
また、よく見てみる海岸線が私の眼の中に入った。なんと日本海、そして岩内町の街並みも望むことができた。

※ 山頂標識がちょっと曲がっていますね。強い風のせいですかね??

※ 山頂が尖っているのが特徴の目国内岳です。(いつか登ってみたい!)

※ ちょっと遠くに特徴のある山頂の昆布岳が望めました。

※ 山頂からは日本海、そして岩内の街並みも望めました。
山頂滞在は20分、もっとゆっくりしたい気持ちもあったが、後続のカップルが狭い山頂で仲良くされるところに長居するのも無粋と考え腰を上げた。
帰路、これもコース外になる「シャクナゲ沼」に寄ってみた。長沼同様、沼越しに見える目国内岳の尖った山頂が象徴的だった。(いつか登らねば…)

※ シャクナゲ沼の向こうに目国内岳の山頂が望めます。
かかった時間を見ると、登山も、下山も同じ時間かかっている。帰路「シャクナゲ沼」に寄ったこともあるが、大きな岩を降りる際、足腰の弱った老人にはことのほか慎重にならざるを得ないことと、ぬかるんだ道で登山靴の底に付いた泥のために滑りやすくなっていたため、これも慎重な下山となった結果のようだ。ということで標準時間よりなんと50分もオーバーして下山したことになる。
まあ、仕方がないですね。安全第一ですから…。
【シャクナゲ岳(長沼コース) 登山データ】
標 高 1074m (標高差 323m)
駐車場 国道66号線上に「神仙沼レストハウス」があり、そこに大きな駐車場有り
行 程 《グランドシニアの足とお考えください》
登山口→(15分)→神仙沼→(20分)→長沼→(45分)→チセヌプリ分岐→(50分)→シャクナゲ岳山頂→(30分)→シャクナゲ沼→(40分)→チセヌプリ分岐→(40分)→長沼→(20分)→登山口
時 間 上り(2時間10分) 下り(2時間10分) ※ 登山時に神仙沼、下山時にシャクナゲ沼に立ち寄った時間も含めて
天 候 快晴、風無し
登山日 ‘17/10/16

※ 昨日のブログで掲載したパノラマ版です。四つの山が見事に重なって見えます。
この日(10月16日)、寝不足ながらも早起きし、およそ2時間半かけて、登山口となる「神仙沼レストハウス」の駐車場についたのは午前7時過ぎ、駐車場には一番乗りだったが、直ぐ後に男女のペアの車が停まった。
登山準備をし、午前7時25分空気がひんやりする中、登山を開始した。天気は快晴である。

※ 朝7時過ぎの「神仙沼レストハウス」の駐車場です。私の車の他、もう一台が…。

※ 神仙沼に至る木道がシャクナゲ岳の登山口でもあります。
最初は木道が続く。コースから少し外れるが「神仙沼」に寄ることにした。神仙沼は池塘を配した高層湿原(神仙沼湿原)の奥まったところにあった。以前来たときは沼の中から水草が顔を出し、必ずしも美しいとは思えなかったのだが、今回は水草もそれほど目立たなく、なかなか神秘的に見えた。

※ 神仙沼湿原には、池塘が配され黄葉した黄金色の水草が湿原を染めていました。

※ 空を映した神秘的な神仙沼が静かに佇んでいました。
神仙沼から20分ほどゆくと「長沼」が現れた。特に感動するほどの沼ではないが、長沼の対岸にはチセヌプリが屹立していて一幅の絵といった感じである。
長沼までは道は比較的整備されていたが、長沼からは本格的な登山道という感じワイルドな道に変わった。
閉口したのはぬかるんだ道である。この時期は、道が凍ったり、融けたりを繰り返すのだろうか、ちょっとしたところは全体がぬかるんでいて、そこを避けて通るのが大変だった。

※ 周辺には、神仙沼、長沼、大沼、シャクナゲ沼と多くの沼があり、沼巡りのコースもあるようです。

※白樺の木はすっかり葉を落としていました。

※ 長沼と、その向こうに聳えるチセヌプリの山容です。逆光なのがちょっと残念です。

※ ご覧のようなぬかるみがいたるところに見られて、私を悩ませました。
傾斜はそれほどでもないのだが、何せ道がワイルドで、岩が転がっていたり、立木が道を塞いでいたり、と変化に富んでいた。
それでも徐々に、徐々に高度を稼いで登り続けた。
長沼から45分後、頭上を覆う立木がなくなってきたと思ったら、カムイヌプリとシャクナゲ岳に分かれる分岐点に着いた。
分岐点からはこれから登るシャクナゲ岳、2013年に登った経験のあるチセヌプリがくっきりと見えた。だから、登山口からここの分岐までは2013年に一度登ったことのある経路だった。
この分岐点から先、シャクナゲ岳山頂までが初めての道となる。

※ 分岐点が近い岩場です。写真の上から朝日が射してきているのが分かります。

※ 分岐点の表示ですが、雨風のために表示の文字は消えていました。傍に別の案内がありました。

※ 分岐点から見たチセヌプリの山頂です。山頂は写真通り平らに広がっています。

※ こちらはこれから登るシャクナゲ岳です。左側のピークと思われます。
分岐点からは尾根歩きのようななだらかな道が続き、「この調子では楽勝だな…」と思い始めていた。
ところが!!ちょうど「シャクナゲ沼」との分岐点を過ぎたあたりからだったろうか?大きな岩が積み重なった急斜面が現れた。一つ一つの岩を乗り越えるのが大変だった。中には段差が大きすぎて、コンパスの短い私の脚ではどこに足をかけていいのやら、二度、三度と思案の末になんとか乗り越えたところもあった。

※ 急斜面が始まる前に撮ったシャクナゲ岳の山頂です。

※ 頂上直下では、このような岩場が次から次へと現れ、私を悩ませました。

※ 岩場の陰には前夜降った(?)みぞれが融けずに残っていました。

※ こんな大きな岩場をどう乗り越えるか、二度、三度と試行錯誤を繰り返しました。
正確に時間は測っていなかったが、そんな岩山と格闘すること30分(?)、岩山の途中で私を軽~く追い抜いていった若い人に迎えられ、シャクナゲ岳山頂に立った。
眺望は360度遮るものがない最高の眺望だった。私が判別できた山は、目国内岳、今年9月に登った昆布岳などだったが、羊蹄山、アンヌプリ、イワオヌプリ、チセヌプリの四つの山が重なって見える光景には感激した。
また、よく見てみる海岸線が私の眼の中に入った。なんと日本海、そして岩内町の街並みも望むことができた。

※ 山頂標識がちょっと曲がっていますね。強い風のせいですかね??

※ 山頂が尖っているのが特徴の目国内岳です。(いつか登ってみたい!)

※ ちょっと遠くに特徴のある山頂の昆布岳が望めました。

※ 山頂からは日本海、そして岩内の街並みも望めました。
山頂滞在は20分、もっとゆっくりしたい気持ちもあったが、後続のカップルが狭い山頂で仲良くされるところに長居するのも無粋と考え腰を上げた。
帰路、これもコース外になる「シャクナゲ沼」に寄ってみた。長沼同様、沼越しに見える目国内岳の尖った山頂が象徴的だった。(いつか登らねば…)

※ シャクナゲ沼の向こうに目国内岳の山頂が望めます。
かかった時間を見ると、登山も、下山も同じ時間かかっている。帰路「シャクナゲ沼」に寄ったこともあるが、大きな岩を降りる際、足腰の弱った老人にはことのほか慎重にならざるを得ないことと、ぬかるんだ道で登山靴の底に付いた泥のために滑りやすくなっていたため、これも慎重な下山となった結果のようだ。ということで標準時間よりなんと50分もオーバーして下山したことになる。
まあ、仕方がないですね。安全第一ですから…。
【シャクナゲ岳(長沼コース) 登山データ】
標 高 1074m (標高差 323m)
駐車場 国道66号線上に「神仙沼レストハウス」があり、そこに大きな駐車場有り
行 程 《グランドシニアの足とお考えください》
登山口→(15分)→神仙沼→(20分)→長沼→(45分)→チセヌプリ分岐→(50分)→シャクナゲ岳山頂→(30分)→シャクナゲ沼→(40分)→チセヌプリ分岐→(40分)→長沼→(20分)→登山口
時 間 上り(2時間10分) 下り(2時間10分) ※ 登山時に神仙沼、下山時にシャクナゲ沼に立ち寄った時間も含めて
天 候 快晴、風無し
登山日 ‘17/10/16
当初の予定では、今日シャクナゲ岳を、明日イワオヌプリに登る予定だった。しかし、予定を変更して、二つの山を一日で登ってしまい、先ほど帰宅した。

※ シャクナゲ岳山頂からちょっと面白い写真が撮れました。奥から羊蹄山、アンヌプリ、イワオヌプリ、チセヌプリの四つの山が重なって見えました。
本当はこの二つの山を紅葉時期に登りたいと思っていた。
ところが私自身の会議や講座受講のスケジュールと、現地の天気予報を睨みながら検討していたところ、山の紅葉時期を逃がしてしまうことになった。
過日、10日間予報を見ていたところ、16日(月)と 17日(火)が「晴れ」と出ていて、私のスケジュールもなんとか都合できそうということで決行を決めたのだった。
天気はバッチリだったが、やはり紅葉は過ぎていた。
シャクナゲ岳の登山口をスタートしたのは午前7時25分だった。天気は良く、時間にも余裕があったので、コース外の沼などに立ち寄ったこともあり、下山を完了したのは12時20分だった。登山口でゆっくりした後、温泉に入る前に明日登るイワオヌプリの登山口の様子を見ておこうと五色温泉のところに向かった。
そこへ向かう途中、突如「あれっ!?この時間からでもイワオヌプリに登れるかもしれない」と思い始めた。登山口に着くと、ちょうどイワオヌプリ登山を終えた方がいた。その方に「これからでも登れますかねぇ?」と問うと、「十分明るいうちに帰ってこれます」という答えが返ってきたので、即断した。
実は明日の午後、会議が予定されているのでイワオヌプリには明朝早く登って帰札しなければならなかった。また、朝夕冷たくなった10月の車中泊に少々の不安もあった。
そうした理由から、体力のない私としてはちょっと無理をしたが、一日で二つの山を登ることを決断したのだ。二つの山とも初級レベルの山だったということもあるのだが…。
それでも私にはけっこうな疲労が残った。
そのため、山行の詳しいレポは明日以降に投稿することにし、早く寝て疲労回復に努めます。

※ シャクナゲ岳山頂からちょっと面白い写真が撮れました。奥から羊蹄山、アンヌプリ、イワオヌプリ、チセヌプリの四つの山が重なって見えました。
本当はこの二つの山を紅葉時期に登りたいと思っていた。
ところが私自身の会議や講座受講のスケジュールと、現地の天気予報を睨みながら検討していたところ、山の紅葉時期を逃がしてしまうことになった。
過日、10日間予報を見ていたところ、16日(月)と 17日(火)が「晴れ」と出ていて、私のスケジュールもなんとか都合できそうということで決行を決めたのだった。
天気はバッチリだったが、やはり紅葉は過ぎていた。
シャクナゲ岳の登山口をスタートしたのは午前7時25分だった。天気は良く、時間にも余裕があったので、コース外の沼などに立ち寄ったこともあり、下山を完了したのは12時20分だった。登山口でゆっくりした後、温泉に入る前に明日登るイワオヌプリの登山口の様子を見ておこうと五色温泉のところに向かった。
そこへ向かう途中、突如「あれっ!?この時間からでもイワオヌプリに登れるかもしれない」と思い始めた。登山口に着くと、ちょうどイワオヌプリ登山を終えた方がいた。その方に「これからでも登れますかねぇ?」と問うと、「十分明るいうちに帰ってこれます」という答えが返ってきたので、即断した。
実は明日の午後、会議が予定されているのでイワオヌプリには明朝早く登って帰札しなければならなかった。また、朝夕冷たくなった10月の車中泊に少々の不安もあった。
そうした理由から、体力のない私としてはちょっと無理をしたが、一日で二つの山を登ることを決断したのだ。二つの山とも初級レベルの山だったということもあるのだが…。
それでも私にはけっこうな疲労が残った。
そのため、山行の詳しいレポは明日以降に投稿することにし、早く寝て疲労回復に努めます。
海に面しているわけでもないのに、その昔札幌は「水の都」だったと講師は言う。なぜそう言わしめたのか、NPO法人「北海道総合地質学センター」の研究員から話を聞いた。
10月13日(金)夜、北海道総合地質学センター主催の「札幌の失われた川を歩く」と題する講座が開催された。講座は2日間にわたるもので、第1日目が座学、第2日目が現地を巡検するという講座だった。
座学だけの参加も可、ということだったので、私は1日目の座学だけ参加した。
座学は、同センターのシニア研究員である宮坂省吾氏が「札幌の失われた川を尋ねて ~「水の都」札幌~ 」と題して講義された。
地質学の話など一般には難しい話だが、宮坂氏は一般向けに易しく、分かりやすくお話された。
宮坂氏が、札幌を「水の都」と称するのは、概ね次のような説明だったと理解した。

※ 講師を務められた宮坂省吾氏です。
札幌の現在の市街地は、豊平川の扇状地に開けている。
扇状地の特徴として、山間を下ってきた川の水は、砂や礫が堆積した扇状地まで下ると多くの水が地下に吸収されてしまう。その水が、扇状地の各所において再び地上に噴き出し、多くの流れを造ったという。
扇状地において水が噴き出したところを、アイヌたちは「メム(湧泉沼)」と呼んだ。そのメムから噴き出した水がいたるところに流れを造ったという。そのため札幌の地には川が網目状に張り巡らされていたそうだ。宮坂氏は、その痕跡が札幌市内のいたるところに見て取れると話された。

※ およそ2,000年前に札幌市内を流れていた川です。北大図書館所蔵の貴重な資料ですが、
講師が公開を前提として借用しているとのことですので、ウェブ上の載せることも可と判断して掲載しました。
宮坂氏は北大の図書館に所蔵されている古地図を提示してくれた。
なるほど札幌市内には今では見られない多くの川が存在していたことが分かる。その川の名は、祖先河川としてコトニ川、サッポロ川(現豊平川)があり、そこに注ぐ川としてシノロ川、ハチャム川、ケネウシ川、ヨコシッペ川、サクシコトニ川、チュプナペッ川、シンノスケコトニ川、等々…。(いずれもアイヌ語名)
※ サクシコトニ川は、現在サクシュコトニ川とも称されている。
上記の川の中で、サクシコトニ川が北大構内を流れていることは良く知られている。このサクシコトニ川の源流は現在マンション建築が進む旧伊藤邸内にあったメムから流れ出たものといわれているそうだ。現在、メムの水は枯れ、北大構内を流れるサクシコトニ川は人工で汲み上げた水を流していることも多くの人の知るところである。
今でこそサクシコトニ川は小さなかわいい流れであるが、もともとはかなりの幅があったようだ。北大の中央ローンのところは川の両岸が高くなって自然堤防のようになっているが、昔はそこまで水が流れていた跡があり、サケが遡上し、1931年には手づかみで獲ったという記録が残っているそうだ。

※ 右側の青い流れがサクシコトニ川です。その源が旧伊藤邸になります。
また、北大植物園内には現在も川が残っているが、これも植物園内にメムがあり、チュナペッ川とシンノスケコトニ川が流れ、西のポロトコトニ川に合流していそうだ。これらの川はところによって川幅が20~30mにもなっていたという形跡が残っているという。
また、園内にはメムの水が溜まった「ひょうたん池」があったが、その泉は枯れ、現在は湿生園になっているそうだ。
宮坂氏が今回紹介したのは、主として北大に関係する北大構内、北大植物園、偕楽園に限定しての説明だったが、札幌市内は13のメムがあったと伝えられているが、実際にはもっとたくさんのメムが存在していたともいわれている。
するとそこから小さな流れができ、全体としては網目状に川が存在していたということもうなずける話である。
それが今、ほとんどのメムが消失してしまったのは、市街地の開発のせいのようだ。特に札幌に残っていたメムは昭和26年に一斉に枯れたともいわれているそうだ。その原因は、その年に札幌駅の地下工事が実施されたことによると伝えられている。
さらには、工業用水として地下水が利用されるようになったこと、都市化を進めるにあたって小さな流れが人工的に制御されるようになったこと、などなどによって小さな川は整理統合されていったようだ。
札幌が「水の都」だったということは意外に思えたが、説明を聞いてみると「なあ~るほど…」と納得することができた。
都市化によって、地下水が枯れたり、小さな流れが整理統合されることは、人間が快適に過ごすためにはある種いたしかたのないことなのかもしれない。
今、その痕跡は北大構内、北大植物園、あるいは知事公館の構内くらいなのかもしれないが、それでもこの大都市の都心近くに残っていることは貴重である。これからも末永く保存されることを願いたいと思う。
10月13日(金)夜、北海道総合地質学センター主催の「札幌の失われた川を歩く」と題する講座が開催された。講座は2日間にわたるもので、第1日目が座学、第2日目が現地を巡検するという講座だった。
座学だけの参加も可、ということだったので、私は1日目の座学だけ参加した。
座学は、同センターのシニア研究員である宮坂省吾氏が「札幌の失われた川を尋ねて ~「水の都」札幌~ 」と題して講義された。
地質学の話など一般には難しい話だが、宮坂氏は一般向けに易しく、分かりやすくお話された。
宮坂氏が、札幌を「水の都」と称するのは、概ね次のような説明だったと理解した。

※ 講師を務められた宮坂省吾氏です。
札幌の現在の市街地は、豊平川の扇状地に開けている。
扇状地の特徴として、山間を下ってきた川の水は、砂や礫が堆積した扇状地まで下ると多くの水が地下に吸収されてしまう。その水が、扇状地の各所において再び地上に噴き出し、多くの流れを造ったという。
扇状地において水が噴き出したところを、アイヌたちは「メム(湧泉沼)」と呼んだ。そのメムから噴き出した水がいたるところに流れを造ったという。そのため札幌の地には川が網目状に張り巡らされていたそうだ。宮坂氏は、その痕跡が札幌市内のいたるところに見て取れると話された。

※ およそ2,000年前に札幌市内を流れていた川です。北大図書館所蔵の貴重な資料ですが、
講師が公開を前提として借用しているとのことですので、ウェブ上の載せることも可と判断して掲載しました。
宮坂氏は北大の図書館に所蔵されている古地図を提示してくれた。
なるほど札幌市内には今では見られない多くの川が存在していたことが分かる。その川の名は、祖先河川としてコトニ川、サッポロ川(現豊平川)があり、そこに注ぐ川としてシノロ川、ハチャム川、ケネウシ川、ヨコシッペ川、サクシコトニ川、チュプナペッ川、シンノスケコトニ川、等々…。(いずれもアイヌ語名)
※ サクシコトニ川は、現在サクシュコトニ川とも称されている。
上記の川の中で、サクシコトニ川が北大構内を流れていることは良く知られている。このサクシコトニ川の源流は現在マンション建築が進む旧伊藤邸内にあったメムから流れ出たものといわれているそうだ。現在、メムの水は枯れ、北大構内を流れるサクシコトニ川は人工で汲み上げた水を流していることも多くの人の知るところである。
今でこそサクシコトニ川は小さなかわいい流れであるが、もともとはかなりの幅があったようだ。北大の中央ローンのところは川の両岸が高くなって自然堤防のようになっているが、昔はそこまで水が流れていた跡があり、サケが遡上し、1931年には手づかみで獲ったという記録が残っているそうだ。

※ 右側の青い流れがサクシコトニ川です。その源が旧伊藤邸になります。
また、北大植物園内には現在も川が残っているが、これも植物園内にメムがあり、チュナペッ川とシンノスケコトニ川が流れ、西のポロトコトニ川に合流していそうだ。これらの川はところによって川幅が20~30mにもなっていたという形跡が残っているという。
また、園内にはメムの水が溜まった「ひょうたん池」があったが、その泉は枯れ、現在は湿生園になっているそうだ。
宮坂氏が今回紹介したのは、主として北大に関係する北大構内、北大植物園、偕楽園に限定しての説明だったが、札幌市内は13のメムがあったと伝えられているが、実際にはもっとたくさんのメムが存在していたともいわれている。
するとそこから小さな流れができ、全体としては網目状に川が存在していたということもうなずける話である。
それが今、ほとんどのメムが消失してしまったのは、市街地の開発のせいのようだ。特に札幌に残っていたメムは昭和26年に一斉に枯れたともいわれているそうだ。その原因は、その年に札幌駅の地下工事が実施されたことによると伝えられている。
さらには、工業用水として地下水が利用されるようになったこと、都市化を進めるにあたって小さな流れが人工的に制御されるようになったこと、などなどによって小さな川は整理統合されていったようだ。
札幌が「水の都」だったということは意外に思えたが、説明を聞いてみると「なあ~るほど…」と納得することができた。
都市化によって、地下水が枯れたり、小さな流れが整理統合されることは、人間が快適に過ごすためにはある種いたしかたのないことなのかもしれない。
今、その痕跡は北大構内、北大植物園、あるいは知事公館の構内くらいなのかもしれないが、それでもこの大都市の都心近くに残っていることは貴重である。これからも末永く保存されることを願いたいと思う。
J1の第3位を快走する柏レイソルに対して、敗戦は必至かと思われた今日の戦いだった。ところが!なんとなんと!予想を大きく裏切って、3対0という大方が予想もしなかった大差でコンサが勝利した試合を聖地厚別で見届けた。

※ 本日配布されたマッチデープログラムです。本日の試合は苫小牧にあるノーザンホースパーク
の提供ということで、パークのマスコット(?)ポニー君が表紙を飾りました。
当初から観戦を予定していた柏レイソル戦だったが、対戦日が近づくにつれ「どうしたものかなぁ~」という思いが強くなっていた。というのも、柏レイソルは今シーズン快調で現在第3位をキープしている強豪である。スポーツ観戦において、応援しているチームの敗戦を見届けての帰途ほど辛く、疲労感を感ずるものである。そのことが私を躊躇させていたのだが…。
しかし、オープンドアの厚別での観戦に魅力を感じ、せめてドローで勝点1でも挙げてほしいとの願いで厚別に向かった。
リード文で表現した“聖地厚別”とは、以前厚別競技場が主戦場だったコンサは、厚別においての戦績が素晴らしかったことから、サポーターから自然発生的に“聖地厚別”と称されていたことによるものである。
※ 青空の厚別競技場で両チームの試合前のアップの様子です。

※ 熱烈サポーター席では本日も「SAPPORO」の文字を描いて闘う選手たちを後押ししました。
10月の屋外での試合である。しっかり着込んで観戦に向かったのだが、天気は快晴で、しかも日当たりの良いバックスタンドに陣取ったので、温かな中での観戦となった。
スタンドはほぼ満員(といっても発表になった観衆は9,614人だったが…)、好調をキープする柏はサポーターも熱が入っていると見え、相当数が札幌まで応援に駆け付けていた。

※ 立ち上がり、マフラーをかざして選手の入場を歓迎するサポーターたちです。

※ 遠路柏からやってきた大応援団です。
試合は予想どおり、柏が圧倒的に押しまくる試合展開となり、コンサがいつ失点するかという立ち上がりだった。
ところが、前半15分に荒野が丁寧にゴール前にセンタリングを上げると、長身190cmの新加入ジェイが競り勝って頭で落としたところに走り込んだキャプテン宮澤が蹴り込んで、鮮やかな先制点を挙げ、コンササポーターを狂喜させた。ボールを支配し続ける柏に対する典型的なカウンターだった。

※ 先制点を挙げた宮澤選手を祝福するコンサの選手たちです。
その後も試合は柏が支配し続けるのだが、コンサは何度ものピンチもGKクソンユを中心にしてゴールを割らせなかった。
すると31分、私から見たら宮澤が苦し紛れにゴール前に上げた(そんなこと、宮澤選手に聞こえたら怒られてしまいそうですが)センタリングにまたもジェイが相手キーパーに競り勝ち2点目をゲットした。
信じられない思いだったが、TV観戦している道東のT氏から「凄い。2点目。このままいけるか?」というメールが入った。私は「2点先制というと、この間の試合(対新潟戦)を思い出すねぇ。そうならないように…」と返した。

※ ハーフタイムにノーザンホースパークのポニーくんが場内を一周しました。傑作はポニーくんが糞をしたときのために塵取りをもつた人が後に付いています。
後半もまたジェイだった。後半開始6分、またまたゴール前で競り勝って3点目をゲットした。後半はコンサが風上ということもあり、試合としては前半ほど押されっぱなしという状態ではなく、欲目には一進一退という状況で時間が過ぎて、そのまま3対0と3位柏を相手に信じられない勝ちをもぎ取ってくれた!

※ 3点目をゲットしたジェイ選手を祝福する早坂選手と都倉選手です。
この試合の殊勲は何といっても3点すべてに絡んだジェイである。3点すべてが彼の長身が生んだ得点だった。
正直に言うと、私はジェイをあまり好きにはなれないのだ。というのも、まったく走れず、前線からの守備もほとんどできない選手だからだ。年齢が35歳というから仕方がないとも思えるのだが…。それでも今日のような活躍を見せられると、今後もコンサの点取り屋として期待したくなってしまう。
残り5試合、ジェイが救世主となってくれることを願うばかりだ。

※ サッカーの試合中の写真はなかなか撮れません。観戦に集中していますから…。
たまたま撮れた一枚は、途中出場の稲本選手とチャナテップ選手がボールを追っているシーンです。
それにしてもサッカーの試合は分からない。試合後のスタッツを見ると、ボール支配率はコンサの43%に対して、柏は57%。シュートもコンサ6に対して、柏は倍の12である。これだけ見ると、柏が圧倒していたように映るが、結果は真逆であった。
だから今日の試合は、たまたまコンサがチャンスを確実に決めきれたということで、試合として圧倒していたわけではない。ここがサッカーの難しさだ。よく言われるようにサッカーの場合は決定力がいかに大事かということも思い知らされた今日の試合だった。
その点、ジェイの覚醒は今後の戦いにも光明をもたらしてくれた。

※ 試合終了の瞬間、会場内は大きな歓声と拍手に包まれました。

※ サポーターに挨拶するコンサの選手たちです。背番号が見えず残念です。
さて、今日の予想外の勝ち点3はJ1残留争いを演じているコンサとしては非常に貴重な勝ち点を上積みして総勝ち点が31となった。
残り試合が5試合である。よく言われることが試合数と勝ち点が同じであればJ1残留が濃厚という。ということは全34節なので、あと3点上積みすると34である。
残り5試合は清水エスパルス以外は、全てコンサより上位のチームばかりである。(FC東京、鹿島、ガンバ大阪、鳥栖)苦しい試合が続くが、今日の勝利で可能性が広がったともいえる。J1残留を決めてほしいものである。

※ 本日配布されたマッチデープログラムです。本日の試合は苫小牧にあるノーザンホースパーク
の提供ということで、パークのマスコット(?)ポニー君が表紙を飾りました。
当初から観戦を予定していた柏レイソル戦だったが、対戦日が近づくにつれ「どうしたものかなぁ~」という思いが強くなっていた。というのも、柏レイソルは今シーズン快調で現在第3位をキープしている強豪である。スポーツ観戦において、応援しているチームの敗戦を見届けての帰途ほど辛く、疲労感を感ずるものである。そのことが私を躊躇させていたのだが…。
しかし、オープンドアの厚別での観戦に魅力を感じ、せめてドローで勝点1でも挙げてほしいとの願いで厚別に向かった。
リード文で表現した“聖地厚別”とは、以前厚別競技場が主戦場だったコンサは、厚別においての戦績が素晴らしかったことから、サポーターから自然発生的に“聖地厚別”と称されていたことによるものである。

※ 青空の厚別競技場で両チームの試合前のアップの様子です。

※ 熱烈サポーター席では本日も「SAPPORO」の文字を描いて闘う選手たちを後押ししました。
10月の屋外での試合である。しっかり着込んで観戦に向かったのだが、天気は快晴で、しかも日当たりの良いバックスタンドに陣取ったので、温かな中での観戦となった。
スタンドはほぼ満員(といっても発表になった観衆は9,614人だったが…)、好調をキープする柏はサポーターも熱が入っていると見え、相当数が札幌まで応援に駆け付けていた。

※ 立ち上がり、マフラーをかざして選手の入場を歓迎するサポーターたちです。

※ 遠路柏からやってきた大応援団です。
試合は予想どおり、柏が圧倒的に押しまくる試合展開となり、コンサがいつ失点するかという立ち上がりだった。
ところが、前半15分に荒野が丁寧にゴール前にセンタリングを上げると、長身190cmの新加入ジェイが競り勝って頭で落としたところに走り込んだキャプテン宮澤が蹴り込んで、鮮やかな先制点を挙げ、コンササポーターを狂喜させた。ボールを支配し続ける柏に対する典型的なカウンターだった。

※ 先制点を挙げた宮澤選手を祝福するコンサの選手たちです。
その後も試合は柏が支配し続けるのだが、コンサは何度ものピンチもGKクソンユを中心にしてゴールを割らせなかった。
すると31分、私から見たら宮澤が苦し紛れにゴール前に上げた(そんなこと、宮澤選手に聞こえたら怒られてしまいそうですが)センタリングにまたもジェイが相手キーパーに競り勝ち2点目をゲットした。
信じられない思いだったが、TV観戦している道東のT氏から「凄い。2点目。このままいけるか?」というメールが入った。私は「2点先制というと、この間の試合(対新潟戦)を思い出すねぇ。そうならないように…」と返した。

※ ハーフタイムにノーザンホースパークのポニーくんが場内を一周しました。傑作はポニーくんが糞をしたときのために塵取りをもつた人が後に付いています。
後半もまたジェイだった。後半開始6分、またまたゴール前で競り勝って3点目をゲットした。後半はコンサが風上ということもあり、試合としては前半ほど押されっぱなしという状態ではなく、欲目には一進一退という状況で時間が過ぎて、そのまま3対0と3位柏を相手に信じられない勝ちをもぎ取ってくれた!

※ 3点目をゲットしたジェイ選手を祝福する早坂選手と都倉選手です。
この試合の殊勲は何といっても3点すべてに絡んだジェイである。3点すべてが彼の長身が生んだ得点だった。
正直に言うと、私はジェイをあまり好きにはなれないのだ。というのも、まったく走れず、前線からの守備もほとんどできない選手だからだ。年齢が35歳というから仕方がないとも思えるのだが…。それでも今日のような活躍を見せられると、今後もコンサの点取り屋として期待したくなってしまう。
残り5試合、ジェイが救世主となってくれることを願うばかりだ。

※ サッカーの試合中の写真はなかなか撮れません。観戦に集中していますから…。
たまたま撮れた一枚は、途中出場の稲本選手とチャナテップ選手がボールを追っているシーンです。
それにしてもサッカーの試合は分からない。試合後のスタッツを見ると、ボール支配率はコンサの43%に対して、柏は57%。シュートもコンサ6に対して、柏は倍の12である。これだけ見ると、柏が圧倒していたように映るが、結果は真逆であった。
だから今日の試合は、たまたまコンサがチャンスを確実に決めきれたということで、試合として圧倒していたわけではない。ここがサッカーの難しさだ。よく言われるようにサッカーの場合は決定力がいかに大事かということも思い知らされた今日の試合だった。
その点、ジェイの覚醒は今後の戦いにも光明をもたらしてくれた。

※ 試合終了の瞬間、会場内は大きな歓声と拍手に包まれました。

※ サポーターに挨拶するコンサの選手たちです。背番号が見えず残念です。
さて、今日の予想外の勝ち点3はJ1残留争いを演じているコンサとしては非常に貴重な勝ち点を上積みして総勝ち点が31となった。
残り試合が5試合である。よく言われることが試合数と勝ち点が同じであればJ1残留が濃厚という。ということは全34節なので、あと3点上積みすると34である。
残り5試合は清水エスパルス以外は、全てコンサより上位のチームばかりである。(FC東京、鹿島、ガンバ大阪、鳥栖)苦しい試合が続くが、今日の勝利で可能性が広がったともいえる。J1残留を決めてほしいものである。
加藤周一いう日本を代表する知識人など、私などとは真逆の存在であり、恥ずかしながら関心もほとんどない。しかし、加藤に関わる人が来札し、講演すると知り、ちょっと覗いてみることにした。
札幌大では、「地域創生入門」の公開講座と並行して、大学創立50周年記念公開講座と銘打って「個人文庫をもつ大学 ~その意義と可能性」と題する公開講座が開設された。(こちらは3回シリーズだが)
札幌大学に山口昌夫氏(東京外大名誉教授、元札幌大学長)が蔵書を寄贈し、大学に「山口文庫」ができたことはニュースで知っていた。そのことから、立命館大の「加藤周一文庫」、東京女子大の「丸山眞男文庫」の三つの個人文庫に関わる方々を招請して、その意義と可能性について語り、考える講座が開設されたということである。
その第1回として、加藤周一が遺した蔵書・遺稿・ノートなどを収蔵した「加藤周一文庫」において、加藤の遺したものから彼の業績を研究対象とする研究センター長(正式には加藤周一現在思想研究センター長)の鷹巣力氏が「活きた文庫を目指して ~加藤周一文庫の現在と未来~」と題してお話された。

センター長を務める鷹巣氏はけっして加藤の教え子とか、思想を共にした学者ではない。鷹巣氏は出版社の平凡社に勤め、加藤周一の作品を出版する担当者としてのお付き合いが長かったことから、センター長に就かれたという。もちろん鷹巣氏が単なるジャーナリストではなく、加藤研究を任せるに相応しい人物として白羽の矢が立ったのだと思われる。
ことほど左様に、加藤は弟子を育てるとか、徒党を組むということには終生無関心だった、と鷹巣氏は話した。
そのジャーナリストである鷹巣氏から見て、加藤周一は「戦後日本を代表する知識人」であり、「日本を代表する国際的知識人」でもあると評した。加藤の国際派を語る一例として、加藤は英語はもちろんのこと、フランス語、ドイツ語を自由に操ったそうだ。さらには、イタリア語、ラテン語にも通じていたという。そして海外20カ国の大学において教鞭を取った経験があったそうだ。
海外の研究者が日本文学を研究しようとするとき、加藤の論文は避けて通ることのできないものだとも語った。
加藤に心酔する鷹巣氏が語ることだから、若干は割り引いて聞かねばならないのかもしれないが、いずれにしても日本を代表する知の巨人であることは疑いようのないことである。
東大出身である加藤周一の遺品がなぜ立命館大学に寄贈されたのかについては、加藤が立命館の国際関係学部の客員教授をしていたこと、さらには立命館の国際平和ミュージアム初代館長を務めた縁があったことなどから、遺族が立命館に寄贈することを望んだことから実現したという。
加藤が寄贈したものは、書籍や蔵書で約2万冊、遺稿やノート類には手紙類、書簡、日記、手帳などさまざまなモノが含まれており、未整理の段階であるが推定では1万点くらいにのぼると推定されているそうだ。
これらを鷹巣氏は「活きた文庫」として、研究者のみならず、多くの市民にも公開する「利用される文庫」を目ざしたいとした。しかし、保存と利用とは二律背反のところがあり、現在は蔵書2万冊のうち、1万2千冊程度を開架式にして誰もが利用できる体制を取っているということだ。残る蔵書、あるいは未整理の遺稿、ノート類などについては、二段階に分けて将来にわたって公開できない貴重なモノ、研究者たちには一部公開できるもの、に分類して提供することを考えているということだった。
ノート類などの一部はデジタルアーカイブ化して、一般に供しているものもあるというが、全体をデジタルアーカイブ化するには膨大な時間を必要とするとも語っていた。

「加藤周一文庫」設置の意義について、鷹巣氏は多くを語らなかったように記憶しているが、それは私が単に聞き逃しただけかもしれない。氏が言いたかったことは、加藤周一のような日本を代表する知識人の功績を多くの人たちに知ってもらい、それぞれの将来に役立ててもらうためには、単なる所蔵・保存だけではなく、「活きた文庫」として活用される文庫を目ざしたいということだった。
今後においては、同じように設立された「山口文庫」、「丸山眞男文庫」とも連携し、大学が設置した「個人文庫」のより良い在り方について探っていきたいとした。
残り2回の講座も聴講してみようと思うが、やっぱり私にとっては無縁ともいえる大学の個人文庫である。しかし、知識としてそうした文庫の在り方を知っておくことは無駄ではあるまいと思いながら札幌大学に通うことにしよう。
札幌大では、「地域創生入門」の公開講座と並行して、大学創立50周年記念公開講座と銘打って「個人文庫をもつ大学 ~その意義と可能性」と題する公開講座が開設された。(こちらは3回シリーズだが)
札幌大学に山口昌夫氏(東京外大名誉教授、元札幌大学長)が蔵書を寄贈し、大学に「山口文庫」ができたことはニュースで知っていた。そのことから、立命館大の「加藤周一文庫」、東京女子大の「丸山眞男文庫」の三つの個人文庫に関わる方々を招請して、その意義と可能性について語り、考える講座が開設されたということである。
その第1回として、加藤周一が遺した蔵書・遺稿・ノートなどを収蔵した「加藤周一文庫」において、加藤の遺したものから彼の業績を研究対象とする研究センター長(正式には加藤周一現在思想研究センター長)の鷹巣力氏が「活きた文庫を目指して ~加藤周一文庫の現在と未来~」と題してお話された。

センター長を務める鷹巣氏はけっして加藤の教え子とか、思想を共にした学者ではない。鷹巣氏は出版社の平凡社に勤め、加藤周一の作品を出版する担当者としてのお付き合いが長かったことから、センター長に就かれたという。もちろん鷹巣氏が単なるジャーナリストではなく、加藤研究を任せるに相応しい人物として白羽の矢が立ったのだと思われる。
ことほど左様に、加藤は弟子を育てるとか、徒党を組むということには終生無関心だった、と鷹巣氏は話した。
そのジャーナリストである鷹巣氏から見て、加藤周一は「戦後日本を代表する知識人」であり、「日本を代表する国際的知識人」でもあると評した。加藤の国際派を語る一例として、加藤は英語はもちろんのこと、フランス語、ドイツ語を自由に操ったそうだ。さらには、イタリア語、ラテン語にも通じていたという。そして海外20カ国の大学において教鞭を取った経験があったそうだ。
海外の研究者が日本文学を研究しようとするとき、加藤の論文は避けて通ることのできないものだとも語った。
加藤に心酔する鷹巣氏が語ることだから、若干は割り引いて聞かねばならないのかもしれないが、いずれにしても日本を代表する知の巨人であることは疑いようのないことである。
東大出身である加藤周一の遺品がなぜ立命館大学に寄贈されたのかについては、加藤が立命館の国際関係学部の客員教授をしていたこと、さらには立命館の国際平和ミュージアム初代館長を務めた縁があったことなどから、遺族が立命館に寄贈することを望んだことから実現したという。
加藤が寄贈したものは、書籍や蔵書で約2万冊、遺稿やノート類には手紙類、書簡、日記、手帳などさまざまなモノが含まれており、未整理の段階であるが推定では1万点くらいにのぼると推定されているそうだ。
これらを鷹巣氏は「活きた文庫」として、研究者のみならず、多くの市民にも公開する「利用される文庫」を目ざしたいとした。しかし、保存と利用とは二律背反のところがあり、現在は蔵書2万冊のうち、1万2千冊程度を開架式にして誰もが利用できる体制を取っているということだ。残る蔵書、あるいは未整理の遺稿、ノート類などについては、二段階に分けて将来にわたって公開できない貴重なモノ、研究者たちには一部公開できるもの、に分類して提供することを考えているということだった。
ノート類などの一部はデジタルアーカイブ化して、一般に供しているものもあるというが、全体をデジタルアーカイブ化するには膨大な時間を必要とするとも語っていた。

「加藤周一文庫」設置の意義について、鷹巣氏は多くを語らなかったように記憶しているが、それは私が単に聞き逃しただけかもしれない。氏が言いたかったことは、加藤周一のような日本を代表する知識人の功績を多くの人たちに知ってもらい、それぞれの将来に役立ててもらうためには、単なる所蔵・保存だけではなく、「活きた文庫」として活用される文庫を目ざしたいということだった。
今後においては、同じように設立された「山口文庫」、「丸山眞男文庫」とも連携し、大学が設置した「個人文庫」のより良い在り方について探っていきたいとした。
残り2回の講座も聴講してみようと思うが、やっぱり私にとっては無縁ともいえる大学の個人文庫である。しかし、知識としてそうした文庫の在り方を知っておくことは無駄ではあるまいと思いながら札幌大学に通うことにしよう。
オーダーした「スタミナ野菜ラーメン」は、「これは注文を間違ったかも?」と思えるほど、いかにもスタミナがつきそうな大変なボリュームだった。ハフハフ言いながら、なんとか麺だけは征服したのだが…。

※ いかにもマチのラーメン屋さん、といった風情の店の外観です。
最近訪れた「福来軒」や「コクミンショクドウ」のように、ぜひともこの店に!と思いながら訪れた店ではなかった。この日私は、友人と二人でモエレ沼公園のガラスのピラミッド内で行われた「モエレ・オータムライブ」を聴きに行った際に昼どきとなって、近くに麺店はないかと探した結果、たまたま見つけた麺店「麺龍」に入ったということなのだ。

※ 店内は昭和のラーメン屋さんの雰囲気が残る感じでした。
「麺龍」とは、なかなかそれらしいネーミングであるが、店内には初老というよりはかなりお歳を召した二人の女性が切り盛りしている店だった。昼どきだというのに店の客は一組しか見当たらず「あれっ?店のチョイスに失敗したかも?」と思ったが、椅子に腰かけた後だったので、後の祭りだった。店内もお世辞にもあか抜けているとは言い難かった。

※ テーブルにおかれたメニュー表です。いずれも良心的なリーズナブルな価格設定です。
私たちはネット上でまあまあの評判をとっている「スタミナ野菜ラーメン」(700円)をオーダーした。味は二人とも味噌味をチョイスした。(友人は薄味にしたが、私はノーマルだった)
のんびりと調理した(?)ラーメンがお盆に載せられて出てきた。丼たっぷりに野菜が載っかっていた。そして私の方には「味が薄ければ加えて、と別皿に味噌が付いてきた」
スープを口に含んでみる。「ん? まあまあじゃないの」というのが私の最初の感想だった。

※ 出てきたボリュームたっぷりの「スタミナ野菜ラーメン」(味噌味)です。
野菜、特に白菜とニンジンが目立った。その他に豚バラ、タケノコ、モヤシ、長ネギがトッピングされていた。
最初は快調に箸が進んだものの、なかなか麺も野菜も減らない。時折りスープを飲もうとするのだが、ラードが厚くかかっているせいだろうか、スープはいつまでも熱くわずかずつしか飲み込めない。
そうこうするうちに、スープの濃さが気になってきた。別皿の味噌など加える気にはとてもなれなかった。
お腹の方は、もうパンパン。なんとか麺は完食したが、野菜やスープは完全に残してしまった。

※ 店内には壁にもメニューが…。
味的に超お勧め!とは言いかねるが、お腹を空かしたスポーツマンのような人には好まれる店かもしれない。いかにもスタミナがつきそうです!
【麺龍 データー】
札幌市東区東苗穂14条2丁目17-10 1F
電 話 011-792-3470
営業時間 11:00~21:00
定休日 水曜日
座 席 18席(カウンター 12席、テーブル 6×1席)
駐車場 有(店前 3台)
入店日 ‘17/10/07

※ いかにもマチのラーメン屋さん、といった風情の店の外観です。
最近訪れた「福来軒」や「コクミンショクドウ」のように、ぜひともこの店に!と思いながら訪れた店ではなかった。この日私は、友人と二人でモエレ沼公園のガラスのピラミッド内で行われた「モエレ・オータムライブ」を聴きに行った際に昼どきとなって、近くに麺店はないかと探した結果、たまたま見つけた麺店「麺龍」に入ったということなのだ。

※ 店内は昭和のラーメン屋さんの雰囲気が残る感じでした。
「麺龍」とは、なかなかそれらしいネーミングであるが、店内には初老というよりはかなりお歳を召した二人の女性が切り盛りしている店だった。昼どきだというのに店の客は一組しか見当たらず「あれっ?店のチョイスに失敗したかも?」と思ったが、椅子に腰かけた後だったので、後の祭りだった。店内もお世辞にもあか抜けているとは言い難かった。

※ テーブルにおかれたメニュー表です。いずれも良心的なリーズナブルな価格設定です。
私たちはネット上でまあまあの評判をとっている「スタミナ野菜ラーメン」(700円)をオーダーした。味は二人とも味噌味をチョイスした。(友人は薄味にしたが、私はノーマルだった)
のんびりと調理した(?)ラーメンがお盆に載せられて出てきた。丼たっぷりに野菜が載っかっていた。そして私の方には「味が薄ければ加えて、と別皿に味噌が付いてきた」
スープを口に含んでみる。「ん? まあまあじゃないの」というのが私の最初の感想だった。

※ 出てきたボリュームたっぷりの「スタミナ野菜ラーメン」(味噌味)です。
野菜、特に白菜とニンジンが目立った。その他に豚バラ、タケノコ、モヤシ、長ネギがトッピングされていた。
最初は快調に箸が進んだものの、なかなか麺も野菜も減らない。時折りスープを飲もうとするのだが、ラードが厚くかかっているせいだろうか、スープはいつまでも熱くわずかずつしか飲み込めない。
そうこうするうちに、スープの濃さが気になってきた。別皿の味噌など加える気にはとてもなれなかった。
お腹の方は、もうパンパン。なんとか麺は完食したが、野菜やスープは完全に残してしまった。

※ 店内には壁にもメニューが…。
味的に超お勧め!とは言いかねるが、お腹を空かしたスポーツマンのような人には好まれる店かもしれない。いかにもスタミナがつきそうです!
【麺龍 データー】
札幌市東区東苗穂14条2丁目17-10 1F
電 話 011-792-3470
営業時間 11:00~21:00
定休日 水曜日
座 席 18席(カウンター 12席、テーブル 6×1席)
駐車場 有(店前 3台)
入店日 ‘17/10/07