田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

吉川英治著「宮本武蔵」を読む

2024-06-20 20:12:28 | 本・感想
 遅ればせながらこの度「国民文学作家」とも称された吉川英治が著した「宮本武蔵」の文庫版を読了した。非常に興味深く物語に没頭されられながら読んだのだが、昭和初期の作品とあって、今読むと若干の違和感が拭えなかったのも事実だった。

   

 私はあまり熱心に読書に勤しむというタイプではない。だから現代小説もそれほど手に取ることはなく、ましてや時代小説などほとんど読んだことがなかった。
 それが某日、中古本販売の大手「△△△△OFF」を覗いてみたら、講談社文庫版の「宮本武蔵」が格安で全8巻が並んでいた。「うん、時には時代小説もいいなぁ…」程度の軽い気持ちで購入した。(何せ格安である)
 早速読み始めてみると、これが期待どおりに面白い。
 吉川作品によると武蔵は関ヶ原の戦いで西軍に加わり参戦し、西軍敗戦後は隠遁し、剣の道に精進し、魂の求道を通して鏡のように澄明な境地に達する過程を詳細に描いているのだが、その過程の多くは吉川英治の創作と言われている。例えば、関ヶ原の戦いにおいて武蔵の父は東軍に加わったという史実が残されているという。親子が東西に分かれて戦うのは不自然ではないか、と主張する史家も多い、といったように…。
 吉川作品はある意味で、自らの創作も交えて宮本武蔵を希代の英雄としてまつり上げる上で大きな役割を果たしたようである。

      
      ※ 「宮本武蔵」の著者・吉川英治氏です。

 さて、物語全体についての私の印象であるが、私のように知識の浅い者にとっては “宮本武蔵” というと佐々木小次郎との “巌流島の決闘” が直ぐに思い浮かぶ。私はその場面が「いつ来るのか、いつ来るのか」と読み進めたのだが、いっこうにその場面が表れない。なにせ文庫本は一冊が400ベージほどの量で8冊もあるのだが、物語の大半は、武蔵は野にあって自ら剣を磨きながら、二人の弟子(三木之介、伊織)を相前後して従えつつ、幾多の決闘を勝利する場面もあるが、その他武蔵を恋い慕う “おつう” とのまるでメロドラマのようなすれ違い、あるいは武蔵を宿的として命を狙うことに執念を燃やす “お杉ばば” の武蔵追跡劇、もちろん武蔵の本当の宿敵・佐々木小次郎もところどころで登場するが…。
 結局、私が期待しながら読み進めた “巌流島の決闘” 場面は第8巻の357~366頁の僅か10頁足らずで描き、それがこの「宮本武蔵」の終焉だった…。
 吉川英治としては「巌流島の決闘」を最大最高の見せ場として、そこにいたる大河のような流れをそこに収斂させるという手法を取ったのだろう。
 しかし、私のような時代小説を解しない者にとっては、例え「巌流島の決闘」を最後の見せ場とするとしても、武蔵と小次郎のそれまでの生き様や二人の生き方の違いなど、巌流島に至る二人の英雄の過程をもっと詳細に描いてほしかった思いが残った。また、巌流島の後の武蔵の生き様も知りたいと思ったのは素人の浅はかさなのだろうか?

          
         ※ 宮本武蔵自らが描いたとされる自画像です。

 「国民文学作家という大家の作品に向かって、お前はなんてことを言うんだ!」と多くの方々からお叱りを受けそうだが、素人ゆえの怖さ知らずで書いてしまったことをお許しいただければと思います。
 吉川英治著「宮本武蔵」を数週間にわたって楽しませてもらいました。
 (私の文章中に事実誤認のところがあったとすれば、全て私の責任です)


本番!さっぽろラウンドウォーク セクション4(石狩南高校 ⇒ 拓北駅)

2024-06-19 19:50:25 | さっぽろラウンドウォーク
 さっぽろラウンドウォーク第3弾である。今回は小雨に見舞われたり、ルートの変更を余儀なくされたりした。しかし、大きな問題もなくこれまでよりメンバーに1人が加わり5人の仲間と予定どおりウォークキングを終えた。

 

 昨日(6月18日)、「めだかの学校」札幌ラウンドウォーク踏破クラブとして3度目となるラウンドウォーク セクション4を実施した。
 今回はいつものメンバーに加えて、これまで都合で参加できなかった1人も加えて計5人でセクション4である石狩南高校 ⇒ JR拓北駅間約14キロのウォーキングを楽しんだ。
 実施にあたって一つ問題が生起した。それはルートの一部で道路工事が行われており、前日に問い合わせたところ「通行不能である」との回答だった。そこで検討した結果、本来のルートより5~600メートル回り道となるが、石狩市側に迂回することで工事現場を通らなくともルートを繋ぐ方法をとることにした。
 当日は9時20分に地下鉄「麻生駅」に集合し、麻生駅からバスに乗り換えてスタート地点の石狩市・石狩南高校に向かった。

    
    ※ 今回のスタート地点となった南石狩高校の校舎です。

 午前10時、用意を整えスタートした。コンディションは曇り空、雨が心配される中でのスタートだった。スタートして直ぐ、札幌市と石狩市の境界を流れる「発寒川」の右岸(つまり札幌市側)の堤防上に造成されていたサイクリングロードを往く。
   
    
     ※ こうした単調な道が延々と6キロも続きました。
    
    ※ 発寒川沿いのサイクリングロードを往くメンバーです。

 「発寒川」は一級河川とのことなのだが、その源流近くはまるで小さな小川という感じで成長した雑草に隠れて流れも良く見えないよう川だったが、堤防を進むにつれて札幌市側から小さな川が流入することで徐々にその流量を増していくようだった。

    
    ※ 下流になってようやく一級河川らしい水面になりました。

 その流入する川の中の「安春川」が流入する地点で大規模な道路工事が行われており、 ラウンドウォークで設定されたルートが通行禁止の措置が取られていたのだ。私たちは発寒川に架けられた「花川橋」を渡り石狩市に入り、下流に架かる「紅葉橋」から再び発寒川堤防を歩くこととなった。石狩市側を歩いていた時、恐れていた雨が降り出した。メンバーはそれぞれ用意した傘やポンチョで雨を避けながらウォークを続けた。

    
    ※ それぞれ雨装備をして歩くメンバーです。

 その後も「発寒川」に流入する川は「屯田川」「東屯田川」と流入するごとに「発寒川」 の流れは川幅を増していった。それでも流れそのものは緩やかで、見た目には川が流れているようには見えないほどだった。
 「東屯田川」が流入するところには二つの「遊水池」があり、そこで給水休憩をとった。
 雨は降ったり、止んだりをくり返していたが、大降りにはならなかった。
 長い、長い(私の目測で約6キロ)「発寒川」堤防ウォークの最後は「伏籠川」への流入地点だった。この流入地点は「発寒川」、「創成川」、「伏籠川」の3川が合流する地点だった。(河川を管理する側は「発寒川」、「創成川」は、 「伏籠川」に流入する支流ということになっているようだ)こうした地形も河川改修によってできたものと推定することができた。その「伏籠川」もその先直ぐに「茨戸川」に流入するという形になっていた。
 そしてコースは、「茨戸川」に面したリゾートホテル「ガトーキングダムサッポロ」の横に導かれる。幸い雨も止んでいたので、その河岸で昼食タイムとした。

    
    ※ 茨戸川沿いのベンチで昼食を摂りました。

 昼食タイムを終えると、今度は「篠路川」の河岸歩きである。この「篠路川」も河川改修によって主流から切り離された川のようだった。くねくねと曲がりくねった川筋であるが流れがまったくないようで、水面にはスイレンなど水草が大量に発生していた。
 「篠路川」沿いのウォークが終わると、しばらくは「伏籠川」に沿っての道路歩きが続いた。そしてまたまた別の川が顔を覗かせた。「篠路拓北川」である。この川もやはり河川改修によって切り離された川のように思えた。やはり曲がりくねった川筋には公園(いきいき公園)もあり、その中を歩いた。

    
    ※ 篠路拓北川沿いのマンションが川の曲線に合わせるように曲線を描いていたので面白く思いカメラに収めました。

 そして川沿い歩きが終わり、拓北の住宅街を歩いてこの日のゴールであるJR拓北駅に着いたのは午後2時だった。総行動時間4時間、昼食時間、休憩時間を除く実質行動時間は3時間10分といったところだった。
 多少雨に見舞われたものの、それほど暑くはなく、ルート全体も平坦で全員それほど疲労した表情もなく、それぞれが楽しんだウォーキングだったようだ。

    
    ※  この日のゴールとなったJR拓北駅です。

 メンバーの中のベテランウォーカーの苫小牧市在住のN氏は、札幌市民でないこともあり、初めて目にする光景も多いようだ。帰りの列車内で感想を伺った時「歩くことによって、常に発見がある」と言われた。まさしく名言である。これからも新しい発見を楽しみながらラウンドウォークを続けたい。

さっぽろの大雨災害の可能性は?

2024-06-18 18:29:32 | 講演・講義・フォーラム等
 札幌はその地形ゆえ、昔から大雨の災害に何度も遭った地域である。その後、河川の改修や土地改良などによって被害から逃れる方策をとってきたが、地球環境が変化するに伴い、まだまだ安心はできないという。専門家からお話を伺った。

 昨日6月17日(月)午後、札幌市白石消防署において札幌市防災協会が主催する「さっぽろ市防災・減災セミナー」に参加した。
 工学博士で、北大の客員教授を務めながら、北海道地域防災マスターなど防災に関する専門家である鈴木英一氏が「さっぽろの大雨災害から命を守る」と題して講演されたのを拝聴した。

    

 鈴木氏は地質学的に見て北海道は約38万年前にはちょうど札幌周辺を境にして二つに分断されていたと話された。それが約6千年前頃から海水が後退して現在の形に近い一つの北海道が形成されたという。つまり札幌周辺は非常に低い土地であり、水害に遭いやすい地域であることが地質学的にも言えることだとした。

    

 事実、記録に残る水害の記録を振り返っても、明治37年、大正2年、昭和36年、昭和56年とつい最近まで何度も大水害に見舞われている。
 その間、札幌市では市内を蛇行する河川を整備し、直線化を推し進めたり、新しく川を新設したり、堤防の整備をしたりと対策を進めてきてはいるが、けっして安心できる状況ではないという。
 それはまだ地盤そのものが低地であったり、土砂災害の危険性を孕んだ土地が存在したり、という状況がまだまだあるのだという。加えて近年の地球環境の変化(地球温暖化など)によって大雨を降らすような大気の変化が顕著であるとも云う。
 鈴木氏は「札幌で大雨が降る気象パターン」には次の四つがあるという。まず①台風の直撃によるものが6割、②前線による大雨が3割、その他③線状降水帯による大雨、④地形性降雨、などが考えられるという。

    

 その中の①台風の直撃に関しては「地球の温暖化」が大いに関わっているという。地球が温暖化したことによって、海水温の上昇が顕著であるという。そのため、温暖化以前は例え台風が発生しても海水温が低いことから本州付近で                                     台風が衰退してしまっていたものが、温暖化後は勢力を保ったまま本道を直撃するようになったそうだ。
 このように気象のパターンが変わったことによって、札幌における水害の可能性は一段と高まっている状況だと鈴木氏は警告した。

    

 こうした中、札幌市では「浸水ハザードマップ」を作成し、市民に注意を呼び掛けている。(今回のセミナーにおいても私は居住地の中央区版のハザードマップを配布された)

      

 鈴木氏はおそらくハザードマップの作成に関与されたのだろうと思われるが、講演において各区毎の浸水危険地域、土砂災害の遭遇が危ぶまれる地域など、危険個所を個別に指摘された。
 こうした状況の中で私たちにできること、それこそが札幌市防災協会がセミナーを開催趣旨だろう。鈴木氏は、まず札幌市民が札幌の災害特性を知ってもらい、自分の住む場所の災害リスクを意識することだという。
 「ハザードマップを知る」、「家族で話し合う」、「避難訓練に参加する」などの準備を怠らぬように!と注意され講演を終えた。
 水害など災害に遭った方が「まさか自分のところが…」といったことを耳にすることが多い。その「まさか」のことに自分が遭遇する可能性がゼロではないと意識し、備えることの大切さを教えられたセミナーだった。                 

北海道開拓の村「館長さんと一緒にむら散歩」

2024-06-17 11:52:49 | 講演・講義・フォーラム等
 さすがにベテラン学芸員である。館長さんの説明は “立て板に水” のごとく、小樽の歴史のあれこれを詳細に説明してくれた。栄華を誇った小樽市から移築された4件の歴史的建造物を前に小樽市のあれこれを学ぶことができた。

 昨日6月16日、北海道開拓の村において「館長さんと一緒にむら散歩」なる催しが開催され参加した。私は偶然とあるところで催しの開催を知ったのだが、北海道開拓村では毎月例会のように開催されている催しだった。そのためか、参加者の多くは何度も参加されている方が多く、地方史マニアのような方も多いようだった。
 北海道開拓の村の館長・中島宏一氏は、1992年に学芸員として北海道開拓の村に入職され。以来北海道開拓の村一筋に研究され、2016年に館長に就任され現在に至っている。

    
    ※ 説明をいただいた「北海道開拓の村」の館長・中島宏一氏です。

 私はこれまで何度か中島氏のお話を聴いているが、その博識ぶりと明快な解説が心地良く、今回迷いなく参加を決めた。
 「館長さんと一緒にむら散歩」は、毎回北海道の開拓の村に移築された歴史的建造物を移築前に存在した市町村別に紹介しているようだ。それで今回6月は “小樽市” が対象だったようだ。
 紹介していただいた歴史的建造物は、「旧三□河本そば屋」、「旧小樽新聞社」、「旧青山家漁家住宅」、そして「旧札幌拓殖倉庫」の4件だった。
 中島氏の解説の要点をかいつまんで紹介すると…、
 まず「旧三□河本そば屋」は、北海道で古くから栄えた小樽の市街地にあって、地域の会合や各種の宴会の場として欠かせない存在がそば屋であったという。その頃のそば屋の建物は一様に2階建てで1階は調理場や母屋として使われ、客室は2階に造られていたという。私たちが見学した「河本そば屋」も2階に4人部屋程度に間仕切りされた座敷があり、場合によっては間仕切りのふすまを取り外し、大部屋にできる造りになっていた。
 建物は木造で切妻屋根柾葺き、外壁は下見板張である。なお、石蔵は木骨石造2階建てである。

    
    ※ 「三口河本そば屋」の全景です。この建物右手に木骨石造の蔵がありました。
    
    ※ そば屋2階の客間の様子です。
    
    ※ 1階の賄い場です。汲み取り式のポンプが見えます。

 続いて訪れたのが木骨石造の3階建ての「旧小樽新聞社」である。「木骨石造」とは、木造建築と同じように木の柱や梁の軸組を造り、その外側にかすがいで石材を貼り付けた建造物を指すということだ。この「木骨石造」の建物は小樽運河沿いの倉庫群に多く見られるという。
 新聞社建物内部はほとんどが空室状態で当時の面影を思い起こすことは難しかったが中島氏のお話は、隆盛を誇った小樽市の明治年代の当時の新聞事情についてのお話が興味深かった。商都小樽は新聞界にも活況を及ぼしたという。新聞社が乱立し、それらが吸収・合併を繰り返し、やがては「小樽新聞」と「北海タイムス」の2社が独自に定期空港路線を開設して取材合戦をくり返したという。そしてついに「小樽新聞」は1909(明治42)年には広告掲載量が全国1位を記録したほどだったという。発行部数も850万部という大変な数字だったそうだ。(ちなみに第2位の「北海タイムス」も600万部だったそうだ)

    
    ※ 木骨石造3階建ての「旧小樽新聞社」の社屋です。当時は堂々たる建物だったのではないでしょうか?
    
    ※ 確か2階の編集室跡ですが、部屋には何もありませんでした。
    
    ※ 急な階段が我々世代にはけっこう怖かったですよ。

 そして3番目には「旧札幌拓殖倉庫」に導かれた。この建物は例の木骨石造の倉庫であるが、倉庫ゆえに内部に壁などはなくむき出しだったこともあり、木の柱や梁と石を “かすがい” で繋いでいるところを見ることができた。今から見れば簡単な造りでいささか危険にも見えるが、当時はそれが許される状況だったということだろう。

    
    ※ 「旧札幌拓殖倉庫」の全景です。
    
    ※ 倉庫ゆえに内部は木骨と石(札幌軟石)がむき出しでした。
    
    ※ 木組みの木材と石を繋〝かすがい″ がよく見えました。

 最後に「旧青山家漁家住宅」に導かれたが、こちらは単に漁家の住宅だけを移築再現しただけではなく、海辺も含めた漁村全体を復元したような造りとなっている。だから、再現されているのは「母屋(番屋)」だけではなく、「文庫倉」、「米倉」、「網倉」なども一緒に再現展示されている。こちらの方は別の機会に詳しく説明されるとのことで、私は以前に見学していたこともあり、内部見学はパスして今回の「館長と一緒にむら散歩」を終了することにした。

    
    ※ 「旧青山家漁家住宅」の中の母屋(番屋)です。
 
 なかなか興味深い “散歩” だった「北海道開拓の村」が我が家からはいささか遠いところにあるのがネックである。今後の参加については、その時々判断したいと思っている。

※ なお「旧三□河本そば屋」の口の部分は、口の部分の右上隅から左下隅に線が一本斜めに入り「さんます河本そば屋」と称します。私のPCで表記できないのが残念です。


ヘルシーウォーキング㉞ in東大雪の山々と日高山脈に抱かれた、新得ウォーク

2024-06-16 19:35:01 | JRヘルシーウォーキング
 新得もまた小さな町である。しかし、前半は新得町の街づくりの特徴がよく分かるコースでとても興味深かった。ところが後半はやはり田舎道を延々と歩かされるコースとなってしまったのは仕方のないことか?

     

 「イベントウォーク」で清水町を歩き終え、続いて隣町の新得町に設定されている「いつでもコース」に取り組むことにした。清水町と新得町の間はわずか10キロしか離れていなく、すぐに移動できた。
 新得町の市街地は主要道の国道38号線からやや外れたところに位置していた。スタート地点のJR新得駅は町の商工会議所と併設する形の駅舎らしくないモダンな造りの駅舎だった。

    
    ※ 新得駅の駅舎です。その左側は新得商工会の事務所です。

 さっそくスタート!と思ったところが、駅の前になにやらヤジロベエの形をした記念碑のようなものが見えた。近寄って見てみると碑には「北海道の重心地」と書かれていた。そこに書かれていた説明によると「1993(平成5)年、国土地理院の調査により記念碑が立てられていた駅前から43キロ離れた山中が北海道の重心だったことが判明した」ということのようです。

    
   ※ 駅前に立てられていた「北海道の重心地」の記念碑です。駅前は整備中でした。

 駅前には「そばのマチ新得」らしく数件の蕎麦屋さんが軒を並べていたが、街自体は閑散とした感じは否めなかった。その中をまず北に向かって進んだ。

    
    ※ 新得駅の駅前通の様子です。

 マップによるとその先に「SL広場」があると表記されていた。そこへ行ってみると、なるほど往年の名高い蒸気機関車D-51が展示されていた。広場にはそのSLが展示されているだけで、他には特に何も目立ったものはなくちょっと惜しい気がしたのだが…。

    
    ※ 「SL広場」に展示されていたD-51機関車です。

 コースはそこを折り返し国道38号線を南に進むのだが、途中から佐幌川沿いに広い敷地に芝生を整備し、各種遊戯施設やスポーツ施設が整った「佐幌川公園」が広がっていた。
 
    
    ※ 広々とした「佐幌川公園」には遊具施設も整備されていました。

 ここで素晴らしい!と思ったのは、芝生が整備された公園に芝生をさらに短く刈り込んだランニングコースが整備されていたことだ。ウォーカーはこのランニングコースを進め、と指示されていたので私もその上を歩いた。 
 そのコースは行けども、行けども芝生のコースが整備されていた。調べてみると、佐幌川公園全体を周回するように全長5.1キロにわたって整備されているとのことだった。私は歩きながら「人口6,000人をきった町で、いったいどれくらいの利用者があるのか?」と心配になったが、コースのことを知った実業団や大学のランニングチームが合宿に訪れるようになったとか…。

    
   ※ 「佐幌川公園」を周回するように整備されている芝生のランニングコースです。

 芝生のランニングコースは佐幌川沿いに曲がりくねりながら続いた。すると静かな環境の中に時折り歓声が響いてきた。コースはその歓声が聞こえるところに導かれた。するとそこでは少年サッカーの試合が行われていたのだが、なんと2面あったコートはいずれも芝生が整備されたコートだった。かなりスポーツの振興に力を入れている町のように感じられた。

    
    ※ 芝生のコートでサッカーの試合が行われていました。

 そしてコースは街中に戻ってきたのだが、街中をJR根室本線が横切っている。コースは線路をアンダーパスすることで続いていた。

    
    ※  JR「根室本線」を潜る「オダッシュ通アンダーパス」です。

 そのアンダーパスには「オダッシュ通アンダーパス」と記されていた。「オダッシュ通り」とは?ちょっと珍しい命名である。不思議に思った私は、近くに庭仕事をしていた老婦人に尋ねた。するとそのとおりの先の見える山が「オダッシュ山」だということを教えていただいた。なるほどと納得しながら「オダッシュ山」というのもちょっと変わった名前である。あるいはアイヌ語由来なのかもしれない…。(そこまでは調べなかった)
 その後からが辛かった。清水町同様に淡々とした田舎道が続いたのだ。中には山の親爺さま(ヒグマ)が現れるのじゃないかという寂しい箇所もあった。

    
    ※ 後半は淡々とした田舎道が続きました。

 残り1キロを切ったころようやく街に戻ってきた。その沿線には中学校、小学校、新得神社などが次々と現われ、スタートから2時間25分かかって新得駅に到着し、駅員から完歩の証明をいただき、駅内に新得そば店が出店していたので、新得そばに舌鼓をうった。

    
    ※ 新得小学校の立派な校舎です。
    
    ※ 新得神社の鳥居です。本殿はずーっと奥の方にあるようです。
    
    ※ 新得駅の窓口でJRウォーキングの完歩照明をいただきました。
    
    ※ 駅内にあった「新得そば」のお店です。
    
    ※ 駅そばですから簡素な「天ぷらそば」でした。

 清水町同様、コースの中に田舎道が含まれてはいたが、町の特徴が表れていた子―ス設定にはそれなりに満足できるコースだった。
 ◇ウォーク実施日  2024年6月15日(土)
 ◇歩いた距離    11 .5 km

ヘルシーウォーキング㉝ in 日高山系に抱かれた、酪農王国・十勝清水ウォーク

2024-06-15 20:53:54 | JRヘルシーウォーキング
 今回は少し遠出をしてのヘルシーウォーキングだった。小さな町で距離10キロ超のコースを設定するのは難しいようだ。今回の清水町のコースの半分が田舎道という設定でいささかフラストレーションが貯まった。何とかならないものだろうか?

    
    ※ コースマップです。右斜めの部分はひたすら農地の中を往くコースでした。

 往復で350キロ、6時間をかけてわずか10数キロを歩くヘルシーウォーキングに参加してきた。(もっとも、今回はその後で隣町の新得町のいつでもウォークのコースも歩いてきたが)
 そんなバカバカしいことをよくやるな、と揶揄するなかれ。私は大まじめに取り組んでいるつもりである。このヘルシーウォーキングに参加することでこれまで知らなかった北海道内の街の様子を知りたいという思いがある。加えて、衰えゆく体力にどれだけ抵抗できるかという自己への挑戦の意味もある。そんな思いで今年いっぱい取り組んでみたいと思っている。

    
    ※ 私がスタートしたのは午前8時。担当者などはまだいませんでした。

 さて今回の清水町であるが、ご多分に漏れず過疎化が進展している町である。統計を見てみると1970年には16,000人台を数えていたが、現在は半数の8,000人台となっている。街はきれいな碁盤状を呈しているのだが、その街中を少しだけ通っただけで商店街に元気がないのが感じられた。対して少し郊外の街の人たちの住宅は立派な住宅が目立ったのは、士別市を歩いたときに感じたことと同様だった。

    
    ※ 駅前の通りです。寂しさが隠せません。

 コースは清水駅をスタートして市内をあまり巡らず直ぐに郊外へと導かれた。JR根室本線を跨線橋で跨いだところの小高いところ「清水神社」が街中を見下ろすように建っていた。

    
    ※ 清水神社の本殿は小高い丘の上に建っていました。

 続いて「清水高校」があった。「清水高校」は公立校でありながらアイスホッケー強豪校として知られている。校舎の前には全国高校大会の成績が誇らしく掲示されていた。

    
    ※ 正式名「北海道清水高等学校」の校舎です。

 さらに郊外に導かれたところに池を中心とした「清水公園」が静かに佇んでいた。

    
    ※ 水を湛えた「清水公園」です。

 ここからが大変だった。ひたすらひたすら田舎道だった。畑と牧草地以外には何も見えない道をひたすら歩くだけだった。距離にして軽く5キロは超えていただろう。

    
    ※ 「北の国から」の黒石五郎が今にも出てきそうな壊れかけた建物です。
    
    ※ このような道路が延々と続きました。

 そして残り1キロくらいになってようやく街の中へ帰ってきた。街中には立派な街路樹を配した通りもあった。文化センターや郷土資料館もあったようだ。

    
    ※ 街中にはこのように街路樹が並ぶ美しい通りもありました。

 清水町役場の壁にはテレビでも話題となった新一万円札に採用された「渋沢栄一ゆかりの地」ということで「祝 新一万円札発行渋沢栄一 ゆかりの地清水町」の垂れ幕が誇らしく掲げられていた。

    
    ※ 清水役場の壁には垂れ幕が誇らしく掲げられていました。
    
    ※ ゴールすると駅舎の前にはヘルシーウォーキングの旗が立てられていました。

 特記できるのは以上である。
 さて、ここで少しコース設定について私論を述べてみたい。JRヘルシーウォーキングのコース設定にはいつも感心していたのだが、今回は少し異論を唱えたい。
 先に述べたように今回のコース設定は10キロ超のコースを作るために無理して田舎道(農道)に導いた気がしてしまう。
 私はもっと街中を巡るようなコース設定ができなかったのかと思うのだ。碁盤状の街中をジグザクに巡るのもいい。あるいは何度か周回するようにしてもいい。
 もっともっと清水町の街の中を見てみたかった。もちろんその一部に農業の街・清水町を紹介する農道も含まれてもいいと思うが、今回のようにコースの大半が田舎道(農道)というのはどうなのだろうか?参加者の一人として率直な思いを吐露させてもらった。

    
 ※ 「イベントウォーク」の場合は、要所要所にこのような案内があるので安心してウォーキングすることができます。一方、「いつでもウォーク」では地図読みが必須事項となります。

 ただ、これで私がヘルシーウォーキングへの参加を取りやめるということではない。大半のコースは、私の興味を惹き付けるようなコース設定となっているのだから…。
 ◇ウォーク実施日  2024年6月15日(土)
 ◇歩いた距離    11 .5 km

ボゴールパインを試してみたが…

2024-06-14 17:05:00 | その他
 “スナックパイン” として人気だというボゴールパインを試してみたが…、どうも私にはイマイチだったかな? 「ちぎって食べられる」ということが “スナックパイン” の命名の由来のようなのだが…。

 私の諸事情により話題に事欠いてしまい、少々古い話題を持ち出してしまうことになり恐縮です。
 先週6月5日のことであるが、北海道新聞にコンビニのセイコーマートが   「石垣島からANA便で空輸したボゴールパイン(スナックパイン)を道内60店舗で限定販売する」という記事が掲載された。
 珍しもの好きの私は、早速セイコーマートの本部に問合せし、取扱店を訪ねたところ幸いにも自宅近くのセイコーマート店で扱っていることが分かり、いち早く駆け付けて買い求めた。(確か一個税込み980円だったはずだ)

    
    ※ 購入したボゴールパインですが、まだ熟れ切っている状態ではないようです。

 私はかなりの果物好きを自認している。家にはいつも何らかの果物があることを妻にはお願いしている。ところが果物はご存じのようにけっこうな価格なので、我が家のような家計ではいつも果物があるという状況を保つことはなかなか難しい。
 そうした中、パイナップルはかなり格安な果物である。フィリピン産のパイナップルだと1玉300~400円程度で購入できる。これを食するのが私一人なので、少なくとも4~5日は楽しむことができるのだ。今が旬のサクランボなどは400gで1,500円前後もするが、私にかかると一晩で食してしまう。
 ということで「ボゴールパインって、どこが違うの?」という興味もあり購入してみたのだ。いつものパイナップルの場合は妻が手早く、上手に外側の皮の部分を除いて一口サイズに切ってくれるのだが、今回は動画を参考にしながら私が処理することにした。
 ボゴールパインの場合はお尻の部分を切り落として、その後は皮の部分の溝に指を入れ、一つ一つちぎるようにして全体から取り出すのだ。これが考えようによって楽しい作業とも思えるが、私にはけっこう時間のかかる大変な作業だった。さらには、この作業の最中に果汁がずいぶん無駄に流れるのが気になった。

    
  ※ 私が手でちぎったボゴールパインです。左側には茎の部分を小切りしたものです。

 さて、食する段階であるが、確かに一口サイズの大きさは「スナックパイン」と称されるのに相応しいのだが、どうも私には物足りない思いが付きまとった。通常のバインを食した時のような食べ応えのようなものを感ずることができなかったのだ。
 後から撮った写真をあらためてみると、青い部分が目立ちあるいは収穫時期が尚早だったのでは?という疑問や、私自身の処理の仕方が未熟だった点も考えられるが、ボゴールパインの初体験はイマイチだったなぁ、というのが正直な感想である…。

軽度認知障害(MCI)とは?

2024-06-13 17:26:17 | 講演・講義・フォーラム等
 最近物忘れが多い、久しぶりに会った人の名前が思い出せない等の症状があっても、日常生活に支障がない場合は認知症ではなく、軽度認知障害の可能性があるという。「えーっ!?」身に覚えがないわけではない私は真剣に耳を傾けた。

 6月11日(火)午後、社会福祉総合センターで開催された「高齢者市民講座」に参加した。今回のテーマは「認知症について~軽度認知障害と人生会議の勧め~」と題して、札幌東徳洲会病院の認知症看護認定看護師である奥村彩氏が講師を務めた。
       

 まず「軽度認知症(MCI:Mild Cognitive Impairment)」とは、厚労省によると次のように定義されているという。
◆ 年齢や教員レベルの影響のみでは説明できない記憶障害が存在する。
◆ 本人または家族による物忘れの訴えがある。
◆ 全般的な認知機能は正常範囲である。
◆ 日常生活動作は自立している。
◆ 認知症ではない。
  
 この定義に照らして自分を省みてみると、心当たりがないわけではない。そして奥村氏は「軽度認知症は認知症の前段症状でもあると言われている」と話された。う~ん。これは真剣に聞かねばならないと思った。
 そこで奥村氏は「軽度認知症から認知症にならないために」と次の12カ条を紹介していただいた。それによると…
 ①適度な運動 ②禁煙 ③栄養バランスの管理 ④アルコールの多飲を避ける ⑤認知面への刺激 ⑥社会活動 ⑦体重管理 ⑧高血圧の管理 ⑨糖尿病の管理 ⑩脂質異常症の管理 ⑪うつ病への対応 ⑫難聴の管理
いやいやずいぶん多岐にわたるものである。数年前から高血圧の薬を服用している私であるが、これからはさらに多方面に気配りしながら生活することの必要性を痛感させられた。

    
 そして奥村氏のお話は「人生会議をしましょう!」と呼びかけられた。「人生会議」とは?私は今年になって初めて聞いた言葉だったが、これもまた厚労省が提唱していることだという。厚労省の提唱では「人生の終わりまで、あなたは、どのように過ごしたいですか?」との呼びかけのもと、「もしものときのために、あなたが望む医療やケアについて、前もって考え、繰り返し話し合い、配偶者や家族と共有する取り組み」だという。
 同年代の方々の訃報が時折り届くようになったことから「自分にとっても他所事ではなくなったなぁ」という思いが強い。近いうちに妻や息子とこのことについても話し合ってみたいと思うようになった私である…。

地下鉄でもし災害に遭ったら!?

2024-06-12 18:31:21 | 「めだかの学校」関連
 地下鉄の駅で、あるいは地下鉄車内で、地震や火災、あるいは大雨や洪水に遭ったら…。そうしたケースは考えたくもないが、しかしそうした危険はいつやってくるか分からない。そうした「もしも」のための対処方法を学んだ。

        

 私が所属し、代表を務めているシニアの生涯学習グループ「めだかの学校」では、現在「賢いシニア生活を送るために」というテーマのもと、私たちシニアの周りに生起すると考えられるさまざまな危険に対処するための講座を実施している。(もう一つの野外講座も同時並行的に実施しているが…)
 その第3回講座を去る6月10日(月)に札幌市交通局の担当者をお招きして「地下鉄で災害発生!~安全に非難する方法を教えます~」というテーマで実施した。

    

 まず、地下鉄での災害と考えるときには次のようなことが考えられる。「地震」、「火災」、「水害」、「停電」などである。その災害も地下鉄駅内で発生した場合と、地下鉄車内で走行中に発生した場合に対応に違いが要求される。
 私がまず学んだことは、地下鉄駅内で災害が発生した際、避難の方法が二分されると学んだ。「火災」、「水害」、「停電」では、できるだけ早く駅外に逃れることが先決となるが、「地震」の場合は駅内に留まることが肝心ということを学んだ。「地震」の場合だけ駅内に留まることが肝心だとは、地下にある駅舎は地中の動きと同調して揺れるため被害は少ないが、駅舎外では落下物などの危険が大きいことが予想されるためと説明された。

    

 一方、「火災」、「水害」、「停電」の場合は、いち早く危険から遠ざかることが肝心のため、安全に配慮しながら駅外へ逃れることが肝心とのことだった。
 一方、地下鉄車内で走行中に災害が発生した場合は、乗務員や駅員の指示に従って行動することが被害を最小限に止めることである。走行を停止する、次の駅まで走行させる、といったことは、全て交通局、あるいはそこからの指示に従っている運転手に委ねればならない。だから乗客は、自らも含めパニックにならないように努めることが先決である。そして駅員の到着を待つべきだと担当者は強調された。
 日頃から訓練を受けた駅員が現場に到着したら、駅員の指示に従って避難することが何より大切であることを担当者は強調された。
 交通局では冒頭に示した「安全ガイド」を配布したり、定期的に避難訓練も実施したりしていると聞いた。
 我が国の新幹線は世界で最も事故の少ない交通機関であるということを聞いたことがある。それに倣うように我が国の公共交通機関の安全性は相当程度信頼できる交通機関だと私は信じている。地下鉄も同様である。それでも時には想像もつかないような事故が発生してしまった場合が過去にあった。
 万が一に備えて、心構えをしっかりとしておくことの大切さを学んだ今回の講座だった。

対談 小泉悠 vs 藤村忠寿

2024-06-11 10:58:22 | 講演・講義・フォーラム等
 片や軍事評論家、片や民放のバラエティ番組のディレクター。こんな水と油ほど違う世界に住む二人が話をして噛み合うことがあるの?と訝りながら参加したのだが意外や意外、けっこう楽しませてもらった90分間だった。

 6月9日(日)午後、北海道大学の学園祭「北大祭」の一環として、北大クラーク会館において小泉悠氏と藤村忠寿氏の対談が行われると知って駆け付けた。
 小泉悠氏はウクライナとロシアの戦争勃発以来、ロシアの軍事研究畑を歩んできたことからマスメディアの寵児となり大活躍されている方である。
 一方の藤村忠寿氏は、HTB(北海道文化放送)のディレクターとして、北海道発のバラエティ番組として全国を席巻した(?)あの名物番組「水曜どうでしょう」を産み出したディレクターである。

    
    ※ 入場整理券を得るために午前10時半から並んだ長蛇の列です。

 二人のバックグランドを見るかぎりどう考えても対談などは成立しない、と思われた。ところが聞いてみると、二人には意外な繋がりがあったのだ。それは小泉悠氏が「水曜どうでしょう」の大ファンで、これまでにも二人は何度か対面して話をされている間柄だということを明らかにされた。
 また主催した北大の学生側は、小泉悠氏がマスメディア上で活躍されていることから、二人の間でメディア論を語っていただくことで共通点が見いだされると考えたようだ。対談の大きなテーマは「メディアの役割とその影響について」ということだったが、具体的には学生側から何点かの質問が与えられ、それについて二人が話し合うという形式の対談だった。学生側からの質問は、
 ◇バラエティと政治の関り
 ◇「編集」と「切り取り」の違い
 ◇SNS隆盛の中におけるTV
 ◇中央と地方におけるメディアの違い
等々であったが、対談は口八丁手八丁といった感のある藤村氏が絶えずリードする形で進められた。
 藤村氏はもともと政治には興味があり、大学も北大の法学部を卒業しているのだが、いろいろないきさつから政治とは縁遠いTV界のバラエティ分野に身を置いているが、バラエティの目ざすところは「世界平和」であると言い切った。「世界平和」とは大きく出たな、と思ったが、藤村氏が言うにはバラエティには「 “なあなあ” ですます」文化があるという。 この “なあなあ” こそが世界平和を語る時にキーワードとなるのではないか、といった論だった。小泉氏は「世界平和には “グローバルなあなあ力” が必要ということですね」と応えた。

    
    ※ 飛行機の事情でやや遅れて登壇した小泉悠氏です。

 「編集」と「切り取り」については、テレビにおいて「編集」は当然のことと藤村氏は言い切った。バラエティ番組において面白く見せるためには当然編集は行われているし、政治的番組においても、編集者の考えた番組づくりをする中で編集はされていると…。むしろ取材される側が、取材する側の意図を見抜く力が求められていると小泉氏は話された。だからトーク番組などで毎週出演するような識者と称する人間の言は信用しない方がいいのでは、と小泉氏は指摘した。
 「切り取り」もある意味「編集」と通ずるところがあるが、特にドキュメンタリーなどでは作者(ディレクター)が意図して切り取って編集している場合が多いとした。

    
    ※ 終始対談をリードした藤村忠寿氏です。

 ロシア事情に詳しい小泉氏は日本とロシアのマスコミ事情の違いを披露してくれた。日本では地方における地域新聞が住民に影響力を持っているが、ロシアにおける地方紙はほとんど存在しないようなもので、ロシア国民の多くはモスクワ発のテレビの影響を受けているという。したがって、プーチン政権は権力を握ると同時にマスメディア(テレビ)支配に意を注いだという。
 対談は前述したように終始藤村氏がリードする形で進行したが、私としてはできればテレビでは語ることのできないロシア事情などについて小泉氏から聴きたかったとも思ったのだが…。そして意外なことに小泉氏の声質がマイクに乗りづらい声質だったようだ。運営側もそのことを気にし、何度も何度もマイクを交換したのだが、残念ながら聴きづらさが最後まで残ってしまったのは残念だった。
 小泉悠 vs 藤村忠寿というある意味で意外な組み合わせを考えついて学生たちのセンスに感心したが、私には二人のお話に楽しく耳を傾けることができた90分間だった。