田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

北海道開拓の村「館長さんと一緒にむら散歩」

2024-06-17 11:52:49 | 講演・講義・フォーラム等
 さすがにベテラン学芸員である。館長さんの説明は “立て板に水” のごとく、小樽の歴史のあれこれを詳細に説明してくれた。栄華を誇った小樽市から移築された4件の歴史的建造物を前に小樽市のあれこれを学ぶことができた。

 昨日6月16日、北海道開拓の村において「館長さんと一緒にむら散歩」なる催しが開催され参加した。私は偶然とあるところで催しの開催を知ったのだが、北海道開拓村では毎月例会のように開催されている催しだった。そのためか、参加者の多くは何度も参加されている方が多く、地方史マニアのような方も多いようだった。
 北海道開拓の村の館長・中島宏一氏は、1992年に学芸員として北海道開拓の村に入職され。以来北海道開拓の村一筋に研究され、2016年に館長に就任され現在に至っている。

    
    ※ 説明をいただいた「北海道開拓の村」の館長・中島宏一氏です。

 私はこれまで何度か中島氏のお話を聴いているが、その博識ぶりと明快な解説が心地良く、今回迷いなく参加を決めた。
 「館長さんと一緒にむら散歩」は、毎回北海道の開拓の村に移築された歴史的建造物を移築前に存在した市町村別に紹介しているようだ。それで今回6月は “小樽市” が対象だったようだ。
 紹介していただいた歴史的建造物は、「旧三□河本そば屋」、「旧小樽新聞社」、「旧青山家漁家住宅」、そして「旧札幌拓殖倉庫」の4件だった。
 中島氏の解説の要点をかいつまんで紹介すると…、
 まず「旧三□河本そば屋」は、北海道で古くから栄えた小樽の市街地にあって、地域の会合や各種の宴会の場として欠かせない存在がそば屋であったという。その頃のそば屋の建物は一様に2階建てで1階は調理場や母屋として使われ、客室は2階に造られていたという。私たちが見学した「河本そば屋」も2階に4人部屋程度に間仕切りされた座敷があり、場合によっては間仕切りのふすまを取り外し、大部屋にできる造りになっていた。
 建物は木造で切妻屋根柾葺き、外壁は下見板張である。なお、石蔵は木骨石造2階建てである。

    
    ※ 「三口河本そば屋」の全景です。この建物右手に木骨石造の蔵がありました。
    
    ※ そば屋2階の客間の様子です。
    
    ※ 1階の賄い場です。汲み取り式のポンプが見えます。

 続いて訪れたのが木骨石造の3階建ての「旧小樽新聞社」である。「木骨石造」とは、木造建築と同じように木の柱や梁の軸組を造り、その外側にかすがいで石材を貼り付けた建造物を指すということだ。この「木骨石造」の建物は小樽運河沿いの倉庫群に多く見られるという。
 新聞社建物内部はほとんどが空室状態で当時の面影を思い起こすことは難しかったが中島氏のお話は、隆盛を誇った小樽市の明治年代の当時の新聞事情についてのお話が興味深かった。商都小樽は新聞界にも活況を及ぼしたという。新聞社が乱立し、それらが吸収・合併を繰り返し、やがては「小樽新聞」と「北海タイムス」の2社が独自に定期空港路線を開設して取材合戦をくり返したという。そしてついに「小樽新聞」は1909(明治42)年には広告掲載量が全国1位を記録したほどだったという。発行部数も850万部という大変な数字だったそうだ。(ちなみに第2位の「北海タイムス」も600万部だったそうだ)

    
    ※ 木骨石造3階建ての「旧小樽新聞社」の社屋です。当時は堂々たる建物だったのではないでしょうか?
    
    ※ 確か2階の編集室跡ですが、部屋には何もありませんでした。
    
    ※ 急な階段が我々世代にはけっこう怖かったですよ。

 そして3番目には「旧札幌拓殖倉庫」に導かれた。この建物は例の木骨石造の倉庫であるが、倉庫ゆえに内部に壁などはなくむき出しだったこともあり、木の柱や梁と石を “かすがい” で繋いでいるところを見ることができた。今から見れば簡単な造りでいささか危険にも見えるが、当時はそれが許される状況だったということだろう。

    
    ※ 「旧札幌拓殖倉庫」の全景です。
    
    ※ 倉庫ゆえに内部は木骨と石(札幌軟石)がむき出しでした。
    
    ※ 木組みの木材と石を繋〝かすがい″ がよく見えました。

 最後に「旧青山家漁家住宅」に導かれたが、こちらは単に漁家の住宅だけを移築再現しただけではなく、海辺も含めた漁村全体を復元したような造りとなっている。だから、再現されているのは「母屋(番屋)」だけではなく、「文庫倉」、「米倉」、「網倉」なども一緒に再現展示されている。こちらの方は別の機会に詳しく説明されるとのことで、私は以前に見学していたこともあり、内部見学はパスして今回の「館長と一緒にむら散歩」を終了することにした。

    
    ※ 「旧青山家漁家住宅」の中の母屋(番屋)です。
 
 なかなか興味深い “散歩” だった「北海道開拓の村」が我が家からはいささか遠いところにあるのがネックである。今後の参加については、その時々判断したいと思っている。

※ なお「旧三□河本そば屋」の口の部分は、口の部分の右上隅から左下隅に線が一本斜めに入り「さんます河本そば屋」と称します。私のPCで表記できないのが残念です。