マル鉄回顧録

鉄道写真・鉄道模型を始め、バスやトラックなど、乗り物中心のブログです。昔の写真はマル鉄鉄道写真館で再編集しています。

EF61(SG付きオリジナル車)

2007-06-23 09:10:26 | 国鉄・JR機関車(直流型)
今日は西日本的な話題で、EF61をお届けしたいと思います。

EF61は、新性能機関車で初めてSG(蒸気暖房発生装置)を搭載した旅客用電気機関車です。外見は先輩格であるEF60型に似ていますが、SGを搭載した関係で車体長が長くなっています。また、サイドのフィルター(ヨロイ型の通風孔)が細長いものとなっており、車体の長さと相まってスマートな印象を与えます。登場当初は時代の流れで茶色一色塗装でしたが、カラー塗装された際にはEF60500番台のような特急塗装とはならず、新性能直流機の標準色である貨物塗装となりました。

東京発着のブルートレインにも使用されたことがありましたが、活躍はあまり続かず、急行列車や荷物列車など、機関車からの暖房が必要な列車に使用されるようになりました。また、一時期は、瀬野~八本松間で補機を務めていたこともあるようです。EF61の活躍は主に西日本で、東京へは夜行急行(銀河以外)がなくなってからは姿を見せてはいないと思います。


昭和49年8月 大阪駅にて EF61のラストナンバー18号機の牽引する急行「阿蘇」

名古屋~熊本を結んでいた急行「阿蘇」。新幹線博多開業(昭和50年3月)以前は、寝台車・自由席車を旧型客車で編成した列車でした。私が大阪に行ったとき、山陽方面の客車列車は特急列車も含めてEF58又はEF65500が牽引しており、EF61を見たのはこの「阿蘇」だけでした。実は、この「阿蘇」を牽引していたEF61は私が見た初めてのEF61型であり、同車に興味を持つきっかけとなった列車でした。



昭和58年4月16日 豊橋駅にて EF615牽引の東海道荷物列車

久しぶりに逢ったEF61。飯田線の撮影に行った帰り道のことでした。EF61の写真が撮りたかったのですが、両数も運用も少ないようで、なかなかキャッチすることが出来ませんでした。このとき、偶然にも待避中だったらしく、しばらく停まっていてくれたので何とか撮影することができました。



昭和59年8月19日 小郡駅(現新山口駅)にて EF611のナンバー

その後もEF61に逢えることを楽しみにしていたのですが、昭和59年2月のダイヤ改正を境として、徹底的な大合理化による大量の余剰車が出てしまい、EF58やEF60に混じって、EF61も廃車される運命となりました。
この写真は、山口線のSLを撮影に行ったとき、小郡駅構内に20両ほど連結して留置されていた廃車群の中で、偶然見つけたEF61のトップナンバーでした。同車の前後は他のEF61やEF60に挟まれており、撮影が難しく危険でもあったため、ナンバーのみ記念に撮影した次第です。


EF61は、興味があったにも拘らず、結局この3回しか逢うことが出来ませんでした。
後に、EF61は瀬野八のEF59の後継機として活躍する計画でしたが、EF60初期型改造のEF61200の改造が一段落したところで技術的な問題が発生してしまいました。結局、EF61100化計画は頓挫してしまい、彼らの寿命を早めることとなってしまったのです。
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EF58牽引 急行「鳥海」

2007-06-22 01:50:07 | EF58のアルバム
こんばんわ。

昨日は昼行特急「鳥海」をお届けいたしましたが、今日は急行時代の「鳥海」の写真をご覧いただきたいと思います。

上野~秋田間を上越・羽越線経由で結んでいた急行「鳥海」は、荷物車+グリーン車+A寝台+B寝台+自由席普通車で構成された、由緒ある夜行急行スタイルの列車でした。強いて言えば、なぜか普通車指定席は連結されていません。上野~秋田間を結ぶ急行は、この他にも全車寝台急行の「天の川」が設定されており、お互いに補完しあいながら長らく運転されていました。

急行「鳥海」は、上野~新津間をEF58、新津~青森間をEF81が牽引し、水上~石内間はEF16がサポートしていました。(時代背景により、羽越本線非電化時代はDD51、晩年の上越国境越えはEF641000のサポートなど、牽引機は変化しています。)


昭和55年秋 東北本線 蕨~西川口間にて EF58牽引の急行「鳥海」


昭和55年秋 東北本線 蕨~西川口間にて 雑形客車で編成された急行「鳥海」
同列車の晩年に近い写真です。グリーン車の帯がまだ残されています。一方、本来茶色のマニ36が連結されている筈が、当時新車のマニ50に変わってしまっています。


昭和57年11月14日 大宮駅にて 停車中の急行「鳥海」
上り定期の最終日。翌朝到着の臨時列車扱い「鳥海52号」をもって急行時代の幕を下ろしました。

急行「鳥海」は、ツララ切り+スノープラウといった雪国装備をまとった高崎第二機関区のEF58が終始担当してしておりました。上越急行には、他にもEF58+雑形客車の組み合わせとして、急行「天の川」「能登」(旧急行「北陸1号」)が走っており、あまり珍しい感じはありませんでしたが、「鳥海」の最大の特徴は、スニ2両(パレット積載型荷物車)+一般荷物車と、計3両の荷物車が連結されていたことでした。ちなみに、スニ2両は、新潟地区への新聞輸送に使われていたものです。

昭和57年11月のダイヤ改正(上越新幹線大宮暫定開業)で廃止になってしまった急行「鳥海」ですが、他に生き残った夜行列車たちとは違い、最期まで20系化や12系・14系化されることなく、旧型客車のまま伝統ある夜行急行のスタイルを守りとおした列車でした。

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485系 特急「鳥海」

2007-06-21 14:50:58 | 特急型電車(交直流・交流)
今日は、485系で運転された昼行特急「鳥海」をお届けいたします。

私の世代で言うと、「鳥海」は上野~秋田間を結ぶ夜行急行列車であり、昭和57年11月の上越新幹線大宮暫定開業により消滅した列車を思い浮かべます。

上越新幹線の大宮暫定開業により、上野~新潟間を走っていた特急「とき」「いなほ」が全廃となりました。このうち「とき」は新潟行きですので、新幹線が十分にカバーする範囲でしたが、秋田・青森へ向かう「いなほ」については、上野から新幹線を利用すると、大宮・長岡で2回乗換えが必要になってしまいます。この不便を解消するために、上越線を直通する唯一の昼行特急として存続することになりました。同様の措置が東北・奥羽線の「つばさ」「やまばと」、磐越西線の「あいづ」にみられました。
なお、上越特急の存続にあたり、「いなほ」の名称については新潟からの秋田方面アクセス特急に継承されてしまいましたので、廃止となった夜行急行の「鳥海」を譲り受けて、スジが存続されることとなったのです。


昭和60年11月4日 高崎線 深谷~岡部間にて 485系臨時特急「鳥海」


昭和62年9月13日 高崎線 吹上~行田間にて 485系臨時特急「鳥海」

一旦は定期特急として存続した「鳥海」でしたが、東北・上越新幹線の上野開業により大宮乗換えの不便さが解消されたため、上越線直通の定期昼行特急は廃止されることになりました。しかし、幸運と言いますか強運と言いますか、上野開業後も臨時特急として存続しました。今回の写真も、既に臨時に格下げになってからのものです。

同様の例として、以前本ブログでご紹介いたしました東北特急「ふるさと」があります。しかし、「ふるさと」がお盆及び年末年始に限定された運転なのに対し、この「鳥海」は11月といったオフシーズンの土日にも運転があり、運転本数も通常の臨時列車より多く設定されていたようです。

臨時昼行特急としての役割を終えた「鳥海」は、後に再び寝台特急「鳥海」として復活することになります。
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浜松の主(ED18・クモヤ22)

2007-06-20 14:37:14 | 国鉄・JR機関車(直流型)
今日は、浜松の主だった2車をご紹介いたします。

飯田線の旧型国電が終焉を迎える頃、徐々に運用から外れていく中で、運用から外れた列車たちは解体のために浜松工場へと旅立ちました。
飯田線の撮影に訪れたとき、一番好きだったクモハ53007が既に運用からはずれていたため、伊那松島機関区や天竜峡、中部天竜そして豊川にある留置線を探して次々と南下していきました。結果として彼を発見することが出来ず、思い切って浜松へ向かうことにしました。
案の定、浜松工場に隣接する留置線には、クモハ53007を始め、飯田線の運用から外れた戦前型国電や一足先に廃車となった80系、EF581や5までもが整然と並んで留置されていました。
一通り撮影した後、工場の回りを徘徊していると、ある物体を見つけました。そう、それが、かつて飯田線の貨物列車の牽引に活躍したED182でした。


昭和58年6月29日 浜松工場にて(敷地外から撮影)

このED18の現役時代は飯田線には来たことがありませんので、実物を見るのはもちろん初めてでした。工場の入換用機械として使用されていることは雑誌か何かで見たことはあったのですが。なかなか趣のあるスタイルですね。感動しました。ただ、この錆びの浮き具合からして、使ってるようには見えませんでした。機械扱いなのに、ナンバープレートをつけたままなのは、工場に働く人の思い入れの表れだと思います。


そして、移動中にまた珍客が!クモヤ22112です。


昭和58年6月29日 浜松工場附近にて

クモヤ90はそれなりに好きな車両なのですが、クモヤ22のリベットだらけの身体にこの顔はどうも好きになれませんでした。が、この頃でも既に17m国電は貴重な存在でしたし、関東に住んでいるとなかなかクモヤ22型にはお目にかかれないので、取り敢えず撮影しておきました。


この2台、この当時はもちろん現役の入換車でした。ともに人生最後の地味な奉公を地道に行っていたのですが、まさか2台とも本線営業車に返り咲くとは夢にも思っていませんでした。近年、さすがに老朽化で再度廃車になってしまいましたが、戦前生まれの彼らが再び大手を振って本線を走ることができ、最高に幸せ者だったと思います。
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仙石線(73形アコモ改造車)

2007-06-19 01:40:45 | 旧型国電
今日は、仙石線に走っていた旧型国電、73形のアコモ改造車である「クハ79形600番台・モハ72形970番台」をお届けいたします。

「クハ79形600番台・モハ72形970番台」は、旧型国電73形の下回りに103系と同様の車体を載せたアコモ改造車です。もちろん、性能は旧型車ままですが、103系の冷房車と見間違うような高窓運転台の様相となっています。外見からの区別では、台車はもちろん、床下やPS13のパンタグラフで見分ければ、103系と違うことは容易に判ると思います。また、ニュアンス的には、103系に比べて若干車体裾が長く見えます。おそらく、73形の台枠の高さが関係しているものと思われます。「モハ72形970番台」の1両のみ、鶴見線で使用されていましたが、4両固定で編成されていた同車は、最後まで仙石線を離れることなく、仙石線が103系化された後も、しばらくの間活躍していました。

数少ない写真ですが、どうぞご覧ください。




昭和59年6月17日 陸前原ノ町附近にて(2枚とも)

より良い風景を求めて松島海岸まで行ったのですが、待てど暮らせどアコモ改造車は来ない。痺れを切らせて陸前原ノ町電車区まで行ってしまいました。線路際の道を歩いていたら、来た・・・。しょうもない写真ですが、私の撮った唯一の走行写真です。
PS13パンタグラフが2両連続で載っている。旧型国電の証です。
 

昭和59年6月17日 陸前原ノ町電車区にて
結局、上の写真2枚だけが成果品。アタマ来て電車区まで行くと、ここに2本も眠っているじゃないですか。(見えないところにもう2本いるかも・・・。)
数をこなすために取り敢えず撮っておきました。

これだけですよ。せっかく行ったのに。しかも、モノクロフィルム入れてたもんだから、色すら判りゃしないじゃないですか・・・。(ちなみに、103系化された頃はスカイブルー、73形全盛の頃は山手線のうぐいす色でした。)

このあと、間もなく同車は103系に置き換えられ、廃車になることに・・・。

と思ったら、まさか103系化されるとは思いませんでしたよ。しかも埼京線。随分近いところを走るようになりました。何にせよ、旧型国電でここまで出世したヤツはいない、って感じでしたね。

103系3000番台改造後の埼京線が過去ログにあります。よろしかったらご覧ください。
http://diary.jp.aol.com/marutetsu/125.html#comment

また、仙石線最後の103系(復活前)はこちらをどうぞ!
http://diary.jp.aol.com/applet/marutetsu/20070424/archive
コメント (4)
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