きっと、いいことあるよね!

母(sake)と息子(keke)の日々の記録。
お出かけ写真と料理など。

父のお茶

2013-05-06 | 父の記録と母の思い出
父の所に行くと、今日も目を閉じたり開けたりしている。
たまたまお茶の時間で、介護士さんがスプーンでお茶を飲ませていた。(こぼれないようにトロミがついている。)

私がスプーンで食事をあげても、なかなかかみ終わらない。そのうち口も開かなくなってしまうので、何となく昼食時に向うのが億劫になっていたのだ。お茶ぐらいなら大丈夫かもと思って、代わりましょうかと声を掛けた。

隣にいるのは最近ここに入ってきたおばあさんで、先ほど家族が面会に来て帰ったばかり。
追う様に後をついて行こうとしていたが、介護士さんに笑顔で止められたところ。
「年を取ると子供に戻る」と母は祖母の事を言っていたが、親の姿が見えなくなると淋しがる園児のようだった。

でもまもなくそれも忘れて「犬のおまわりさん」を何度も繰り返し口ずさんだ。
フロアを見ると、お茶をねだってうるさいばあさん、歩き回るおじいさん、ぼーっと座ってる人などなど・・たしかに子供に返るのかもしれない。

ってことは、私は今この辺りで一番心身ともに充実している時なのだろうか、多少物忘れはひどくなりつつあるが。。。良い薬が開発されてどんどん人間の寿命が延びていくのは素晴らしいが、必ずしもそれが幸福なのかどうか。。

隣で犬のおまわりさんと歌う老人がいるのに、父は微動だにしない。
もう鼻歌を歌うことも考えられなくなってしまった。昔好きだった歌ももう聴こえたとしても、一緒に口ずさむ体力も喜ぶ気力もないように思う。

それでもウォークマン、まだ父の好きな裕次郎と加山雄三は残しておこう。
もしかしたら聴く時もあるかもしれないから。


立原えりかさんの「愛する」には人魚姫が一番好きだと書いてあった。
愛する人に会うために2本の足にしてもらう代わりに声を失くしてしまって、好きだった王子様は他の人と結婚してしまって、王子様の命を奪えば元の世界に戻れるけれど、海の泡になることを選んだというお話。

「それでも(海の泡を選ぶ)人魚姫が好きなのです。まだ愛の結末を見ていないからです」(返してしまったので原文どおりではないけどこんな感じ)みたいな文章があったっけ。

愛のおわりってなんだろう、と考えてしまう。
そんじょそこらの気持の冷め方と一緒にしたくないような気がする。

「愛する恋人や夫がこのような状態になっても気持は変わらないものなのだろうか」とまじまじ父の顔を見る。これが旦那だったらずっとそばにいて付き添えるものなのだろうか。
それとも共に過した長い年月が、それを可能にするのかな。

その答えを私は知ることがないだろうから
「きっと愛する人だったら、病む日もそばにいてずっと付き添えるものなんだわ」
と勝手に夢見ることにしよう。
そう思ってあの世に行けるのも、また幸せなような気がする。


お茶はのどごしが良かったのかパクパク父は食べた。
「最近車椅子に戻ってから、また食事も進むようになりましたよ」と介護士さんは言う。
また昼食時に来てみようかな。