さくらんぼのパックを買ったのは今年2回目である。
去年までさくらんぼはほとんど買わなかったと言っていい。
今年は「旬もの」は少々高くても買って味わってみようかと思っている。
でも根っから貧乏性なので、安くないものを買うことにどうしても罪悪感がある。
そしてさくらんぼは「安くないもの」の一つなのだ。
(その他には国産ハチミツなどがある。)
その一方で「今食べずに、いつ食べるのだ」と体からの声がする。
今までの50年の年月、ここから先の将来を想定して、今が私の人生の中での第二バブル期であるはずだ。(第一次は結婚前の20代前半である。)
バブル期と呼ぶには、あまりにしょぼいバブルではあるが。
そうだ、さくらんぼの隣の棚は桃であった。
桃にするか、さくらんぼにするかさんざ迷ったあげく、今回はさくらんぼにしたのである。
桃も時期が過ぎる前に一度は食べて味わおうと思っているが、やはり値段を見ると罪悪感がただよう。
それはさておき、さくらんぼのパックを買ったのは2回目である。
私はそれを3日に分けて食べる。
すると、だいたい1日8個~10個ぐらいになるのではないかと思う。
それを水で洗い、小さなタッパーに入れる。
会社に持って行くのだ。
果物は朝食べるのが金と聞いたことがあるが、いつも時間がなく、果物を十分に味わいしめることができないので、持ち運ぶことにしたのである。
そして、車で信号待ちの時に食べる。
さくらんぼはそれができる。(スイカとかは無理)
赤信号のたびに、タッパーを開け、さくらんぼを取り出す。
そしてその味と水分(さくらんぼは水分もあるようだ)を堪能し、タネをペッと出す。(出した先はまださくらんぼの残るタッパーだが気にしない。)
前にいる車の人は「なんぞや?」と思うかもしれないが、それも気にしない。
今日は、朝食べれずタッパーに入れたさくらんぼを信号待ちでも食べられなかった。
うっかり忘れたのである。
後半は、激雨のせいかの渋滞にはまり、遅刻しそうで気が気じゃなかったのだ。
だから今日は、昼休みにさくらんぼを食べることにした。
さくらんぼと言うのはまれに、二つが枝の先でくっついているのがある。
ラブラブなさくらんぼとでも言おうか。
私はそれがかわいくって、いつもそれを見つけると最後に食べることにしていたのである。
今日は昼休み、最後のそのくっついているラブラブなさくらんぼを見ていたら、とたんに悲しくなってきた。
ここでどうしても食べることができず、「夜に家で食べよう」と持ち帰ることにした。
そんな自分にますます悲しくなってきた。
「悲しい」「淋しい」
こういうことを言うと、多くの人はどうにかそれを止めさせることができないか、考えるでしょう。
でも本当はそういうことは止めさせることではないのです。
それを抱えながら生きて行かなければならないこともあるでしょう。
去年までさくらんぼはほとんど買わなかったと言っていい。
今年は「旬もの」は少々高くても買って味わってみようかと思っている。
でも根っから貧乏性なので、安くないものを買うことにどうしても罪悪感がある。
そしてさくらんぼは「安くないもの」の一つなのだ。
(その他には国産ハチミツなどがある。)
その一方で「今食べずに、いつ食べるのだ」と体からの声がする。
今までの50年の年月、ここから先の将来を想定して、今が私の人生の中での第二バブル期であるはずだ。(第一次は結婚前の20代前半である。)
バブル期と呼ぶには、あまりにしょぼいバブルではあるが。
そうだ、さくらんぼの隣の棚は桃であった。
桃にするか、さくらんぼにするかさんざ迷ったあげく、今回はさくらんぼにしたのである。
桃も時期が過ぎる前に一度は食べて味わおうと思っているが、やはり値段を見ると罪悪感がただよう。
それはさておき、さくらんぼのパックを買ったのは2回目である。
私はそれを3日に分けて食べる。
すると、だいたい1日8個~10個ぐらいになるのではないかと思う。
それを水で洗い、小さなタッパーに入れる。
会社に持って行くのだ。
果物は朝食べるのが金と聞いたことがあるが、いつも時間がなく、果物を十分に味わいしめることができないので、持ち運ぶことにしたのである。
そして、車で信号待ちの時に食べる。
さくらんぼはそれができる。(スイカとかは無理)
赤信号のたびに、タッパーを開け、さくらんぼを取り出す。
そしてその味と水分(さくらんぼは水分もあるようだ)を堪能し、タネをペッと出す。(出した先はまださくらんぼの残るタッパーだが気にしない。)
前にいる車の人は「なんぞや?」と思うかもしれないが、それも気にしない。
今日は、朝食べれずタッパーに入れたさくらんぼを信号待ちでも食べられなかった。
うっかり忘れたのである。
後半は、激雨のせいかの渋滞にはまり、遅刻しそうで気が気じゃなかったのだ。
だから今日は、昼休みにさくらんぼを食べることにした。
さくらんぼと言うのはまれに、二つが枝の先でくっついているのがある。
ラブラブなさくらんぼとでも言おうか。
私はそれがかわいくって、いつもそれを見つけると最後に食べることにしていたのである。
今日は昼休み、最後のそのくっついているラブラブなさくらんぼを見ていたら、とたんに悲しくなってきた。
ここでどうしても食べることができず、「夜に家で食べよう」と持ち帰ることにした。
そんな自分にますます悲しくなってきた。
「悲しい」「淋しい」
こういうことを言うと、多くの人はどうにかそれを止めさせることができないか、考えるでしょう。
でも本当はそういうことは止めさせることではないのです。
それを抱えながら生きて行かなければならないこともあるでしょう。