真 伊豆(真田伊豆守信之)に宛てた、寛永十五年三月十五日の忠利の書状がある。嶋原の乱に関する、「遠路為御見廻御使者を被下御志之程何共御礼難申尽候」とするものである。本文は略するが、文末に興味深い一文がある。足利将軍家の血筋である西山左京(足利義辰=西山道鑑の子)についてである。
尚/\西山左京殿之儀大坂ニ至候へ共なじミ申候へハ無紛事と存
我等国へ申入心安御有付候様ニ仕度右之仕合ニ候以上
同年二月廿三日付け左京の長岡監物宛書状によると、左京は嶋原に在ったと思われる。この時期はまだ客分の身分であり、嶋原の落着後上坂(若しくは上洛)したのであろう。足跡がうかがえる貴重な一文である。そして相手が何故真田信之なのかも興味深い。
尚/\西山左京殿之儀大坂ニ至候へ共なじミ申候へハ無紛事と存
我等国へ申入心安御有付候様ニ仕度右之仕合ニ候以上
同年二月廿三日付け左京の長岡監物宛書状によると、左京は嶋原に在ったと思われる。この時期はまだ客分の身分であり、嶋原の落着後上坂(若しくは上洛)したのであろう。足跡がうかがえる貴重な一文である。そして相手が何故真田信之なのかも興味深い。