肥後六花—2 「キンキラキン」 文・占部良彦
細川重賢が描いたという六冊の植物、三冊の動物写生帳と三十九種の押葉帳が、他の細川家古文書といっしょに「北岡文庫」の名で熊本大学図書館に寄託されている。熊本の領内、江戸屋敷、静養先の伊豆修善寺温泉、あるいは参勤交代の道中で折にふれ手がけたもので、取り上げられた植物、動物は数百種に及んでいる。
絵の具を使った写生帳は「原色博物図譜」といってよい丹念な観察記録で、十八世紀時代の欧州のものに比べても決して見劣りしないといわれている。昭和六年秋、今の天皇(昭和天皇)が陸軍大演習統監のため熊本に来た時、ある会場でこの写生帳を見て非常に興味をそそられ、あとで宿舎に取り寄せてじっくり楽しまれたと、北岡文庫の記録に残っている。
重賢は天皇のような専門的知識を持つ生物学者ではなかったが、当時の用語でいう本草(ほんぞう)の知識に詳しく、その趣味を通じてかれの中に即物的、実証的な精神がつちかわれ、これがその治世の中に生かされたことは十分に想像される。また儒教を熱心に学び武芸にも精通したが、その本領はあくまでもすぐれた経世家であった。
重賢の治世は延享四年(1747)から天明五年(1785)までの三十八年間、細川家歴代藩主の中で一番長く、その影響力も一番大きかった。ちょうど、八代将軍吉宗が「享保の改革」で幕藩体制の立て直しを図ったあとで、まだ国じゅうに幕藩体制百余年の宿弊がうっ積していたころ。肥後熊本藩もその例外ではなかった。
いま残っている重賢の肖像画を見ると、広いヒタイと角張ったアゴ骨が印象的で、いかにもそう明で意志の強そうな人柄を思わせる。かれは二十八歳まで部屋住みの不遇な身分だった。それが、兄の第七代藩主宗孝の急死で多難の時代に思いもかけぬ活躍の舞台を得て、その素質を存分に生かすという幸運に恵まれたのだった。
肥後の刀の
さげ緒の長さ 長さばい
そら キンキラキン
まさかちがえば 玉だすき
それもそうかい キンキラキン
重賢の時代にはやったという肥後民謡「キンキラキン」の一節。キンキラとは錦綺羅で着物の事。当時上下をあげてぜいたくに流れているのを戒するため、大奉行の堀平太左衛門が断固として絹物の使用を禁止したのを風刺したものだ。肥後の刀は緒の長いのが特徴。これはいざという時にタスキにするためだったが、そのころはまったくの飾り用になり、みな派手な絹物を使っていた。重賢時代のきびしい治世を象徴するうたである。
重賢は藩体制の刷新強化のため徹底した人材登用をおこなった。そのためには周囲の思惑や少々の抵抗は意に介さなかった。なかでも最大のヒットといわれるのが「キンキラキン」の中心人物、堀平太左衛門の登用。堀はもともと五百石取りの中級藩士。「ガネマサどんのよこびゃァびゃァー(カニの横歩き)」とうたわれたほど、風さいのあがらぬ、アクの強い男だったが、重賢はかれの識見をかって大奉行、後に家老に引きあげて無二のコンビとなった。
このように、重賢は英明な文化人藩主として大きな足跡を残してはいるが、はんらいは儒教を信奉する保守派で、幕藩体制護持という旧来の路線を踏み外すことはなかった。すべてがこの中におかれ、体制奉仕が至上命令とされた。
そのため武芸遺骸の特技、趣味の習得も、すべてこれ精神修養のかてだとする考え方が強く、いわゆる「遊び」の心は薄かった。この風潮が、重賢が口火をつけ武士が中心になった肥後の花つくりに深くしみこんで行ったのも、当然のことだった。