この「肥後六花」シリーズは、昭和49年頃「朝日新聞」の九州版に11回にわたって連載されたものである。セピア色に変色した切抜きがあった者を、いつの日かご紹介しようと思ってタイピングしておいた。著作権の関係がありお叱りを請けるような気がするが、あえてご紹介しようと思う。 www5b.biglobe.ne.jp/~joma/higo.htm (肥後六花)
肥後六花—1 「肥後の朝明け」 文・占部良彦
日本の花卉園芸が形をなして来たのは、江戸の中ごろといわれている。その中核になったのが花連(はなれん)。いまでいう植物同好会のことである。江戸の町でそのハシリとなった「桜草連」の結成前後の事情を、江戸末期に書かれたと推定される「桜草作法伝」にもとづいて、園芸研究家の八代田貫一郎さんが「野草のたのしみ」の中で、次のように紹介している。
隅田川上流の荒川沿岸戸田が原でサクラソウの変わり物を見つけて、人々が鑑賞するようになったのは享保(1716~35年)のころ。遠路をいとわず足をはこび、とりどりに美しい変わり目の花を採集しては自宅で育てていた。やがてひとりで楽しむのは興が薄いと、同志の者たちが毎年、花の盛りの八十八夜のころ集まるようになった。
集会には一人が三種ずつの新花を持ち寄り、花主の名を伏せて品定めの投票をした。一・無極、ニ・玄妙、三・神寄、四・絶倫、五・雄逸、六・出群と六つのランクを決めて、それぞれの花に位付けをするのである。「花闘の楽」と呼んで互いに腕を競い合うこの会は文化元年(1804)に始まり、そのしきたりは明治に入っても守られていた。
いちずに花を愛する桜草連の「席は茶煙草可仕などにて至て質素の催に候」とあり、目的は花ではなくて売り値にあった万年青(オモト)、富貴蘭(フウラン)などの会とは一線を画していた。この連中は「日々の会に酒楼をふさぐ」と書いている。
桜草連の規約は中世ヨーロッパのギルド制度を思わせるきびしさだった。入門するには必ず会員の紹介がいり、末広一対に目録を添えて誓約をした。入門後は初伝、中伝、奥伝と進み、秘法の皆伝となるまでは少なくとも五年はかかる。万一、中途でやめるような場合には、もらった苗はもちろんの事、配合した用土まで返さなければならぬ。もしこれを怠ると、同門のものが押収して帰ったという。
昔の花つくり名人たちにとって、「花の相続人」を選ぶのも大切な仕事だった。普通の資産のように親からすぐ子に譲るというわけにはいかず、連中のなかから着実で将来に見込みある者を、慎重に選んで来た。今も残る日本の名花の多くは、このような花連のきびしいおいてと、先人たちの苦心によって守られて来たことを、八代田さんはこの本の中で説いている。
熊本の園芸史も同じころに始まっている。そして江戸、上方などの本場と肩を並べる実績を残しており、ここでもその中核となったのは花連だった。しかし、江戸、大坂では町人、公家が中心となっていたのに対し、肥後熊本の花連を支えていたのは細川武士だった。
熊本の花連は花好きの武士たちの秘密結社のような集団で、規律のきびしいという点では町人衆の比ではなかった。この「もののふ園芸」永く門外不出とされ、戦前まで一部の専門家、好事家を除いては注目する人も少なかったが、昨今の園芸ブームに乗って、いまでは海外にまでその名を知られるものも出てきている。
六花の名はヒゴツバキ、ヒゴシャクヤク、ヒゴハナショウブ、ヒゴアサガオ、ヒゴギクとヒゴサザンカ。これらに共通している特長は一重咲き、澄んだ色合いと花の芯(しん=雌しべ、雄シベ)の力強さ。どの花も「ヒゴ」の名をつけずにいられぬような特異な歴史と性格を持っている。その中で、なによりも狭長されねばならぬのはその原種みなよそから来た「くだりもの」であること。六花は肥後の自然が生んだものではなく、肥後人の気性に根付いた花、「モッコス」の土壌に咲いた花といえるだろう。
此処から六花の歴史は肥後精神史の系譜にもつながる。その素地を築いたのが十八世紀後半、「宝暦の改革」で肥後に新時代を開いた細川藩第八代の藩主重賢、六花の種もこの肥後の朝明けの時代に巻かれている。
肥後六花—1 「肥後の朝明け」 文・占部良彦
日本の花卉園芸が形をなして来たのは、江戸の中ごろといわれている。その中核になったのが花連(はなれん)。いまでいう植物同好会のことである。江戸の町でそのハシリとなった「桜草連」の結成前後の事情を、江戸末期に書かれたと推定される「桜草作法伝」にもとづいて、園芸研究家の八代田貫一郎さんが「野草のたのしみ」の中で、次のように紹介している。
隅田川上流の荒川沿岸戸田が原でサクラソウの変わり物を見つけて、人々が鑑賞するようになったのは享保(1716~35年)のころ。遠路をいとわず足をはこび、とりどりに美しい変わり目の花を採集しては自宅で育てていた。やがてひとりで楽しむのは興が薄いと、同志の者たちが毎年、花の盛りの八十八夜のころ集まるようになった。
集会には一人が三種ずつの新花を持ち寄り、花主の名を伏せて品定めの投票をした。一・無極、ニ・玄妙、三・神寄、四・絶倫、五・雄逸、六・出群と六つのランクを決めて、それぞれの花に位付けをするのである。「花闘の楽」と呼んで互いに腕を競い合うこの会は文化元年(1804)に始まり、そのしきたりは明治に入っても守られていた。
いちずに花を愛する桜草連の「席は茶煙草可仕などにて至て質素の催に候」とあり、目的は花ではなくて売り値にあった万年青(オモト)、富貴蘭(フウラン)などの会とは一線を画していた。この連中は「日々の会に酒楼をふさぐ」と書いている。
桜草連の規約は中世ヨーロッパのギルド制度を思わせるきびしさだった。入門するには必ず会員の紹介がいり、末広一対に目録を添えて誓約をした。入門後は初伝、中伝、奥伝と進み、秘法の皆伝となるまでは少なくとも五年はかかる。万一、中途でやめるような場合には、もらった苗はもちろんの事、配合した用土まで返さなければならぬ。もしこれを怠ると、同門のものが押収して帰ったという。
昔の花つくり名人たちにとって、「花の相続人」を選ぶのも大切な仕事だった。普通の資産のように親からすぐ子に譲るというわけにはいかず、連中のなかから着実で将来に見込みある者を、慎重に選んで来た。今も残る日本の名花の多くは、このような花連のきびしいおいてと、先人たちの苦心によって守られて来たことを、八代田さんはこの本の中で説いている。
熊本の園芸史も同じころに始まっている。そして江戸、上方などの本場と肩を並べる実績を残しており、ここでもその中核となったのは花連だった。しかし、江戸、大坂では町人、公家が中心となっていたのに対し、肥後熊本の花連を支えていたのは細川武士だった。
熊本の花連は花好きの武士たちの秘密結社のような集団で、規律のきびしいという点では町人衆の比ではなかった。この「もののふ園芸」永く門外不出とされ、戦前まで一部の専門家、好事家を除いては注目する人も少なかったが、昨今の園芸ブームに乗って、いまでは海外にまでその名を知られるものも出てきている。
六花の名はヒゴツバキ、ヒゴシャクヤク、ヒゴハナショウブ、ヒゴアサガオ、ヒゴギクとヒゴサザンカ。これらに共通している特長は一重咲き、澄んだ色合いと花の芯(しん=雌しべ、雄シベ)の力強さ。どの花も「ヒゴ」の名をつけずにいられぬような特異な歴史と性格を持っている。その中で、なによりも狭長されねばならぬのはその原種みなよそから来た「くだりもの」であること。六花は肥後の自然が生んだものではなく、肥後人の気性に根付いた花、「モッコス」の土壌に咲いた花といえるだろう。
此処から六花の歴史は肥後精神史の系譜にもつながる。その素地を築いたのが十八世紀後半、「宝暦の改革」で肥後に新時代を開いた細川藩第八代の藩主重賢、六花の種もこの肥後の朝明けの時代に巻かれている。