津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

丹羽亀之允言上之覚・・十 「謹而致言上候」

2009-04-07 18:31:44 | 歴史
    此言上六月廿五日長岡佐渡主殿へ持せ遣申し候此趣魚住万五郎■證ニて候
         謹而致言上候
一、此表相替儀無御座静ニ御座候事
一、福知主膳去年霜月ニ中務殿御母儀同御内儀より 三齋様御
   無御心元之間為御見舞い福知主膳ニ御出ニ成罷下 三齋様御
   気色之御様躰を茂江戸へ注進仕候様ニと御申候而御下候と申當地
   へ参申候/然ハ此比取沙汰承申候 三齋様御煩之御見舞斗ニハ参不
   申候/宮松殿儀 御遺言ニ被仰置候様ニ才覚仕候得との儀ニ付参申候
   由申候/ 三齋様被成御逝去候と則刻主膳可罷登と存候得共脚
   を病申候由ニて 三齋様御逝去之砌より引籠養生仕居候/脚之
   病も能罷成申候間江戸へ可参与二月之末ニ申候得共此表御仕置之
   様子爰元ニ而承可罷登と申致延引之処今月拾九日比ニ 三齋様
   江戸御屋敷より早飛脚参申候付主膳江戸へ可参と申出今月十
   七日ニ當地を罷達江戸へ参り申候/俄ニ登り申候儀何たる子細ニて可参と申
   儀かと佐方与左衛門・志方半兵衛主膳ニ尋申候得共何の子細も
   無之宮松殿 公方様へ御目見可有様ニ申来候/井門又三郎も立病ニ
   煩申候由ニ口条然上ハ主膳可参と申候由ニ御座候/道中可なる■急キ可参
   間造作料を増候様にと主膳申候得共与左衛門・半兵衛申候ハ急キ申
   子細を茂不申上造作料満し候而遣申候事の成間敷と申候付急キ
   申候分ハ請取不申能立申候/然共八代より豊前内裏迄ニ召ニ着士候由
   申候/然上ハ 三齋様御遺言之御様躰御聞可被奈とゝ堀田加賀
   守様御内證ニ而主膳ニいそき参候得抔と御申付而参申候と
   爰元御侍衆も申由ニ御座候 三齋様御遺言之儀主膳江戸より
   罷越河内・清岩・北ノ丸殿抔と談合仕御遺言被成候様ニとすゝめ
   申候由取沙汰仕候/併 三齋様御病中奥ニ被成御■候付奥之様子
   表向之者巴具ニハ不存と相聞申候/御傍ニ被召士候女房連衆能可存
   と申候/右に申上候おころと申女房連北ノ丸殿と談合之文を仕候由取
   沙汰仕候/今度巣全罷登申候付河内申候者主膳俄ニ参申候事子細
  
  ニ■登り候と無在者共ニ申たる由参り申候/其子細之儀承度存手
  廻仕候得共子細知不候申候/斎藤佐渡殿へ主膳参り何事も指圖を■申候
                      斎藤佐渡ハ清正清正朝臣内ニテ斎藤伊豆守改名也
  由申候/此度主膳罷下り何たる才覚仕候とても最早■ニ罷候得
  共若御心得ニ茂可被為成りと奉損致言上候事
一、三齋様江戸御屋敷御留守居ニ被被召置候沖津弥五右衛門 三齋様被来
  御逝去候手後より傍輩共申候者 殿様を御主と奉存候由申候得共内
  心ハ少も左様ニ不存様ニ相見申候由此表ニ而沙汰仕只今加様之儀致言上
  候儀最早■ニ可罷来与奉度候得共重而御心得ニ茂可被為成る候と存
  申上候/特又此表御侍衆 殿様江戸御發足被遊御延引候故何も■
  遣ニ存躰ニ御座候/私共も乍憚奉存候ハ此表之御仕置之儀ニ付被為得
  上意之処ニ江戸御發足相延申候■遣ニ奉損候/猶相替儀も御座候て可
  致言上候此等之趣宜願御披露候恐々謹言
      六月廿五日            丹羽亀之丞
         藤崎作右衛門殿
 
 ここでは後に殉死する、沖津弥五右衛門の風評が語られているのが面白い。
「『殿様(光尚)を御主だと思っている』と、口では言っているが、内心は少しもそうは思っていないようだ」と傍輩が噂していると言うのだ。その事の真実は判らないが、既にこの時期、弥五右衛門は殉死を考えていたのだろう。この機密文書が藩庁に報告されるものであることを考えると、この噂話はあながち出たら目とも言えそうにない。

  

  
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赤穂義士・早水藤左衛門のご先祖

2009-04-07 14:12:08 | 歴史
 赤穂義士「早水藤左衛門」のご先祖様が細川家に在ったことは、堀内傳右衛門覚書
で知ることができる。
   早水藤左衛門は御家に前廉居被申候早水助兵衛、亡父と別て咄覚居申候
   御暇被成候刻古町の光明寺右助兵衛聟故、彼寺へ引取居候事覚居申候ニ
   付、熊本光明寺という寺は御存被成候哉と被申候、知人にては無御座候へ
   とも承り及び居申候と申候へは辞世を書て給候
        地水火風空のうちより
            出し身のたとりて歸る本のすみかに

そのご先祖様早水助兵衛とは、豊臣方大坂牢人である。
熊本縣資料(近世編第二p467)部分御舊記に召出しに係わる記事が見える。
         被仰上可被下御印之?
    一 弐拾四人扶持ハ     速水助兵衛
       右之助兵衛新参ニ被召拘候寛永拾六年八月三日御礼申上候右之日帳より
       御扶持方被為拝領候御印之儀仰上可被下候以上

そして侍帳には
  早(速)水助兵衛  御鉄炮頭衆 六百石 (真源院様御代御侍名附)
              六百石  (真源院様御代御侍免撫帳)
              長岡監物組・弐拾挺 六百石 (寛文四年六月・御侍帳)
              六百石 寛文十一年八月六日 御暇被遣候       とある。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
その他早水氏は次のような名前が見えるが、それぞれ御暇を蒙っている。
  ■早水左次兵衛 五人扶持廿石 寛文十一年八月 御暇被遣候

  ■早水与三右衛門  三番丹羽亀丞組 三百石 (真源院様御代御侍名附)
             三百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
             三百石 寛文二年十月十七日 御追放 三百石

  ■早水忠兵衛  四番有吉内膳正組 百石 (真源院様御代御侍名附)
             百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
             二百石 寛文二年十二月 御暇被遣候
  
 寛文十一年はたして何が起こっての「御暇」なのか、いまだ調べが付かないでいる。
 光明寺をお尋ねしようかと思案中である。

        
コメント (1)
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