細川興秋の守役を勤めた窪田五助(善助・後宗斎)は、興秋の三回忌を執り行った跡悲嘆の余り自裁したとされる。(戸田敏夫著・戦国細川一族/細川忠興と長岡与五郎興秋所載同家先祖附)
ja.wikipedia.org/wiki/細川興秋
大阪城落城は元和元年(1615)五月八日、興秋の自害は六月六日とされる。窪田五助(善助)の死は元和三(1617)年六月六日である。
http://www.syuuhou-kano.com/index2.htm (子孫・能楽師狩野家のサイト)
部分御舊記・御書附并御書武廿一(熊本縣資料・近世編第二p173)に、寛永元年(1624)五月廿八日付、西郡刑部少その他に宛てた忠利の書状に、「窪田善助相果候不便候事」とたった一行記されているのを発見した。五助の子供に「善助」を名乗る人は見受けられず、この一行の「善助」は興秋守役・善助と考えたいのだが・・この食い違いは一体何なのか。
また頭を悩ます事柄を知ってしまった。
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大阪城落城は元和元年(1615)五月八日、興秋の自害は六月六日とされる。窪田五助(善助)の死は元和三(1617)年六月六日である。
http://www.syuuhou-kano.com/index2.htm (子孫・能楽師狩野家のサイト)
部分御舊記・御書附并御書武廿一(熊本縣資料・近世編第二p173)に、寛永元年(1624)五月廿八日付、西郡刑部少その他に宛てた忠利の書状に、「窪田善助相果候不便候事」とたった一行記されているのを発見した。五助の子供に「善助」を名乗る人は見受けられず、この一行の「善助」は興秋守役・善助と考えたいのだが・・この食い違いは一体何なのか。
また頭を悩ます事柄を知ってしまった。