三齋忠興と弟・興元の不仲はどうやら本物らしい。慶長六年十二月のこと、忠興の元に一族・重臣が集まるという時期を見計らって興元は出奔している。興元は寛永十四年家康に召し出され、秀忠から野州茂木壱万石を拝領、元和二年常陸谷田部六千三百石を加増されている。それ以前、寛永八年の話が次のようにある。興元の嫡子・興昌(当時27歳)が輿に乗った事を知り忠興は意見している。「公儀の事をちかえ(違え)」て居るという訳である。そして、「人ノ内にてはなく候事」人には非ずと極評し、忠利に対し「其方何とぞいけん候て可被見候」と意見するよう申し入れている。
そして又、「前より申候事の後不合事ハおやゆづりと見へ申候つる」興晶の約を違うは親譲りと散々である。
徳川家康の斡旋による兄弟の仲直りは、四年ほど後の事である。
そして又、「前より申候事の後不合事ハおやゆづりと見へ申候つる」興晶の約を違うは親譲りと散々である。
徳川家康の斡旋による兄弟の仲直りは、四年ほど後の事である。