津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

肥後六花-4 「花とモッコス」

2009-04-23 11:10:11 | 歴史
       肥後六花—4 「花とモッコス」  文・占部良彦
 熊本の花物語に「モッコス」の話は欠かせない。花には必ず作る人の正確が出てくるものだといわれるが、肥後の花の場合はまた格別である。いま熊本に来ても、六花の群落はどこにも見ることは出来ない。それは熊本の風土に自生したものではないからだ。六花は肥後人が作り出した「人工の花」、ある意味では実験室に咲いた花といえるかも知れない。
 肥後六花は、武士の花連という最も閉鎖的なサークルの中から生まれた。肥後細川藩は徳川の幕藩体制の中でも、朱子学と武士道を軸に無類の規律と結束を誇ったところ。肥後の花連発足のかげには、この息のつまるような空気の中で、細川武士たちがそのうっ屈した心のはけ口を花つくりに託したと見られるフシも多い。これにモッコスの語に代表されるような熊本人持ち前のいっこうさが輪をかけて、特異な六花の原形を生み出したと考えることができる。
 これが一番よく出ているのが、異常なまでの花の芯への執着だ。六花は大きな花芯を共通の特徴にしている。梅芯のように豊かに盛りあがったツバキ、シャクヤク、キク、サザンカ。雄しべが天にきつ立するようなハナショウブ。そのあまりの大きさに「バケモノの花」と評する人もいるくらい。これを花の立場からいえば、数世代にまたがるモッコスたちのゴリ押しに根負けした形、あるいは「花のモルモット」の心境だったかもしれぬ。
モッコスとは単純にいえばヘンクツ者のことだが、その含む意味は広くなかなかデリケートのようだ。一方では気骨者の市政も示し、ほめ言葉にも悪口にも使われる。それを正負の両面にわけて、負の面でとらえれば愚直、窮屈、潔癖などの語があたる。だが、これらの性格は後進的な士族意識や保守的な農民意識が支配的な農業県にありがちで、また熊本人すべてがそうだというわけでもない。
 ここから、熊本人の性格の特色は、モッコスそれ自身にあるというより、むしろ、おなじ条件でどこにもあり得る頑固な変わり者を、モッコスというユーモラスなイメージでとらえようとする態度にある(渡辺京二著「熊本賢人」)、とする見方も出てくる。
一方、正の面でとらえれば自分にも他人にもきびしい批評的な気質、「我が道を行く」独立独行の精神がある。花つくりに見られるいっこくさも、このように屈折しながらも筋を通すモッコスの心の中から埋めれたと考える事ができるだろう。
 「刀を崇拝し武士に最高の栄誉を帰する国民が、一方では美を愛好し、俳優や芸術家を尊敬し、菊作りに秘術を尽くす」----アメリカの文化人類学者、ルース・ベネディクトが日本文化の形を論じた「菊と刀」の中でこう書いている。日本人の中には軍国主義と唯美主義、尊大さと礼儀正しさ、がんこと順応性が同居し、これらすべての矛盾が日本に関する書物のタテ糸とヨコ糸になるともいっている。
 ベネディクトは「刀も菊もひとつの絵の部分である」というが、熊本にあっても「花と刀」は同じ絵の中に同居する。このように両極に走る心のブレに熊本の近世史、その花の文化史のアヤを解く一つのカギがあると、熊本大の森田誠一教授(日本近代史)は指摘している。その主役がモッコスなのだ。
 そのモッコスはどのようにして生まれて来たのだろうか。熊本人ほんらいの気質にその素地があるし、細川重賢によって固められた熊本藩の鉄の規律と熊本盆地特有の異常気象が、これに拍車をかけたと見てよいのではなかろうかと、森田教授はいう。
「セイショ公」の愛称で、いまも隠れた人気を持つ加藤清正の植林政策の名ごりで「森の都」とも呼ばれる熊本も、気候のきびしさという点では九州でも定評のあるところ。この町のむせ返るような夏の暑さと冬の底冷えとの激しいズレが、住む人の心をいらだたせずにはおかないのだろうか。
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肥後六花-3 「花連小史」

2009-04-23 08:34:48 | 歴史
        肥後六花—3 「花連小史」  文・占部良彦

 重賢時代の宝暦七年(1757)に開設された医学校「再春館」に「闘草会」と名づけた名物行事があった。闘草とは「草合わせ」とも呼ばれる遊戯の名称、命名が集めてきた草花を見せ合い優劣を競うもので、平安時代の上流階級の間ではやった。この会はそんな優雅なものではなく、まじめな薬草講習会だった。
闘草会が開かれるのは五月節句の翌六日。その準備は四月二十日頃から始まる。生徒達が手分けして泊りがけで領内の山野の自生の薬草を探して廻った。当日は全員が一堂に集まり、採って来た薬草を会場に並べる。これを物産師と呼ばれる博物学の教授が鑑定して、いちいち名称をつけ、生徒はこれについて質疑をたたかわす仕組みだった。
江戸の桜草連の同人たちも同じ八十八夜のころに集まり、「花闘の楽」と呼んで花つくりの腕を競ったが、ここにも単なる「遊び」を越えたいちずさがあったという。重賢が特技、趣味をすすめ、一芸一能にぬきん出た者を重用したというのも、この「花闘」「闘草」の語に象徴されるような真剣さを買ったためだろう。
 重賢が種をまいた武士の花つくり熱が次第に高まって花連として実を結んだのは、彼の時代からおよそ半世紀を経た天保、弘化(1830~47年)のころ。これから明治の初めまでが、熊本の花連の第一期黄金時代。当時の花連が手がけたのは六花だけではなかった。ほかにマツ、ツツジ、フジ、バラ、サクラソウ、オモト、ランなどを含めて重数種にのぼった。
 この中で主流を占めていたのがハナショウブ、キク、シャクヤクなどの花だった。熊本の花連のハシリとなり、その中核にもなったのがハナショウブの「熊本花菖蒲満月会」。これにならってキクの「肥後菊愛寿会」とシャクヤクの「肥後芍薬連」が相次いで結成された。満月会、愛寿会の名は現在も続いている。
駒もとの花つくりの歴史は、二つの戦争をはさんで大きく三つの時代に区分される。最初がさきに紹介した天保、弘化から明治十年の西南の役までの時期。明治の中ごろから太平洋戦争が始まる昭和十年までが第二期。戦後の園芸ブームに乗った現在が第三期とされている。
 この中で一番充実していたのが、西南の役での打撃から立ち直った第二期の前半。西南の役前後、政府は全国で一切の結社、集会を禁止したため、肥後の花連も全部、解散の憂き目にあつた。また県全土を根こそぎまきこんだ戦火のため、花連が苦心して育てた名花の多くが失われた。
 明治十九年に満月会、翌年に愛寿会、同三十二年にアサガオの「肥後朝顔涼花会」などの有力花連の再建が相次ぎ、明治の園芸史に先駆的な役割を果たした。ヒゴサザンカの新種が生まれて、花連「晩香会」として独立したのもこのころ。各花連とも、この時代に組織の基礎を固め、これが昭和まで受け継がれた。
それにもかかわらず、これまで肥後の名花があまり世に出なかったのは、花連のきびしい締め付けがまだ続いていたからだ。明治になって、これまで士族階級の独占だった門戸が一般にも開放されたが、入門資格がやかましく、苗と種が門外不出という江戸時代以来のしきたりが、ここでは忠実に守られていた。
 戦前にも、純潔品種という希少価値と、清楚と豪快さを合せ持つ独特の美しさに注目した学者や園芸専門家もいたが、広く脚光をあびるようになったのは戦後になってから。そのよい例が、ツバキの世界的流行で掘り起こされたヒゴツバキ。そして無骨者の代表格に思われていた熊本人に、このような、花つくりの伝統があったのか、ともいわれた。
地元でも、長く受け継がれたこれらの花を郷土の文化遺産として積極的に保存、顕彰しようとする動きが生まれた。その代表に選ばれたのが六花。「肥後六花」は歴史は古いが、名はまだ新しい。

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