津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

下冷泉家と細川家家臣・藤懸氏 

2009-04-09 21:48:58 | 歴史
 藤懸氏といえば田邊城攻撃軍のなかに、藤懸三河守が在った事が思い出される。
その孫・藤懸蔵人(惣左衛門永勝)は細川家に召し出されて御物奉行等を勤めた。
  (五百石・於豊前小倉御侍帳)(御物奉行衆五百石 肥後御入国宿割帳)
  (御買物奉行衆五百石 真源院様御代御侍名附)(五百石 真源院様御代御侍免撫帳)
  (沢村宇右衛門組・御物奉行五百石、江戸勤番ノ時ハ八木百石被下之 寛文四年六月・御侍帳)

さてこの蔵人の内室は冷泉為将女であるが、いろいろな処でその資料を見かける。

  (1) 藤掛蔵人内儀 百石  (於豊前小倉御侍帳)(真源院様御代御侍免撫帳)

  (2) 藤懸蔵人内儀消息  細川家文書・御印之物より
       藤懸蔵人内儀へ米拾俵遣候間可相渡者也
           寛永三年十二月廿八日     tadatoxi(忠利印)

  (3) 藤懸蔵人女共消息 熊本縣史料近世編第二p273 三家老宛忠興書状
       藤懸蔵人女共ニ母儀逢度由申越候間國を出候儀者何様ニも出候へと申遣候間
       蔵人所へ可被仰遣由申遣候蔵人次第ニ切手遣のほせられ候ハヽ舟可被申付候
       謹言
           (寛永十四年)十月廿八日          (忠利)

  (4) 藤懸蔵人むすめ消息 細川家文書・御印之物より
       今度御暇被遣候御女房達衆之覚
           (前略)
       しほ 是者藤懸蔵人むすめにて候故蔵人所へ御かへし被成候
       右之衆何も御暇を被遣候、就夫当年之御切米無滞急度被相渡所々へ罷帰候衆は
       何も人を添其外海陸共ニ造作申付可遣旨被仰出候間、被得其意可被申付候、以上
            寛永拾八年六月廿二日       fosocawarocu(光尚印・六) 
                                   林太郎四郎(花押)

  (1)(2)は、その御内儀の扶持に関するものだが、冷泉家に対する援助だとも思われる。
    某資料によると、冷泉家の家禄は180石とある。
  (3)(4)は、その娘についての情報であるが、(3)によると娘は江戸にでも居たのであろうか。
    その娘に逢いたい一心の母心が伺える。(4)の、娘・しほは光尚正室彌々に召仕えていた
    ものと推測できる。彌々の死去に伴いお暇が出され、蔵人の許へ帰されたのであろう。

          田邊城攻撃
           藤懸三河守---土佐守---蔵人・・・・・・・・・・・・・・・・→細川家家臣・藤懸氏
                            ∥
                        +---●
                        |
   冷泉為純---+--為勝===為将---+===為景・・・・・・・・・・・・・・・・→下冷泉家
           |
           +--教勝
           | 藤原惺窩(日本朱子学の祖)
           +--惺窩---為景(為将養子)
           |
           +--為将(為勝養子)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
          関連サイト
             冷泉家   ja.wikipedia.org/wiki/冷泉家
             細川(下冷泉家)氏  www2.harimaya.com/sengoku/html/hoso_reizei.html
             藤原惺窩  ja.wikipedia.org/wiki/藤原惺窩
             藤掛氏   ja.wikipedia.org/wiki/藤掛永勝
    
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閑話休題「丹羽亀之允言上之覚」番外・・三羽カラス

2009-04-09 09:54:54 | 歴史
 元和九年閏八月廿八日、幕府は大坂夏・冬の陣に於いて大坂方に加担した牢人を赦免し、各藩において召出しが可能になった。早速手を揚げたのが忠興である。九月廿一日忠利に対して次のような書状を発している。

       大坂牢人何方ニ罷居候共不苦由、従板周之状之写給、令披見候、
       是ニ付き小河四郎右衛門・熊谷権大夫・長屋安左衛門呼下申度
       候、内々御約束知行を可給候哉返事次第ニ可仕事

当時多額の借金に苦しんでいた忠利だが、逆らいもならず了解している。
この三羽カラスが、三齋死去後の八代の状況を危くしていることは、「丹羽亀之允言上之覚」に詳しい。それぞれが離国したようだが、その後の彼等の生活ぶりは如何なものであったろうか。松井興長が八代に入り、細川行孝の宇土支藩立藩が成り細川家は益々磐石なものと成っていく。
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丹羽亀之允言上之覚 ・・読了

2009-04-09 09:54:30 | 徒然
 「丹羽亀之允言上之覚」は三齋死去後の、八代侍衆の困惑の行動が窺い知れる貴重な文書である。亀之丞の内偵報告書のようなものだが、いろいろ生くさい話もあり、正史では窺い知れぬものが記されてある。58ページに及ぶものだが、約一月の時間を要してしまった。訓下しをしながらタイピングをするという作業で、読めない文字は■表示して前に進んだが、振り返ってみるとなんと■の多い事か・・・これを一つ一つ潰す作業をしなければ成らない。

 この文書は文政十三年丹羽源吾正名なる人が上書したとされる。慶應二年久米清淵が丹羽家よりこれを借り受けて写し、後魚住某が写している。(年月不明)これを宮村典太が借り受け明治廿九年六月に写して、同氏の「藻塩草」に所載された。昭和十六年九月上妻博之氏がわずか三日で書き写され、これが現在「上妻文庫」に所載されて、私どもはその恩恵に浴している。感謝の極みである。

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丹羽亀之允言上之覚 ・・ 十三

2009-04-09 09:08:00 | 歴史
   謹而言上仕候ハ八代ニ罷在候西玄因と申す医者之儀小笠原右近
   大夫様被為召抱度宗被仰進候由承申候/此玄因儀ハ数代之
   住人ニ而御座候/然処ニ 三齋様御逝去之砌御暇申上他國
   へ罷出申度存之通申候得共勘解由も私申聞く候ハ八代之住人
   ニ而候間御暇申上他國へ罷出候度心まゝに成申間敷と申候付左
   様ニ五座候ハゝ 三齋様被為拝領之御知行指上申際しハ八代ニ召
   置近國他國廻り療治仕際しを者こくみ可申と申候/右近様
   へ被進候ハゝ小倉を罷出他国へ参間敷旨被為仰渡候而者如何
   可有御座哉右近大夫様御家来ニ縁類御座候様ニ申候由沙汰
   仕候由承申候/當文右近大夫様へ才覚仕たる儀も可有御座
   哉と沙汰仕候/此玄因少も不申為構小倉へ被遣候て重而御国之
   住人か様ニ御理り申上者も可有御座候与奉存候此等之趣宜願
   御披露之恐惶謹言
       正保四年 
         正月十八日         丹羽亀之丞
           藤崎作右衛門殿
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