津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

 肥後六花-6 「満月会」

2009-04-25 13:52:06 | 歴史
        肥後六花—6 「満月会」  文・占部良彦
 熊本方言に「アクシャウツ」というのがある。しまつに負えない、どうにもこうにもならない、ということだ。この一方にあるのが「ムシャンヨカ」。ムシャは「武者」のこと。意味はいさぎよい、立派だ。いまはやりの「カッコイイー」もこれにあたる。ともに極端なけなし言葉とほめ言葉だが、この両方のお手本にされているのがいまの「熊本花菖蒲満月会」。
 現在の会員は約四十人。ほとんどが中年以上の年配者で、六花の団体の中でも一番結束の固いところ。そして、いまもかたくななまでに昔ながらの姿勢をくずさず「生きている花連」ともよばれる。
 江戸時代はどこの花連にも種や苗の「門外不出」の鉄則や、これに付随するいろいろなおきてがあった。これらは良花を守るためにはある程度やむを得ないことだと、戦前までは多くの花連でこのしきたりが守られていた。千五、民主化の波は花連にも及んで、もはや昔のような締めつけはなくなった。いまではすすんで苗や技術を公開しているところさえある。それでも、満月会だけは変らない。
 熊本市と肥後椿協会ら六花の関係者は、六花をもっとみんなに親しんでもらおうと、二面前から熊本城内の広場に「名花園」を設けた。すでに五花は植え込んだが、ハナショウブだけは満月会が応じようとしない。そこで、この会とは因縁の浅からぬ旧藩主家の当主、細川護貞さんに口添えを頼んだがやはりダメだった。もう「殿様」の命令もきかないのである。
 始祖、吉田潤之助が江戸で松平菖翁に秘伝の苗を譲ってもらうとき、これを絶対に外部に出してはならぬと固く言いふくめられた。このときの約束が厳しいおきてとなって、いまも生き続けているわけだ。以後ずっと、吉田家を中心とする花連だけがこの花を手がけ、満月会の会長も吉田一族の中から選ばれて来た。
 快速は明治二十六年に急坂時代のしきたりをもとにして決めたものを、一部手直ししただけでほとんどそのまま取り入れている。苗は必ずハチ植えで育てること、会から譲り受けた苗は栽培期間中、一時配布を受けたもので私物ではないと心得ること。たとえ親族、友人であっても会員以外には決して譲ったり売り渡してはならぬ。退会または会員死亡のときは、本人か家族が直ちに苗を返すことなど、江戸の桜草連に全く変らぬしきたりがいまも生きている。
 満月会百余年の伝統行事に「花神祭」がある。菖翁、斉護公、潤之助らの功労者と物故会員の慰霊祭で、毎年、花どきの六月十六日に開いている。はじめは吉田家の私的な催しだったが、後に花連の公式行事となり、他の花連もこれにならった。
 潤之助の時代、花つくり仲間が毎月十六日の晩に集まり、花連の名前も最初は「十六夜会」と称していた。花神祭の日取りもこの故事に従ったものだ。また、花神祭と同時に「総集会」を開く。会の活動報告、決議をしたり、全員の親ぼくを図るため、命名が育てたハチの鑑賞や新花の披露、命名をするのもこのとき。
 総集会に出品された会員の花は、すでに戦前から一般にも披露されていた。戸頃がそのやり方にも昔ながらの門戸閉鎖主義がいかんなく発揮されている。
 ことしから会場を熊本城内に移し、六月十五日から三日間天守閣で展示会、十六日に小天守閣で花神祭をした。会場にハリ紙をして花の写真撮影、スケッチは一切禁止、花名を書き取ることも許さない。花神祭には会員以外はだれも近づけぬ。「これでは公開の意味がない。まるで秘密結社のようだ」とあきれて帰る人も多かった。
 これらの声にも、会場で采配をふるった副会長の吉田可勝さん(鎌倉市在住)は「会の伝統と名花を守るためには当然のことです」と胸をはっていた。
 この人たちには、いまだに保守的な同族意識が抜き難く、これに長く肥後の花連の中核だったという自負と、あえて時流に逆らうモッコスの気骨がからみ合って、いまの満月会を支えているようだ。
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宮本武蔵の俸給

2009-04-25 08:49:13 | 歴史
 宮本武蔵の消息が、足利道鑑と並んで登場する以下の二つの記録は、この時期の武蔵の立場がうかがえて興味深い。客分といった立場であったのだろう。

 ■ 寛永十七年十月二十三日・奉書
道鑑様・宮本武蔵 山鹿へ可被召寄候 然者人馬・味噌・塩・すミ・薪ニ至
まて念を入御賄可被申付之旨 御意ニ候 以上
   十月廿三日             朝山斎助在判
       御奉行中
 
 ■ 寛永十八年正月二日
道鑑老・西山左京(道鑑子)・同勘十郎(左京子)・同山三郎(勘十郎弟)、
新免武蔵(剣術者也)、源次郎(不詳)、春田又左衛門(具足師)なとハ奥
書院ニて御祝被成候而・・・・・・            (綿考輯録・巻五十二)

 管見では、武蔵の俸給に関するものが三つある。

 1、寛永十七年八月十三日付・奉書
   宮本武蔵ニ七人扶持・合力米十八石遣候、寛永十七年八月六日より永可相渡者也
      寛永十七年八月十二日 御印
                         奉行中
    右之御印、佐渡殿より阿部主殿を以被仰請、持せ被下候、右之御印を武蔵に見
    せ不申、御扶持方御合力米ノ渡様迄を、能合点仕やうニ被仕候へと被 仰出旨、
    主殿所より、佐渡殿へ奉書を相渡候を、佐州より被 仰聞候也.

 2、寛永十七年十二月五日
   宮本武蔵ニ八木三百石遣候間、佐渡さしづ次第ニ可相渡候、以上
      寛永十七年十二月月五日(ローマ字印)  
                         奉行中
最近「部分御舊記」に記載あるを発見したもの
 3、正保二年「御扶持方御切米御帳」
   ・御合力米 七人扶持拾八石       宮本武蔵

 (1)(2) は忠利代、(3) は光尚代のもので武蔵の死の直前のものである。
(1) に於いては、「御印」を見せずに武蔵を納得させるようにとしている。つまり正式な辞令ではない(家臣としての扱いではない)という事であろう。いわゆる客分として、この扱いは光尚代 (3) まで継続されたものではないのか。ならば (2) をどう解釈するか。現米三百石とは知行取に換算すれば七~八百石となる。これも「佐渡さしづ次第」とされて大変曖昧である。果たして是が完全実行されたのか大変疑問である。



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