津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

光尚の兄or姉

2009-04-24 20:10:35 | 歴史
 光尚の幼名は六丸・小六などとされる。六番目の子供だからとされる。兄姉五人の名前は家譜には登場しないのだが、綿考輯録編者小野武次郎は「光利(光尚)君御姉兄五人にて追々御早世と見江申候、然ニ其比は万事留書様之事ニ心を用たる人稀なる時代にて、五人の御子様御誕生の事もしるし伝へたるもの無之・・・」と書き残し、それでも諸資料から五人の御子を調べている。

  ・第一子 光千代 慶長十五六年比千代姫様御腹に御一男誕生
  ・第二子 男子 元和二年誕生 辰の字可被用思召
  ・第三子 亀  元和三年生まれか 寛永六年正月の御書「かめふく不便なる仕合・・・」
  ・第四子 福  生年不詳              同上
  ・第五子 御姫御懐妊の記事(三齋の手紙による) 元和五年
  ・第六子 光尚 幼名六 元和五年九月十九日・豊前中津生

 武次郎が気付いていない、元和二年四月六日の内記(忠利)宛て忠興の書状に次のようにあるのは、第二子であろうか、第三子であろうか。
 「土井大炊殿江御取成之御禮、中津御姫(忠利室・千代姫)懐妊ゆへ御見舞不罷成との理申候事」
 これハ家康の病気見舞いについての報告である。
             (大日本近世史料・細川家史料-122より)
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肥後六花-5 「くだり花」

2009-04-24 09:04:56 | 歴史
                   2005年06月09日付朝日新聞朝刊から

        肥後六花—5 「くだり花」  文・占部良彦
 熊本大学図書館の細川家古文書を収めた「北岡文庫」に「郡芳帳」と題したヒゴハナショウブの写生帳がある。製作時期は江戸末期と推定されるが、三人の絵師によって原色、原寸大で忠実に描き出された郡芳帳が、純系ヒゴハナショウブの花形を伝える鑑(カガミ)の決定版とされている。
 この花の歴史は百四十年、この間に生まれた品種はおそらく千種を越えると推定されている。郡芳帳には初期の代表的な八十九種が取り上げられているが、その中のいくつかはいまも残っているそうだ。
 ヒゴハナショウブは白、あい、紺、るり、ねずみ、紫、紅の七色があるが、基調になっているのは白。ビロードまたはちりめん地の光沢を持つ。頂上の雄しべが力強く突っ立ち、大きく整っているのが印象的だ。この写生帳にも、これらの特色が鮮やかに描き出されている。
 ハナショウブは「働花」とも呼ばれる。派手でおおぶりな花弁の動きから生まれた別名だ。この花は開き始めてわずか三日間が勝負である。初日のツボミが開いて次第に花弁がおちる美しさ、二日目の花弁がずんずん伸びていく力強い動き、そして三日目の満開時の「晴れ姿」を楽しめば、その夕方にはもう端の方から巻きこまれるようにちぢんで行く。細川武士達は、この短い「花の命」にすべてをかけたのだった。
 日本でハナショウブが鑑賞されるようになったのは十五世紀ごろからだが、このころは野生種で、本格的に培養されるようになったのはやはり江戸中期。寛政元年(1789)ごろ、江戸の旗本、松平左金吾が奥州安積(あさか)の沼(現在の福島県郡山郊外)に咲く花且美(はなかつみ)を改良してたくさんの新品種をつくり出した。左金吾はハナショウブづくりの古典「花菖蒲養録」の著者で「菖翁」と号した。ヒゴハナショウブはそのくだり花である。
 当時の熊本藩主、細川斉護がこの花に目をつけ、藩士吉田潤之助に苗を分けてもらえるよう交渉させたが断られた。このため、潤之助は浪人の身になって菖翁のもとに弟子入りし、培養法の伝授を受けて苗のいくつかを与えられた。これをハチ植えにして熊本に持ち帰ったのが天保八年(1833)。この時に使ったハチと菖翁から贈られた「花菖蒲養録」一冊が、いまも吉田家に保存されている。ヒゴハナショウブの歴史はここから始まった。
 現在、ハナショウブは東京、伊勢、熊本の三つが主流になっているが、なかでも熊本の花は大輪で知られている。ヒゴハナショウブはハチ植えで育てるのが建前になっており、一本、一本に勝負をかけたからだ。またこの方法が一人一党的で熊本人の趣向にもよく合っていた。六花の多くがハチ植えを原則にしているのも、このせいだろうと想像される。
 もっとも、この花がハチ植えになったきっかけは、潤之助が熊本送りした苗をハチ植えのまま保護していたところ、生育に思わぬ好結果を得たことによる。そのうえ、手入れにも好都合で花、葉、茎の全体に調和の取れた姿を鑑賞できることもわかった。
 ここから熊本の花つくりたちは沼や池に群生するハナショウブは、なるほど野趣はあるが花は退化するという信念を抱くようになった。いまも池に咲くヒゴハナショウブは、花連「満月会」の会員で細川藩の筆頭家老、松井家の居城だった八代城跡の掘割にしか見ることはできない。屋内での観賞を主とするこの花は、ハチの大きさ、陳列の仕方までやかましく、いまもむかしのままの流儀が守られている。
 殿様じきじきの命令で持ちこんだこの花を、熊本藩では「武士の花」として大切にし、花どきには必ず城主の茶室にも飾られた。これにこたえて、花連「満月会」の武士たちも良花の保存、獲得に秘術を尽くし、ながく肥後の花連に主流に位置を占めた。その名ごりが、いまも尾を引いている。
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細川家家臣・木野左兵衛

2009-04-24 08:14:39 | 歴史
 寛永五年二月中津の城下で、町人某が是則村の庄屋から暴行を受けるという事件が起きた。三齋は、是則村を領する木野左兵衛に対し庄屋を送致させるようにと、忠利に要求している。この庄屋、町人から借米をしていたらしく、半分ほどを減じさせようと脅迫に及んだようだ。喧嘩は両成敗だが、これは庄屋が悪い、借米の返済が終わるまで籠(牢)に入れておけと三齋は怒っている。

 二月廿四日の忠利宛三齋書状で、これらの顛末が報告されている。
その中に木野左兵衛のことに触れられている。
       木野左兵衛親類江戸ニ在之事ニ候、其仁者、上様(徳川家光)前へ罷出候
       而も物を申仁ニ候、木野左兵衛も我々ニも其方前ニ而も物を申仁ニ而候間
       (以下略)
 木野左兵衛の親類に将軍に御目見えできる人がいること、左兵衛自身も又三齋・忠利に対してそのような身分のものであることを示唆している。

 その左兵衛の細川家召出しの経緯が、「大日本近世史料・細川家史料 8-25」に記されている。
 (抜粋)
       元和六年五月十九日書状  忠利→三齋(長舟十右衛門宛)
       先度申上候妻木吉左衛門尉(之徳)内儀親類木野左兵衛事、可被召置之由、
       被仰下候間、只今罷下候、吉左衛門尉ハ忝之儀難申盡候間、能々御禮申上
       候様にと被申候事。

 この文書からすると、「上様前へ罷出候而も物を申仁」とは妻木吉左衛門尉(之徳)のことと推察される。このご仁は「妻木貞(美濃國妻木を領す)の二男。文禄三年家康に初めて目見。慶長十八年五百石、のち千石。正保四年一月廿六日歿。」という人である。



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