津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

肥後六花-11(了) 「五月の雨」

2009-04-30 14:31:35 | 歴史
        肥後六花—11 「五月の雨」  文・占部良彦

 ヒゴシャクヤクは一・二重のいわゆる蓮華咲き。黄金色の芯を豊かに盛り上げるニホンシャクヤクの典型。花弁の数は八~十二枚。雄しべは百本から五百本もある。大輪で大きいのは直径三十センチにも及ぶ。花期は五月初めから中旬まで。五月の雨に打たれるこの花のけなげな姿は、昔から初夏の熊本に欠かせぬ情景である。
 白、紅、紫を基調に濃淡さまざまの彩りを持ち、六花の他の花と同じように濁りのない色と花型の整然さが身上。ヒゴギクとともに花壇づくりを正式の栽培法にしている。この花の花壇づくりは、色、形、大きさ、配列の仕方までガンジガラメにしたヒゴギクのような堅苦しさはない。二列の方形、または千鳥植え。前列は低く後列は高くする。花壇のまま鑑賞するか、切り花にするかによってその感覚をかげんする。花の色は両端が前列は白、後列が紅。そして紅と白はいつも隣り合わせ、その間に紫、桃の同系列の花ヲ近づけて配列する。
 大輪で金芯が鮮やかな花だから、紅、白、桃の数輪だけで豪華な盛り花になる。生け花にしても一週間は持つという腰の強い花である。
 熊本地方でシャクヤクを栽培したのは六花の中で一番早く、すでに室町時代からはじまっていた。古くから「エビスグサ」といわれたこの花が、「武士の花」として手がけられるようになったのはやはり重賢の時代から。寛政七年(1795)び、藩士中瀬助之進が「芍薬花品評論」を書いて、ヒゴシャクヤク栽培の基礎をつくった。
 四十四種について、花の構造、栽培法、鑑賞法、花会作法、花壇様式を説いたこの本が、六花の栽培教典のなかでは一番古い。
 その後、シャクヤクづくり仲間は「花の季節」となった天保年間に、ハナショウブの花連「満月会」と前後して「肥後芍薬連」を結成、終始、熊本の花づくちをリードして来た。明治三十六年につくられた「芍薬銘鑑」によると、当時の花連九人、一般の栽培家二十九人が手がけた品種は三百六。これが明治末期には五百余種になっていたという。助之進の時代から百余年の間に十倍以上にふえたことになる。
 熊本市出水町国府の外村敏さんは、いまは絶えようとしている伝統の花壇栽培を守り続けている一人。明治、大正にかけて多くの新花を生み出した外村裕次の孫にあたる。庭に残る花壇も祖父の「遺産」で、これがいまヒゴシャクヤク栽培のお手本にもなっている。
 敏山河この花壇とつき合ってもう四十年近い。子供のころから名人祖父の花つくりに打ち込む激しい気迫にふれて、いまはこの「花守り」に使命感のようなものを感じている。ひまを見つけては、素人技法で花弁、花芯の解剖図を書き留め、習い続けて来た一刀彫りの腕で独特のその花容をせっせと刻み続けている。
 「花どきにじっと部屋からながめていると、朝夕の冷気に静かに花びらをとじるいじらしさや、宵の薄あかりに漂う気品の良さがたまらない」という。武士の手で育てられた花が、いま肥後御名のあたたかい胸に抱かれている----六花のどの花にも、このようなケースは多い。
 花連「白蝶会」が数年前に解散して、いま六花のうちヒゴシャクヤクだけが関係団体を持っていない。戦前まではまだ二百種ぐらいあったが、戦災と水害で名花の大半を失い、いま残っているのは五十種前後。栽培家も熊本市周辺の十軒前後に減り、花壇栽培を続けているのも外村家を含めて二、三軒になった。
 もっとも、これは花つくり熱がさめたためではなく、原因の大半はだんだん広い庭を持てなくなったという、最近の住宅事情にある。残った同好者はいまも昔どおりに熊本市立博物館で、切り花の展示や花神祭を続けている。
 栽培家の庭はさびしくなったが、熊本県内各地の神社や公園、東京の新宿御苑、明治神宮、東宮家の庭に、いまも季節には芯が大きくボタンのようなこの花がみられる。
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細川家家臣・須佐美氏

2009-04-30 07:58:49 | 歴史

 亡母の実家T家に、幕末須佐美家から養子が入った。明治十年の西南の役に際しては佐々友房と行動をともにし、獄までも共にし死去した。勇名の人である。そんなことがあって、須佐美氏についてはいささかの思いがある。

 須佐美氏は小豆島の地頭であったことが、香川県小豆郡池田町が昭和59年に発行した「池田町史」に記されている。しかし近世初頭からのことについてはまったく判らないらしく、何等の記載もない。須佐美家が初代とする「紀伊守」について同町史は、「花林常心禅門霊位于時慶長十七壬子未年二月廿七日 先須佐美紀伊守九州肥前長崎死去(明王寺釈迦堂安置の位牌)」と記している。一方養嗣子・甚太郎については、熊本市立熊本博物館に「加藤清正宛行状」が残されている。
     http://webkoukai-server.kumamoto-kmm.ed.jp/web/jyosetu/rekisi/katou.htm

 「加藤清正公家中附」ではその名前を確認する事は出来ないが、「三百六石余 須佐美六左衛門」「弐百五拾弐石弐升四合 須佐美八兵衛」等同族と思われる人の名前が見える。又、「加藤氏代熊本城之圖」では残念ながら、その屋敷を確認する事は出来ない。

    須佐美紀伊守---+==甚太郎---権之允 ---+--半大夫・・・・・・・・・・・・・・・・・→太能家
           |           |
           |           +--源左衛門・・・・・・・・・・・・・・・・→源五家
           |
           +----弥吉----九郎兵衛---+--清右衛門----九大夫・・・・・・・・・・・→素雄家
                         |        ↑
                         +--四宮傳兵衛---九大夫

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中瀬助九郎の敵討ち(ニ)

2009-04-30 07:55:00 | 歴史
 中瀬助九郎兄弟の敵討ちというのは、天下に聞えたものであったらしい。そのため事の成就後仕官の話が幾つも有ったらしい。細川家への仕官は「明智の血」が関係しているのではないかと、私は考えている。
さて貴重な情報をお教えいただいたTK氏から、又も情報をいただいた。次のようなものである。
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 ■故平出鏗二郎氏の名著『敵討』(中公文庫)に、(寛文十一年九月九日)摂津国島上郡芥川
   松下助三郎(于時十四歳)の敵討の顛末が紹介されており、出典を『談海巻二十五』(※1)
   等に得ています。

     (※1) 内閣文庫所蔵史籍叢刊〈44〉『談海・玉滴隠見』

『敵討』によると、松下源太左衞門は、加藤家の石見移封後は二百石知行していましたが、後に暇を乞い、京都・江戸赤坂に移住した処、寛文九年三月二十一日暮に早川某〔四郎兵衞※2〕息八之丞のために斬殺されたとあります。また、松下助三郎の母は源太左衞門の後妻で、加藤明成の妾腹の女(※3)、助三郎の別腹の兄に栗田三郎兵衞ともあります。

     (※2) 『加藤家分限帳』に、早川四郎兵衞は安達兵左衞門組、三百石とあります。
     (※3) 『加藤家系譜』には載っていません。
☆ちなみに本件とは無関係ですが、『加藤家分限帳』に付録している『会津落去後牢人相済候面々』に、「細川肥後守殿へ、佐瀬彌内、山田八太夫、太田文四郎」があります。

 ■西尾市岩瀬文庫蔵『加藤家系譜〔内題:御系譜論〕』の他の箇所に載せてある系図に、石川宗
   左衞門隆次に嫁した加藤左馬助嘉明姉は、実は加藤三之丞教明に再嫁した川村彌左衞門の
   女の連れ子で、すなわち胤替りの姉になる旨注記がありました。

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 只々感謝である。私の手元にA4判35ページにわたる「中瀬家伝略」のコピーがある。TK氏からいろいろお教えいただいて、訓下しに取り掛かっているが遅々として進まない。敵討ちどころか、返り討ちに合いかねない・・急がなければ成らない。
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