津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

寛永十二年九月七日・書状

2009-04-18 13:17:14 | 歴史
 忠利の河喜多五郎右衛門宛て書状である。身内に係わる記述を抜粋してみた(順不同)

■ちやう當年卅三年にて候ゆへ御こほより茶湯なとさせ候てよく候ハんと御申ニ付
  て安國寺へ八木拾石相渡由得其意候事
 「ちゃう」とは忠利の同母姉・前野出雲守長重正室「長」のことである。豊臣秀次に仕え秀次一族が殺された際、近侍の者も死罪
  となり長重も自裁した。長は忠興が出家させ死罪を免れた。慶長八年八月廿九日豊前にて死去した。この年が長の三十三回
  忌に当たっている。異腹の妹・おこぼ(松井興長正室)が法事を執り行ったのであろうか。


■八代万母儀煩之様子書中見申候
  忠興が愛してやまなかった末娘・烏丸光兼簾中まんの生母は、明智次右衛門女・小ヤゝである。寛永十二年九月江戸に在った
  三齋は、七日江戸発駕十八日京都に入った。二十三日酒井讃岐守・土井大炊頭宛て、「当地にてゆるゆると養生可仕と存候処、
  在所より急用申越候ニ付、今月廿三(日)罷下候」と書状を発している。その急用とは、「周岳院殿以外之煩之由」とあり「八代よ
  り注進有之候間、早々京を御立被成候」とある。続いて「周岳院殿ハ十一月十九日死去なり明智次右衛門女ニテ御万様御妾母
  也、少名少也々と云、五十八歳周岳院雪山宗広」とある。(綿孝輯録巻二十三 忠興公(下)p224)

■まん銀子之事申越候此方より直ニ申候てかり候筈ニはや申合せ候事
  寛永十二年、江戸城普請役を仰せつかっている細川家は、金銀不足に喘いでいる。とうとう忠利は、妹の烏丸光賢簾中・万に
  泣き付いている。九月九日書状案によると「万処へ申上せ候三百貫目之銀子■や調候由、道より被仰越候、万方よりも今日申
  来候、未御普請ニハ金銀足事にて無御座候間、万子達之かねも御座候ハヽ、員數承かり候ハヽ、申上せ度奉存候、親子中とて
  じだらくニハ申付間敷候間、其通万ニも可被仰付候事」とある。万の子供達の分も借り上げようというのであり、事は深刻である。


■禰ゝ長崎にてのかい物之代銀拾貫目程入申由にて取替遣由重而目録可差越由
  得其意候事
  金欠病の細川家は禰ゝの生母・万から上記の様に借金をするのだが、可愛い光尚の正室のお買い物は別物ということだろうか。
  翌年待望の男子が生まれるのだが、禰ゝが亡くなり又赤子も後を追い忠興・忠利・光尚の悲痛なありさまが目に浮かぶ。

コメント
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