津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

信長の書状59通

2010-04-15 11:16:42 | 歴史
 いよいよ【特別展 細川家の至宝 -珠玉の永青文庫コレクション】が、東京国立博物館・平成館で平成22年(2010)4月20日(火)~6月6日(日)開催される。
               www.hosokawaten.com

 以前(2009・11・29ブログ)でご報告したが、2011年に京都国立博物館【10/8~11/23】、2012年に九州国立博物館【1/1~3/4】に同様内容で開催の予定らしい。待ち遠しい事ではある。

 又、4/12のブログで「永青文庫叢書 細川家文書 中世編」が刊行される事を書いた。
今日の熊本日日新聞によると、これに信長の書状59通が公開されているらしい。そして上記「細川家の至宝展」で、同書に掲載されている未公開文書三点を含む六点の信長の書状が出展されると記事にはある。
 又、熊本大学・永青文庫センターのサイトには次ぎのように紹介されている。
        http://www.let.kumamoto-u.ac.jp/eisei/03_event/e006.html

 展覧会は九州開催まで我慢するとして、この本はいささか高価だが購入せねばならぬ。
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細川家譜--細川忠利譜 ・・ 5 (了)

2010-04-15 08:15:26 | 細川家譜

                        天草四郎・・鶴田一郎画
廿八日未明ニ朝霞漸ク晴レ物色見ヘケル所二本丸ノ北ニ傍テ家有則チ賊魁四郎カ廬舎ノ由ニテ三方石垣高ク松樹欝蒼トシテ要害堅固ノ所ナレハ焼残レリ 忠利本丸ニ進見一覧シテ火箭ニテ之ヲ焼拂ハシム 其外残ル家々モ皆之ヲ傷夷ス 斯テ先陳後陳ノ諸大将モ思ヒ々々ニ攻寄セ詰ノ丸先登ハ黒田氏ナリ 其他國々ノ使者監軍ノ従兵諸浪人マテ我劣ラント働キ隠レ居タル男女老若トナク之ヲ鏖ニシ各分捕高名アリ 家士陳佐左衛門四郎カ廬舎ノ焼落ル比煙下ヲクゝリ其内ニ馳入ニ創ヲ蒙リタルト見ヘ絹引被キ臥居ケル者アリ佐左衛門カ馳入ル踅音ヲ聞キ起上ラントスルヲ佐左衛門一刀ニ斬伏セ首提ケテ走リ出テ忠利カ前ヲ過ク 忠利一覧シテ其首見ル所アリ必ス賊将四郎ナルヘシ念ヲ入レヨサテ々々冥加ナルモノカナト感賞セシカ果シテ四郎カ首ナリ 此役當手ニ討取タル首級凡三千六百三十ニ就中佐左衛門カ討取タル首ハ能ク洗ヒ台使ノ實検ニ備ヘタリ 諸手ヨリモ四郎トテ札付タル贋首多ク之レ有リシトナリ 同日城悉ク平ク台使凱歌ヲ唱ヘ諸軍ヲ収メラル 忠利父子モ人數ヲ揚ク 興長殿タリ四郎カ母姉等嚮ニ熊本二執ラヘ置シヲ廿九日有馬ニ呼寄セ諸手ヨリ出タル四郎カ首ト云ヲ台使ヨリ見セラルゝニ老母少モ臆セス四郎殿は我子ナカラモ實ハ天使ナリ首切ラルゝ事ハ思ヒモヨラス形容ヲ隠シ南蠻呂宋二モ往タルヘシトテ彼是ヲ視手神色自若タリシニ佐左衛門カ取タル首ヲ視手忽チ色ヲ變シ其面ノ疲レタルニテ績日ノ辛苦想像ルゝトテ既往ノ事ヲ悔ミテ泣啼シ打臥テ起得サリシカは強テ詰問二モ及ハス四郎カ首ニ決定セリ

二月廿九日此役ニ家士死傷ノ者ヲ改メ目録ヲ達スヘキ旨台使ノ令ニ依テ三月朔日相達ス 手負合千八百ニ拾六人討死合二百八拾五人死傷共總計二千百拾一人
三月朔日忠利熊本城ニ凱旋ス 光利ハ前日發セリ

四月三日閣老太田備中守台使トシテ小倉ニ到着翌四日泰勝院ニ諸将ヲ集メ褒賞アリ 依之忠利モ佐渡・頼母ヲ従へ熊本ヲ發シ同所ニ赴キケル處今般有馬表ニ於テ父子在陳晝夜怠リナク精力ヲ盡シ廿七日俄ノ城乗ニ取合セ三ノ郭ヲ破リ本丸ニ先登殊ニ賊将四郎ヲ討取リ抜群ノ武功将軍感悦不斜緩々休息イタシ参府アルヘシ其節猶又直命アルヘシトナリ 佐渡・頼母ヲモ召出サレ右ノ趣其方共ヘモ宜シク可申聞トノ台意ノ趣具ニ演達アリ忠利謹テ拝謝シ十日熊本二歸ル

五月細川立允等原城戦功ノ浅深ニ随テ褒賞ヲ與フル事各差アリ 且當手ニ屬シタル諸浪人戦死ノ者ハ其子ニ褒賞ヲ及ホシ男子ナキハ父母等ニ永ク月俸ヲ授ク 浪士共仕官ヲ望ム者多シト雖共之ヲ許サス 一日饗宴ヲ設ケ各袷衣ニ襲白銀十枚ヲ與ヘテ孰モ本國ニ歸ラシム 追手召抱タルモアリ且戦死ノ者ノ為メ追福ヲ修ムヘシトテ城南安國寺ニテ厚ク法事ヲ営ム 忠利モ参詣シテ親ラ焼香ス 家老諸隊長并戦死ノ者ノ子孫ハ勿論舊好縁家朋友思々ニ参詣シ主恩ノ渥キヲ感シケルトナリ

十六年己卯四月三日忠利登城将軍ニ謁シケルニ去年有馬ノ一件色々懇篤ノ詞アリ

十七年庚辰正月四日忠興五男刑部興孝江戸ヲ發ス 興孝去ル元和元年ヨリ證人トシテ在府シケル處去年五月四男立孝出府シテ之ニ代ル

六月加レウタ舩長崎へ来リ以来日本へ往来セン事ヲ請ヒケルニ彼國ハ邪宗門ナルヲ以テ渡海ヲ禁シ置キタルニ此度猶渡来スルニヨツテ幕使ヲ長崎へ差下サレ悉ク誅伐セラレサテ鎮西ノ大小名ヲ嶋原ニ集メテ銘々領内覺悟ノ儀ニ付法令布告セラル 因テ忠利モ彼表へ赴キ其事ヲ承テ歸國シ佐賀関山ト佐敷山ト両所ニ遠見番建置クヘキ旨ヲ命ス
九月十七日忠利鉄炮副頭十人ヲ招キテ饗應ス奥座敷ニ於テ親ラ茶ヲ點シテ是ヲ與フ 其節忠利申ケルハ竊ニ申聞クヘキ事ヲ是マテ推移リタリ凡ソ足軽頭ハ多クハ老巧ノ者共ナレハ地形ニヨリテハ馬ヲ乗廻シ親ラ下知スル事難儀ノ時モ有ヘシ 夫故忠興ノ掟ニテ若キ者共一人ツゝ副頭ニ究メ置カル
是先登ノ役ナレハ手負ナトノ時旁宜キ為ナリ 孰モイカゝ覺悟シタルカ知ラサレ共戦ハ駈引ヲ専トス 若キ者共ハ退ク事ヲ如何ニ存スヘケレ共駈クヘキ寸ハ速ニ駈ケ引クヘキ寸ハ引ヲ駈引巧者ノ武士トハ申ナリ 又若者ハ自身ノカセキ疎ニシテハナラヌトモ思フヘシ 然共組ヲ預ル上ハ其組ノ功ヲ以テ勝利ノ第一トス 其後ニ自ラ高名アルハ然ルヘシサレトモ自身ノ功ハ第二タルへキナリ サテ鉄炮ウタセ様三十挺トアル組ハ柏子ヲ以テ絶へサルヤウ打スヘキナリ伊達正宗抔モ右ノ通平生稽古致サレタル由又時ニヨリ足軽ノ内慥ナル者ヲ五三人残シ置キ其玉薬ヲ嗜イツレモ打切シタル時件ノ五人ヲ以テ打拂ヒナハシマリニ成ルナリ 但早合早打ノ吟味連々能覺悟イタスヘシトカク習ハシハ平生ニアリト懇ニ示諭シケレハイツレモ感服シテ退出ス
【忠利卒す】
十八年辛己忠利病気差重リ興長ヲ枕本ニ呼ヒ政事ノ事具ニ教示シ且光貞未タ若年ナレハ萬事心ヲ附補佐スヘシ又父三齋事ハ老年ニテ気短ニモ有ルユヘ随分念ヲ入レ心ヲ慰ムヘキ様頼母・監物等示シ合其外ニモ能々申合スヘキ旨遺言シ三月十七日申ノ刻忠利卒ス歳五十六 家臣殉死スルモノ十九人忠利平素文武ニ志深ク元和五年己未五月将軍秀忠上洛ノ時諸侯皆之ニ従フ 忠利モ其一ナリ在京中藤原惺窩ヲ訪テ道ヲ問ヒ甚其學ヲ欽慕シテ浅野長重ト共ニ惺窩ニ乞テ大學ノ講筳ヲ開ク 惺窩為ニ衆説ヲ折衷シテ之ヲ告ク深ク惺窩ノ為ニ親シミ重ンセラル 冷泉中将為景ハ惺窩ノ子ナリ幼シテ父ニ別レケレハ忠利ヲ尊尚セル事父ノ如シ 忠利卒セシヲ聞ニ及テ悼文ヲ作リテ曰此朝臣は智仁勇ノ三ヲ具シテ其器小ナラス廊廟ノ材アリ 故ニ大樹モ深ク信シテ特ニ大國ニ封セリ 其後嶋原ノ役ニモ殊功アリ 平素學問ニ志厚ク経義ヲ旨トシテ國ヲ治シカハ民モ大ニ其徳ニ懐キヌ 若年ヨリ先人ト雲龍ノ交リ浅カラス 先人モ其志ヲ感シテ兼テ秘シケル逐鹿寸鐵ナトノ書ヲモ傳へシト云々又劔術は柳生但馬守ニ學ンテ奥儀ヲ究メ兼テハ中條流ヲモ學得タリ 
【宮本武蔵】
且又宮本武蔵ト云武邊ノ達人アリ劔術ヲ以テ世ニ聞フ播州ノ産ニテ村上圓心ノ末葉ナリ 初メ新免氏後宮本氏ニ改ム 諸國武者執行トシテ肥後ニ来ル 忠利家臣ヲ以テ身上ヲ尋ケルニ書附ヲ以テ答フ 其略我等是待て奉公セシ家モナク老テ且病ミヌレハ身ニ望ナシ若逗留ノ内御出馬モアラハ相應ノ武具ヲモ持セ乗替ノ馬一疋モ牽セハ居宅家財ハ思ヒモ寄ラス熟年ヨリ戦場ニ出ル事六度其内四度ハ拙者ヨリ先ヲ駈ケタルモノ一人モナシ去ナカラ此ヲ以テ身上申立ヲスルニハアラス武具ノ拵へ軍陳ノ便利時ニヨリ國ノ治メヤウ是等ハ若年ヨリ心懸鍛錬セリ 顧問ニ與ラハ申上ヘシト坂崎内膳マテ相達ス 此節熊本千葉城ニ居第ヲ與へ大組頭ノ格ニテ客分ヲ以テ是ヲ待ツ 正保二年五月十九日六十四歳ニシテ卒ス

三月十九日光貞江戸ニ在テ父忠利疾病ノ由ヲ聞キ速ニ暇ヲ乞テ直ニ江戸ヲ發ス 将又将軍ヨリ見廻ノタメ京都ヨリ鍼醫半井以策ヲ差下サル 幕使曽我又左衛門同日ニ差立ラレ老中奉書ヲ以テ見廻アリ 光貞ハ道ヲ急キケル處同廿五日遠州浜松ニテ訃音ヲ聞キ甚愁傷シケル處ニ老臣共ヨリ申越ス趣アリテ即チ江戸へ引返シ四月朔日江戸ニ着ス 五日阿部豊後守幕使トシテ来ル 口上ノ趣ニ越中守忠誠ノ志深ク常々頼モシク思召シケル處不幸ノ段将軍哀情浅カラス肥後守モ同ク隔意ナカルへシ 殊ニ母ハ戚里ノ好ミモアレハ別テ懇意ニ思召サル間随分公務ヲ専ニスヘシトテ香奠白銀五百枚ヲ賜ハリヌ サテ同廿六日品川東海寺ニ於テ法事執行其節幕使トシテ柳生但馬守来テ焼香ス

                               (了)  

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