津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

細川家家臣・木村氏

2010-04-27 18:47:04 | 歴史
 木村氏については何度か触れたつもりでいたが、どうやら見落としていたらしい。その出自は宇治の上林氏である。(タイトルを打ち込むとき、木村の次ぎに「うじ」と打ち込んだら「宇治」と出てきて思わず笑ってしまった)
        武家家傳-上林氏 www2.harimaya.com/sengoku/html/kanbaya.html
先祖附によるとその祖は上林加賀守とあり、宇治のお茶の代官職であったとされる。上林久重であろうか。掃部--徳順--峯順--峯順と続き初代半平へと至っている。分家があるが峯順から初代万蔵とある所を見ると、半平と万蔵は兄弟か。上林家の家紋とされる「三つ柏」が分家の方で「丸に三つ柏」紋として使われているが、両家とも家紋は「四つ目結」が表紋のようだ。

 半平家は3000石家老等を勤めた名家であり、二代豊持は隠居を躊躇する綱利に諫言をしたことで知られる、三代豊章は細川新田支藩・三代藩主利恭の弟であり光尚とは叔父甥の関係である。

 熊本市上林町に其の名を残す「上林氏」も、藩では茶に係わる仕事をして入る。こちらは「田邊籠城衆」で戦死した名誉の家だが、遡れば同族であろう。
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枯芦ノ 塒(ネグラ)モ寒シ 夜ノ鶴

2010-04-27 16:58:10 | 歴史
重賢譜に登場する養母(兄宗孝室)靜證院が亡くなった際の重賢の句である。靜證院は紀伊大納言徳川宗直女、友姫、享保五(1720)年庚子十一月十六日生ル~安永九(1780)年庚子十月四(六)日江戸ニテ卒ス、年六十一、法号靜證院慈海義雲、妙解寺ニ葬る。宗孝が不慮の死を遂げた延享四年(1747)は二十八歳である。家譜その他で重賢は養母に対し孝を尽くしたと特筆されている。

この句はそんな重賢の悲しみが伺える句であると共に、別の想いが言外にあるような気がして仕方がない。重賢と靜證院は同じ年の生まれであり、靜證院が四十日ほどのお姉さんという事になる。「重賢日記」なる資料を読むと、二人が頻繁に顔を合せている事が判り、凡人たる私は変な勘ぐりをしてしまうのである。
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細川家譜--細川治年譜 ・・ (全)

2010-04-27 14:56:55 | 細川家譜

  細川治年譜

細川越中守源治年ハ重賢ノ嫡男ナリ 幼名胤次初賢年ト名乗ル 安永三年三月廿二日従四位下ニ叙シ侍従ニ任セラレ中務大輔治年ト改無

天明五年乙巳十二月十ニ日父重賢遺領相違ナク相續同六年正月越中守ト改ム

【犬追物の事】
七年丁未二月齋藤権之助高壽ヲシテ武田流騎射師範トシテ犬追物稽古ヲ倡ハシム 犬追物ハ先祖藤孝ヨリノ傳来ニテ竹原勘十郎カ家ニ代代ヲ掌ラシムレ共其式久シク行ハレサリシヲ天明ノ初ヨリ権之助并ニ境野嘉十郎意明二人弓馬ノ禮再興ノ志ヲ起シテ勘十郎ヲ師トシテ秘府ヲ開キ故籍ヲ探リテ日夜ニ研究セシカ中比二人不平ノ事アリテ其黨二派トナリ嘉十郎ハ城北二塚山ニ権之助ハ城南椎田村ニ各騎射場ヲ設ケ同士ヲ語ラヒテ騎射ヲ學フ 天明六年治年此由ヲ聞テ犬追物ヲ観へシト命ス 勘十郎承リ権之助嘉十郎両人ニ諭シテ云各多年ノ志ヲ遂テ犬追物高覧ニ供スル事武門ノ面目ナリ然レ共両勇不平ノ形ヲ成シテ南北ニ分レン事甚タ然ルヘカラス願クハ和解シテ両門一途ニ歸シ禮式ヲ行ヒ高覧ニ供セハ猶更然ルヘシト示諭シケレハ両人忽チ和睦シ椎田村ノ騎射場ヲ造営シテ同年十二月始テ治年ノ一覧ニ供巣 於是今年権之助ヲ師範トナシ家中ノ士ヲシテ益其藝ヲ習練セシム 其後齊茲代寛政三年益城郡矢部山ニ狩セシ時権之助并ニ門人十人ヲ撰ミ随従セシメテ其技ヲ試ム 同四年椎田村ノ騎射場ヲ熊本城竹ノ丸下ニ移シ同十二年十二月ニ至テ又城南田迎村ニ移ス 先是寛政四年十一月権之助故有テ師範ヲ除カレ嘉十郎ヲシテ師範タラシム 九年十一月嘉十郎師範ヲ辭巣 十一年九月故實葉竹原一家ニ任スヘ騎旨申付十一月竹原九左衛門ヲして更ニ騎射師範ヲ兼帯セシム

九脱十六日治年卒ス年二十九 治年人ト為リ温恭簡黙ニシテ父重賢善政ノ跡ヲ踏テ旧臣二任シ遺制ヲ守リ一モ自ラ為事ナクシテ一國能ク服シタリ
                         (了)

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細川家譜--細川重賢譜 ・・ 6 (了)

2010-04-27 08:24:51 | 細川家譜

明和七年冬一近臣不正ノ事アリ家老奉行共之ヲ罪セント請フニ聴カス 翌年正月十一日ノ朝奉行謁見ヲ乞フ重賢前日放鷹シテ■■刻ニ還リ未タ浴セス直ニ延テ之ヲ見ル 奉行前議ヲ陳スルニ猶聴カス諫争稍久シテ評議ノ終ルヲ待ツ 奉行退テ其未タ朝食セサルヲ知リ驚テ日晷ヲ視レハ己ニ午ナリ重賢初メヨリレル色ナク亦倦タル容ナシ 重賢平生飲食衣服ニ節倹ヲ加フ 朝飯ハ茶漬香物焼味噌梅干ノ類夕食ハ一汁一菜夜ハ吸物外ニ有合ノ軽キ一肴ニテ酒畢テ夜食香物焼味噌マテナリ 一年天下凶荒ノ折節例ノ味噌香物ヲ進ムルニ其内一品ヲ除ク 左右之ヲ見テ節倹モ限リ有ヘシ何ソ如此ニ至リ玉フヤト云ケレハ今年柄家臣ノ扶助モ毎ノ如クアラサル故今程難儀タラン責ヲ斯ル事ヲモシテ聊艱苦ヲ同フセント云ヘリ 又臺所ノ定メニテ飯ハ以前ヨリ二釜炊キ来ルト聞テ炊キ損シタル時ハ臨時ノ仕方モ有ヘシ平日其備ヲナスハ奢ナリ且夜ハ夕飯ノ残リタルヲ用ユヘシトテ是ヨリ二釜ノ炊ヲ止メ夜飯ハ毎モ冷食ス 呉服ハ京師ヨリ買テ其上品ヲ擇フ定メナリシヲ重賢命シテ次品ヲ買ハシム且常服二ハ紬以下棉布ヲ用ユ 年老疾添ヒテ後人々強而勧メケル二任セ漸ク尋常ノ縞類ヲ用ユトイヘ共垢付ケハ濯ハシメ猶之ヲ用ヒタリ 或時庭中ニ逍遥ス従臣二美服スル者アリ重賢之ヲ見テ天道を恐ルヘシト再三申ケレハ近侍其意ヲ問フニ我常ニ天ヲ恐ル是ラ以テ運ニ協ヒ今日待て饑寒ニ免カレタリト云ヘリ 近侍又國主ノ身トシテ何ソ饑寒ヲ患玉ハンヤト云へハイヤトヨ天道ハ盈ルヲ■ク衣食住ヲ初メ萬事ニ節倹ヲ守レハ天ノ悪ミヲ受ケス是運ヲ保ツナリ 我大國ヲ有ツテ不足ナキ身ナレ共家子郎黨ヲ扶助シテ非常ニ備フル職ナレハ始末饑寒ヲ免カレハ事足レリト思フナリ然ニ美服珍味ヲ求ムルハ冥加ニ背カント云ヘリ 又家作等ノ事最モ質素ナリ先ツ居間ハ柿渋ヲ引タル紙ニテ壁ヲ張リ疂縁モ渋布ヲ用ヒ楣間ニハ篠竹ヲ間遠ニ打セタルマテナリ 嘗テ江戸龍口邸焼亡ス其跡客殿ノ柱は良材ヲ擇ハント請へ共許サス只堅固ヲ主トシテ営ナマシム サテ熊本屋方ニ三層ノ樓アリ遠謀極メテ勝レタレ共不用ノモノナリトテ取除ク又屋方ヲ距ル事一里計リ水前寺ト云所二別荘アリ成趣園ト名ツク砌下ヨリ清泉湧出テ頓テ舟ヲモ泛フヘキ池トナル向フニハ富嶽ニ象トリタル假山ナト有テ比類ナキ勝地ト穪ス政事ノ暇ニハ必ス茲ニ遊ヒケルカ此別館モ打毀チ只水ニ臨メル水月亭ト名ツケタル聊ナル一宇ノミ残ヒリ
天明五年九月ニ至里病既ニ篤シ起臥モ左右ヨリ之ヲ扶クルニ寝所ノ疂破レ足ニ碍ラン事ヲ恐レ重賢用所二在ルヲ窺ヒ竊ニ敷替ヘタルヲ見咎メ誰カ如此由ナキ計ラヒヲセシトテ以テノ外ノ気色ナリ時ニ幕府ノ醫堀本一甫側ニ在リケレハ一甫コレ見ラレヨ我平生節倹セシヲ近習ノ者共心得スシテ斯ル振廻ヲナスコソ口惜ケレ 斯申セハ餘リ吝嗇ノ様ナレ共我一生心ヲ比ニ盡シタレハコソ領内ノ人民饑餓ヲ免カレタレ 今ヤ病ミ惚レタリ只言ハテ止ミナント悶ヘタリケルカ翌十月ニ身終リヌ
重賢が養母靜證院ハ紀州中納言宗直ノ女ナリ重賢之ニ事スル事甚タ慎メリ 在國ノ節冬日ニハ必ス放鷹ノ鳬ヲ贈ルニ日ヲ経テ味ノ變セサランカ為ニ賜ヲ除テ實ルニ小豆を以テシ二翼を贈ル時ハ別ニ二翼ヲ同様ニシテ蓄ヘ置キ飛脚ノ江戸ニ至ル頃ヒニ其二翼ヲ調味シ座ヲ正シテ之ヲ喰フ 一ハ以テ侍食ノ意ナリ一ハ以テ肉味ノ變ヲ試ミルナリ 一年重賢中風ノ気味アリ 近侍ニ命スル事モ例ニ替リテ性急ナリ 靜證院之ヲ聞テ疾ヲ得テハ誰モサル習ヒナレ共召仕ハルル者共モ亦痛ハシケレハ今少シ心持アレカシト言贈ル重賢大ニ恐レ慎ンテ忽チ昔日ニ異ナル事ナシ 安永九年九月靜證院病篤シ時ニ重賢國ニ在リ之ヲ聞テ大ニ驚キ使を幕府ニ馳テ湯薬二侍セン事ヲ願フ従臣皆旅装シテ使ノ還ルヲ待ツニ疾遂ニ起スシテ凶訃至ル 重賢哀殊ニ甚ハタシク偶俳句ヲ賦シテ曰ク
枯芦ノ 塒(ネグラ)モ寒シ 夜ノ鶴 俳句ノ道ニモ委シ雅名花裏雨ト称す遺草一櫃ニ満テリ

重賢封ニ就クノ初メ先ツ孝貞勧業ノ者ヲ吟味して其程程ニ恩賞ス 其風稍ク移リ恩賞ニ與カル者年々相増シ四十年ノ間殆ト六百人ニ及フ 中村忠亭ト云フ者肥後孝子傳前後編ヲ著ハシテ世ニ梓行ス 重賢殊ニ老者ヲ憐レミ四民ヲ擇ハス齢ヒ九十ニ満ル者アレハ其人ニ随シテ衣服金銀ヲ與へ百歳已上ハ毎年之ヲ行不 初メハ歳ノ六月ヲ期トセシカ老木風ヲ待タスト有レハ後ニハ正月十一日ヲ以テ定例トス 嘗テ江戸ニ在ル時尚歯會ヲナス七十歳以上之人々ヲ招テ之ヲ饗シ人毎ニ壽ノ字ヲ蒔絵シタル盃一ツ宛贈リ餞者ニハ金子輿賃ヲモ與フ 女ハ夫人ノ所ニテ之ヲ饗す 此日會スル者賓客十三人家臣九人雑人七人女十九人ナリ 
重賢鷹を愛シテ朝夕之ヲ玩アソフ然レ共狩ニ出ル時ハ稼穡ノ妨ヲ恐レ供ノ者ハ本道ヲ行シメ自身ハ近習ノ者ト僅ニ畔ヲ傳ヒ假リニモ田畑ノ内へ入ラス芸耕スル者行逢テ重賢ナル事ヲ知ラス先是狩ノ時ハ其所郡代陪従スル定ナリシヲ治民ノ要職遊獵ニ従ヒテ民事ヲ弛スヘカラストテ此事永ク停止ス嘗テ阿蘇ノ地方ニ狩ス日既ニ暮ル 其邊ノ百姓共手毎ニ明松持来ヲ道ヲ照ス其事ヲ村長ニ問シムルニ昔ヨリノ掟ナリト答フ晝夜ニ暇ナキ百姓を我狩ノ為ニ煩ラハスヘカラストテ皆返シ遣リ頓手國中ニ觸レ手此事モ停止ス
宝暦六年農政改革ヨリ民心悦服シテ戸口モ年々ニ相増シ賑フヨリシテ誰勧ムルトナク一年に一度殿様祀リト云フ事ヲ始メテ漸ク國中ニ遍ナシ其祭リ定日ナク秋後農隙ヲ考カへテ一郷申合セ酒ヲ醸シ餅ヲ搗キ程々ニ営ナミ其ヲ神ニ奉ルカ如クニシテ此君ノ御國ニ生レ逢タル身ノ歓ヲ述へ酒ヲ飲ミ歌ヒテ一日ノ樂ニ百日ノ労ヲ慰ムルヲ定例トス
サテ世子細川胤次附ニ小野武次郎景辰ト云フ者アリ往年重賢ニ侍へリシ愛甲十右衛門カ門弟ニテ北越流ノ軍理ニ達ス 或時重賢世子ノ館ニ至リ武次郎ヲ呼テ士ノ重ンスル所ハ死生ノ二ツナリ其を如何覚悟シタルヤト問フ 武次郎謹テ傳書ニ死ノ萬般ヲ推スト申ス事ノ候死ハ様々有テ易ケレ共死ニ
處スル事ノ難キヲ申スナリ苟モ處スルノ道ヲ知ラハ心惑フ事アルマシト對フ 又問フ其死ニ處スル道如何武次郎凡ソ士タル者戦場ニ操ラ立ルハ申スモ愚ナリ所詮一度ハ節義ニ死スヘキノ道理ヲ豫メ覺悟シ常々勤ニ懈ラス銘々ノ居リ場ニ安シ身ヲ保ツテ非常ニ備ルコソ死ヲ辨ヘタルト申スヘキ歟重賢暫ク黙然タリシカ又云フ武士トハ大名モ小身モ一ツニ唱ル詞ナルヘシ小身ノ死生ハ左モ有ルヘケレ共大名ハ唯死生ノミナラス國ノ存亡ヲ辨へスンハ有へカラス如此筋合ヲ児共ヘモ能々知セン事ヲ願フナリト云ケリ
                          (了)
                         

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