「細川家譜」が「田邊城籠城」に差し掛かったが、いささか疲れて予定の半分処で小休止している。UPは明日にしようと思っている。
さて攻め手の大将は小野木縫殿助だが、その奥方は猛将島左近の娘だそうな。
忠興は田邊城を攻めたこの小野木氏だけは許す事が出来ず、諸将の助命嘆願も入れられず縫殿助は切腹して果てた。奥方も同時に自害して果てたとされる。島左近は戦場で亡くなったとも、寛永九年京都で亡くなったとも言われているが、熊本にも不思議な話が残されている。
熊本市のほぼ中心部、国道三号線に面して「西岸寺(さいがんじ)」とお寺がある。
創建は鎌倉期の安貞二年(1228)とされるが、寛永十年僧泰岩によって中興されたという。この泰岩が細川氏肥後入国前に、肥後内定の密命を受けてこの西岸寺に入寺したとされるが、この人こそが島左近だというのである。(-くまもと城下の地名-から)細川氏の入国が寛永九年十二月、左近が亡くなったとされるのが寛永九年、泰岩による西岸寺の中興が同十年・・・ありえない話と否定も出来ない微妙な所だが、詳しく調べてみたい興味ある話ではある。
国道を挟んでその向こうは白川である。対岸にはかって罪を得た人々の処刑場があった。
幼い頃祖母からよく聞かされた話だが、処刑の折にはこのお寺の鐘の音で城下の人たちは其のことを知ったという。西南ノ役・太平洋戦争の戦火にも会わずにきたが、道路の拡幅で寺域も随分狭まっているようだ。裏通りといえば、いささか怪しげな歓楽街へとつながっている。
さて攻め手の大将は小野木縫殿助だが、その奥方は猛将島左近の娘だそうな。
忠興は田邊城を攻めたこの小野木氏だけは許す事が出来ず、諸将の助命嘆願も入れられず縫殿助は切腹して果てた。奥方も同時に自害して果てたとされる。島左近は戦場で亡くなったとも、寛永九年京都で亡くなったとも言われているが、熊本にも不思議な話が残されている。
熊本市のほぼ中心部、国道三号線に面して「西岸寺(さいがんじ)」とお寺がある。
創建は鎌倉期の安貞二年(1228)とされるが、寛永十年僧泰岩によって中興されたという。この泰岩が細川氏肥後入国前に、肥後内定の密命を受けてこの西岸寺に入寺したとされるが、この人こそが島左近だというのである。(-くまもと城下の地名-から)細川氏の入国が寛永九年十二月、左近が亡くなったとされるのが寛永九年、泰岩による西岸寺の中興が同十年・・・ありえない話と否定も出来ない微妙な所だが、詳しく調べてみたい興味ある話ではある。
国道を挟んでその向こうは白川である。対岸にはかって罪を得た人々の処刑場があった。
幼い頃祖母からよく聞かされた話だが、処刑の折にはこのお寺の鐘の音で城下の人たちは其のことを知ったという。西南ノ役・太平洋戦争の戦火にも会わずにきたが、道路の拡幅で寺域も随分狭まっているようだ。裏通りといえば、いささか怪しげな歓楽街へとつながっている。