津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

小野木縫殿助岳父島左近と熊本

2010-04-02 16:37:50 | 歴史
「細川家譜」が「田邊城籠城」に差し掛かったが、いささか疲れて予定の半分処で小休止している。UPは明日にしようと思っている。

 さて攻め手の大将は小野木縫殿助だが、その奥方は猛将島左近の娘だそうな。
忠興は田邊城を攻めたこの小野木氏だけは許す事が出来ず、諸将の助命嘆願も入れられず縫殿助は切腹して果てた。奥方も同時に自害して果てたとされる。島左近は戦場で亡くなったとも、寛永九年京都で亡くなったとも言われているが、熊本にも不思議な話が残されている。

 熊本市のほぼ中心部、国道三号線に面して「西岸寺(さいがんじ)」とお寺がある。
創建は鎌倉期の安貞二年(1228)とされるが、寛永十年僧泰岩によって中興されたという。この泰岩が細川氏肥後入国前に、肥後内定の密命を受けてこの西岸寺に入寺したとされるが、この人こそが島左近だというのである。(-くまもと城下の地名-から)細川氏の入国が寛永九年十二月、左近が亡くなったとされるのが寛永九年、泰岩による西岸寺の中興が同十年・・・ありえない話と否定も出来ない微妙な所だが、詳しく調べてみたい興味ある話ではある。

 国道を挟んでその向こうは白川である。対岸にはかって罪を得た人々の処刑場があった。
幼い頃祖母からよく聞かされた話だが、処刑の折にはこのお寺の鐘の音で城下の人たちは其のことを知ったという。西南ノ役・太平洋戦争の戦火にも会わずにきたが、道路の拡幅で寺域も随分狭まっているようだ。裏通りといえば、いささか怪しげな歓楽街へとつながっている。
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「細川家譜」 閑話休題

2010-04-02 08:27:14 | 徒然
 「細川家譜」は全11巻で構成されている。はっきりしたページ数はつかんでいないが、約1,800ページ程にも及ぶ膨大なものである。

 巻一 例言、系図
     頼有譜--頼長譜--持有譜--教春譜--常有譜--政有譜--元有譜--元常譜
 巻二 藤孝譜
 巻三 忠興譜・上
 巻四 忠興譜・下
 巻五 忠利譜
 巻六 光尚譜 綱利譜 宣紀譜 宗孝譜
 巻七 重賢譜 治年譜
 巻八 齊茲譜 齊樹譜 齊護譜
 巻九 韶邦譜・上
 巻十 韶邦譜・下 護久譜
 巻十一 藩翰譜之内細川家補正

「巻一」を飛ばして「巻ニ・幽齋譜」から開始これは既に完了、「巻三・忠興譜-上」が九割方完了した。一巻がほぼ160~170ページ程有るが、これを10~11回ほどでご紹介しようと思っている。一日の作業量を16~17ページとして頑張れば、ほぼ10日から2週間で終えることができる。残りの「巻一」と「巻四~巻十一」の計九巻を、二週間で1巻のペースで行けば、四ヶ月半で完了させられる。・・・と、考えていたが段々自信を無くしてきた。仮名文字文であるため、打ち込みに大変苦労する。一日分に約四時間ほどを費やしているが、最近目が疲れてしようがない。「上妻文庫」の上妻先生がある文書を書き写されて、後書きに書かれた言葉をふと思い出した。「白内障で失明するかと覚悟していたが無事に終えることが出来たのは、神のご加護」と書かれてた。先生はクリスチャンであるが、強い信念の元膨大な筆写による史料を残された。ただただ頭が下がる。足元にも及ばないが、これは何とか頑張ろうと思っている。10数センチに及ぶ原稿の山を見ると、さすがに溜息が出てしまうが・・やらずば成るまい。「宇土」「高瀬」「茂木」があるが、これはどうなるか判らない。
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