津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

細川家譜--細川忠興譜 ・・ 11

2010-04-03 17:32:35 | 細川家譜

【田邊城籠城】
七月三成居城佐和山ヨリ兵ヲ率テ大坂ニ至リ與黨ヲ會合シテ内府ヲ滅スヘキトノ企アルヨシ丹後ニ
モ風聞有リ 又此時関東へ随身ノ大名中ニモ忠興ハ必内府へ味方スヘシ急キ丹後へ軍勢ヲ差向
ケ幽齋ヲ攻ナハ忠興モ心ヲ飜スヘシ左無クハ城ヲ攻落シ丹後一國ヲ治ムヘシトノ評議ニテ數ケ國
ノ勢ヲ差向ルヨシ三刀谷四兵衛ト云モノ早々田邊へ報告セリ 依之幽齋思慮シケルハ宗徒悉ク関
東へ趣(ママ)キ松井・有吉ハ豊後ニアリ今纔カノ兵ヲ以テ諸城ノ守リハ成リ難シ 敵寄来ナラハ田邊
一城ニテ防戦スヘシト國中ノ武具玉薬等不残田邊ニ運ヒケリ 十八日大坂ヨリノ飛脚到来十七日
忠興カ内室殺害ノ由申述ケレハ幽齋大ニ驚キ程無ク石田カ與黨丹後へ攻入ルへシトテ宮津・嶺山・
久美ヲ初メ所々焼拂ヒ國中ノ士卒悉ク田邊ニ集リ其餘三刀谷四兵衛・佐方與左衛門等モ馳加ハル
總勢士五十人雑兵五百餘人ニ過キス 軍令ヲ以テ銘々ノ持口ヲ定メ僅ノ勢ニテ俄ノ事ナレハ此所
彼所取繕ノ間モ無リシカ共士卒トモ幽齋ヲ頼母敷思ヒ互ニ勇ミヲナシ城邊ノ木立ノ仕寄ニナルヘキ
所ハ切倒シ或ハ焼拂ヒテ敵ヲ待ツ 斯テ寄手ノ大将小野木縫殿助等ヲ始メ一萬五千餘廿日國境
マテ亂レ入リ山ヲ越へ嶺ヲ傳ヒ追々ニ寄セ来ル 翌廿一日ニハ石川備後守・河勝右兵衛・谷出羽
守等在々所々ヲ焼拂ヒ頻ニ鉄炮ヲ放ツ 城中ヨリモ三刀谷四兵衛等福井ノ山鼻ニ出張シ足軽ヲ下
知シテ挑ミ戦フ 鉄炮遠物打ニハ日置善兵衛・上林助兵衛・北村甚太郎・同勘三郎・加藤新助各
競ヒ進テ稠シク鉄炮ヲ放チケレハ福井ノ本村へハ敵入得ス引退ク 同日南大手ノ方公攵名ト云在
所ニ赤松左兵衛・山崎右馬助・小出大和守カ人數寄来リケレハ幽齋カ三男妙庵幸隆下知ヲ加へ
鉄炮ニテ打退ク 此時上林・日置・加藤ハ砲玉ニ中リテ死ス 廿二日朝西南ノ嶺ヨリ敵ノ昇ヲ谷へ
卸シ各陳所に定ル躰二見へ又大内ト云在所ノ峯ニモ山崎左馬助・小出大和守カ昇見へケルカ是
モ谷へ下り陳ヲ取ル様子ナリ 妙庵彼所へ大筒打懸見ルヘキ旨北村甚太郎ニ令シケレハ則テ妙
庵受場ノ櫓ヨリ大筒ヲ放チケルニ初メハ驚ク體モ見へサリシカ四發目ノ玉ニテ殊ノ外騒キ立ツ故其
勾配ヲ積リテ猶頻ニ放チケレハ人數大ニ擾亂シテ昇差物ヲ元ノ嶺ニ引揚ケタリ 夫ヨリ敵近ク寄セ
ケル所ニハ毎度甚太郎ニ令シテ打除ケル故其後ハ敵竹束ニテ附寄セケリ 廿三日朝小野木縫殿
助大軍ヲ帥テ攻来リ互ニ砲戦ス 我兵三十餘人突出力戦シテ死傷アリ 幽齋使ヲ遣シ敵ハ大軍
ナリ味方一人戦死シテモ殊ノ外弱リナリトテ市中ニ火ヲ縦チ城中ニ引退カシム 廿四日互ニ砲戦
日既ニ暮ントスル時四方ノ敵一同ニ貝ヲ吹立稠敷鉄炮ヲ放チケレ共城中ニハサノミ来ラスシテ手
負無シ 城中ヨリモ同ク鉄炮ヲ放ツ 夜ニ入リ幽齋命シテ延壽寺口八町ノ橋ヲ撤セシム 廿五日
敵東西ヨリ一度ニ貝ヲ吹立巳刻搦手ノ町口外郭マテ大勢攻来ル 城中ヨリモ侍三十人計リ出テゝ
鉄炮打合ヒ防キケルカ幽齋急キ引揚ケサセ銘々ノ持口ヲ能ク守ラシム 此時敵本町筋ヲ通リ搦
手ノ堀際マテ寄来ル 然レ共其堀ノ橋ハ兼テ撤シ置キケレハ進ミ得サル處ニ妙庵下知シテ北村
甚太郎・松山権兵衛櫓ノ上ヨリ鉄炮ヲ放チ七八人打倒シケルユヘ残ル敵兵怺へ兼テ敗走ス 今
日ヒラ攻ニ攻潰サント巧ミタル躰ナレ共城中堅固ナレハ暮ニ及テ敵皆引去ル 廿六日敵竹束ニテ
附ケ寄スル総シテ近日ハ敵夜々精ヲ入レテ仕寄セケルユヘ城中ヨリモ猿火ヲ出シ怪シキ所ニハ
鉄炮ヲ放チ間断ナク防キタリ然ルニ家中ノ大臣ハ皆忠興ニ従ヒ関東へ赴キ留守ノ臣坂井半助・村
野荘助・北村甚太郎ノミニテ外ニハ遠物打スル者無キユヘ幽齋ヨリ城中鉄炮不鍛錬ノ者ニハ能々
教へイカナル秘術タリ共傳フヘキ旨命シケレハ各傳授ヲ受ケ十二三歳ノ子共ニモ放タシメ透間ナ
ク防ケレ共敵猛勢ナルユヘ晝夜仕寄ヲ付ケ早ヤ堀際近クナリケレハ北村甚太郎分別ニテ鋳抜玉
ヲ拵へ之ヲ諸手ニ渡シテ打セケレハ矢利キ強ク其後ハ敵竹束ニテモ寄セ兼タリ 廿七日 勅諚ニ
ヨツテ八條ノ宮ヨリ中大路甚助ト云近侍ニ書翰ヲ齎ラサシメ和睦ノ事勧諭アリケレトモ幽齋ハ必死
ノ覺悟ニテ固ク辭シ奉ル 然レ共宮ハ兼テ幽齋ヲ歌道ノ師ト頼レシカハ此時秘密ヲ傳ントテ古今
集相傳ノ箱及ヒ證明状等ニ歌一首ヲ添ヘテ贈リ奉リ且廿一代集ヲ 禁裏へ奉獻ス 其歌ニ曰ク
古母今母替良奴丗迺中仁心乃種乎残須言迺葉 又烏丸光廣へ古今傳授ノ箱ヲ贈ル 其歌ニ
曰ク 藻鹽艸嘉伎阿津免多累跡留天昔耳返壽和歌迺浦浪 幽齋此時ノ籠城素ヨリ大坂秀頼ニ對シ敵ス
ル心ナシト雖モ三成カ野心ヨリ小野木等カ大軍攻来リ必死防戦セサル事ヲ得ス 然レ共本朝歌道ノ秘傳此ニ絶ン事ヲ愁テ竊
ニ八條宮侍臣ニ書ヲ贈り使ヲ賜ラハ古今相傳ノ書ヲ奉ラン事ヲ告ク故ニ本文ノ使到着セリ
 斯クテ籠城ノ次第関東へ
申遣シタク思ヒケレ共敵ノ陳所稠シク■ヒニ敵ニ捕ヘラレテハ詮無キ事ユヘ色々思案ヲ廻ラシ雲
龍寺ト云僧侶ニ委ク申含メ城中ヲ出シケルカ辛フシテ敵ノ番所ヲ通リ脱ケ八月五日頃清須陳所へ
着シ委ク忠興へ申述タリ然ルニ八月中旬ヨリ敵東西ニ大石火箭ヲ仕カケ諸勢替ル々々亂發シテ
稠シク攻メケレ共素ヨリ覺悟ノ上ナレハ幽齋少モ屈セス諸士モ一■ニ思ヒ定メ下卒ニ至ルマテ必
死トナリテ防キケリ 幽齋内室モ具足ヲ着シ武藤又兵衛ヲ率ヒ城中夜廻利シテ士卒ニ心ヲ附ケ又
ハ寄手ノ内ヨリ城中ニ志ヲ通シ空砲ヲ發チナトシタル人々ノ昇ノ紋ヲ記シ置キタリ 後ニ忠興ヨリ右記シ
置キタルヲ内府へ進覧セシ故小出・藤掛・谷・川勝等ノ數氏身體別状ナカリシナリ
幽齋初メヨリ唯一筋ニ思定メタル
籠城ノ段追々 叡聞ニ達シ大徳寺玉甫和尚へ 密勅アリテ今度田邊籠城ニ幽齋討死致スニ於テ
ハ神道ノ奥儀和歌ノ秘密永ク絶テ神國ノ道モ空シカラン速ニ丹後ニ馳下リ幽齋下城致ヘキ旨異
見ヲ加へトアリケレハ玉甫謹テ對へ奉ルハ幽齋歳老テ此節城ヲ出テタリ共幾年歟往キ延ン哉殊
ニ嫡子越中守関東へ出陳中ナレハ彌二心無キヤウニ田邊城ヲ枕トシテ討死セン事愚僧ニ於テモ
然ルヘク思フナリ サレハ此 密勅何分命ヲ奉シ難シト辭シ奉リケル故彌宸襟ヲ惱マサレ大坂へ
勅使ヲ下シ玉フテ前田徳善院ニ急キ田邊ノ圍ヲ觧キ幽齋ヲ城ヨリ出スヘキ由詔アリ 石田初メ勅
命背キ奉リ難ク善徳院ノ猶子前田主膳正義勝ヲ田邊城ニ遣シ和議ヲ取扱ハセケレ共幽齋一向
二許容セス彌堅ク防禦ノ用意ヲナセリ

八月下旬中津海五郎右衛門・小島六左衛門関東ヨリ来着シ忠興カ書ヲ達シ関東ノ形勢具ニ申
述フ 然ルニ右ノ使忍入リシ事如何シテ敵方へ聞へケン城ヨリ五町計リ隔テ一夜ノ間ニ四方トモ
虎落ヲ結ヒ一町毎ニ番屋ヲ建テ沖ニハ番舩數多浮へ堅ク出入ヲ戒メケリ 籠城ハ七月十八日ヨ
リ九月ニ至リ寄手色々手ヲ砕キ生兵ヲ入替へ稠敷攻圍ミ味方ニハ外ニ援兵ノ来ルヘキ無ク城内
纔々ノ人數ナレトモ幽齋泰然トシテ下知ヲナシ士卒義ヲ守リ動セス 上下一致ニテ能ク禦キケル
上寄手ノ内ニモ幽齋カ勇義ヲ感シ志ヲ城中ニ通シ或ハ虚銃を放テ日ヲ送ル體ナレハ此城イツ陥
ルヘキ共見へサルニ小野木ハ片時モ早ク攻抜ント喘キケレトモ漸々疲レテ今ハ食攻ニスル外ア
ルマシト評議シケルトナリ

【和議調う】
九月十二日両軍和議ノ勅使トシテ三條大納言實條・中院中納言通勝・烏丸中納言光廣三人前
田主膳正ヲ召連田邊ニ下向アリ 先是前田主膳正ヲ以テ和議ノ勧觧アリト雖モ幽齋敢テ許容セ
ス 公家僉議有ケルハ是幽齋敵ノ謀計ト疑フナラン 叡慮ノ趣モ亦然リ故ニ此三人ヲ下市玉フ
小野木ヲ初メ寄手ノ諸将大ニ驚キ俄ニ道筋ヲ清メ鋒ヲ伏テ畏マル 此時勅諚ノ趣ニ幽齋玄旨ハ
文武ノ達人ニテ殊ニ大内ニ絶タル古今和歌集秘奥ヲ傳へ帝王ノ師範ニテ神道歌道ノ國師ト穪ス
今玄旨命ヲ殞サハ丗ニ是ヲ傳フル事無シ速ニ圍ヲ觧クヘキ旨仰渡サレケレハ各謹テ領掌シ奉ル
則チ前田主膳正先導トシテ城中ニ入リ叡慮ノ趣懇ニ命セラレケル處是マテ内勅再應ニ及ヒケン
トモ御受イタシ難カリシニ此節ハ屹ト勅使ヲ差下サレ敵軍エモ勅論休兵ニ及フウヘハ幽齋モ辭
スルニ道ナク謹テ綸命ニ随ヒ奉ルヘキ旨答へ奉ル サレトモ城ハ敵方ニ渡サス 敵觧散ノ後前
田主膳正ニ渡シテ自身ハ主膳正居城丹波亀山ニ入ル事ニ定マル

九月十八日主膳正迎ニ参リケレハ幽齋田邊ヲ出テ其夜ハ檜山ニ宿ル 十九日亀山城ニ入リ本
丸ニ居タリ主膳正ハ二ノ丸へ移ル 此時関東勝利ニテ忠興軍功アリハヤ大津マテ到着トノ飛脚
参リヌ 廿日暁七時分忠興着ス 幽齋ハ乗物ニテ馬堀へ出迎ヒ何事無ク歸陳目出度ト申シケレ
共忠興返答遅々シケレハ汝ハ父カ下城致シタルヲ腹立ト見ヘタリ 年老ヒテ命ノ惜キ二モアラス
三度マテ勅使ヲ受テ下城セシ者我ナラテハ外ニハ有ル間敷ト再タヒ申セシ時忠興平伏シテ落涙
ス 忠隆并玄蕃與十郎モ一所二對面ス 幽齋幕ヲ少シ揚ケテ北村甚太郎ヲ前ニ呼出シアレカ今
度籠城ニ骨折シト申ケレハ忠興モ先達テ聞届タリ若キ者ナル共奇特ナル事トノ詞ニテ座前ニ有
合タル菓子ヲ自ラ與へタリ サテ幽齋ハ大坂へ赴キ内府へ謁シケル處田邊籠城ノ事トモ賞美セ
ラレ何二テモ此度ノ賞望二任スヘキ由命セラレケル共固ク辭退シ唯今度攻手ノ内城中ニ心ヲ通
シタル輩ナトノ身躰別條無キ様ニトノ儀マテ言上セシカハ内府殊更感賞セラレタリ

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益田(増田)蔵人正重

2010-04-03 08:52:56 | 歴史
 井門亀右衛門という人がいる。かって田邊城を攻めた小野木縫殿助の家臣であった。その采配ぶりの見事さが認められて、小野木氏没落後細川家に召し出された。三齋忠興の側近として八代に入り、宇土細川藩の立藩にあたって家老職についた。

 その亀右衛門に助けられた人がいる。大酒のみの益田(増田)蔵人である。その経緯は綿考輯録にも記されているが、佐藤垢石はその「酒渇記」の中で、特に紹介している。
       http://www.aozora.gr.jp/cards/001248/files/46784_26520.html
 酒に明け暮れ家人を養う事をせず、いざの時の家来三百人をどうするのかと危惧する亀右衛門の計略が功をそうし、見事立ち直り細川家重臣となった。(6000石)
幽齋の葬儀にあたっては惣奉行を勤め、飯岡豊前・長岡肥後の誅伐事件に当たっては、大恩ある長岡肥後の攻め手の将となり説得をなし、肥後の潔い最後に立ち会った。

 細川家には益田・増田を名乗る数家があるが、この蔵人との繋がりは見受けられない。
   
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