津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

花ゲリラ

2010-04-11 16:16:45 | 歴史
 畑のど真ん中に新幹線の駅が出来る。このままじゃ拙いぞと、周辺の空き地に菜の花が植えられ(?)、一面の見事な絨毯が現れた。「花ゲリラ」というやつだ。

 ウィキペディアを見ると「花ゲリラ」とは、「土のある場所にゲリラ的に行われる花の種蒔き、苗植え等の行動またはそれを行っている人を指す」とある。そして「2006年にイギリスのゲリラ・ガーデニングがNHKによって紹介され・・」云々とある。

 私がこの言葉を知ったのは相当古い。NHKの初代のお天気おじさん倉嶋厚氏のエッセイ「暮らしの気象学」にあった。(1984・11・22第1刷 株式会社草思社)当時東京では、紫色の花が可愛い花大根が急速に広がったと氏は記している。

 私はこれ以前にいささか犯罪的意図をもって、人様の庭先の畑に菜の花の種を一つかみ蒔いた事がある。近所の川沿いの菜の花の乾燥したさやから採取したものだ。確信犯である。翌年見事な「菜の花畑」が出現、私の意に反しその家の主人は首を傾げながらも喜んでいた。失敗だ・・・

 山あいの休耕地に、レンゲ畑やひまわり畑が突然出現して、観光客が押し寄せたりするという話をよくきく。「花ゲリラ」も又よきかなだが、私のような不心得は駄目ですぞ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

細川家譜--細川忠興譜 ・・ 20 (了)

2010-04-11 08:47:46 | 細川家譜

                          三齋の居城・八代城 
【興秋の死】
六月六日長岡與五郎興秋大坂ニ属シ籠城シケル故城州稲荷東光院ニテ自裁 興秋ハ玄蕃興元ノ養子ナリ 慶長十年三月證人トシテ江戸へ遣ケル道ヨリ亡命シ浪人ニテアリシヲ秀頼ノ徴ニ應シ籠城セリ 五月六日ノ戦ニハ真田・大野ト共ニ突出血戦シ七日ノ合戦ニハ岡山表ニテ毛利豊前守坂兵ヲ率テ本多・小笠原ヲ討取リ戦労レシ處ニ興秋来テ毛利ヲ救ヒ奮戦セリ 西軍敗績ノ時池田ノ持口ヲ撃破テ退キ伏見ニ潜匿シケルヲ告訴スル者アツテ生捕レタリ 忠興コレヲ請テ自刃セシム

閏六月幕府ヨリ天下ニ一國一城ノ外破却スヘキ旨布令アリ 忠興持城九ケ所ノ内小倉ハ本城中津ハ属城ナレ共忠興請テコレヲ存シ諸城ハ破却セリ

十二月忠興駿府へ至リ前将軍ニ謁シケル處信國ノ脇差ヲ賜ハル 是マテ羽柴氏ヲ称シタルヲ本穪ニ改メ然ルヘシトノ旨ニテ乃チ細川ニ復シケリ 遂ニ廿九日江戸ニ至ル 土井大炊頭ヨリ松平ノ穪號ヲ請フヘキヨシ内意アリツレ共我家ノ細川ニテ居リナントテ願ハサリシナリ

六年庚申閏十二月忠興隠居削髪シテ三齋宗立ト改ム 是ヨリ先頻リニ隠居ノ素意アリト雖共餘儀ナク止メラレ今度病後ニ至リ始テ夙志ヲ遂ル事ヲ得タリ

七年辛酉二月三齋暇ヲ給ハル 此時将軍ヨリ三齋忠義浅カラサレハ猶國ヲモ加増セシメン事ヲ思ヒツルニ早ク隠居シ本意ナキ次第ナリ金渡ノ墨蹟ハ天下ニ隠レナキ名物ナル故祝テ之ヲ與ルナリトテ外二モ恩賜品々アリ 下國後中津ニ移リ小倉ヲ忠利ニ譲ル 忠利肥後入國ノ後三齋ハ同國八代城ニ入ル

寛永七年庚午二月三齋登城シテ前将軍ニ拝謁ス 後日三齋大目附内藤外記ニ語リケルハ西侍ト東侍トハ将軍格別ニ思召サルト見ヘタリ東侍ニハ鷹場ヲ給ハリ在國同前ナリト申セシカ翌日西ノ丸へ三齋ヲ召サレ外記ヲ以テ雁取ノ大鷹一連巣鷂二連イツレモ秘蔵ノ由鷹場ヲ下總ノ内小金・深谷両所ニテ給ハリケレハ三齋ハ早速六丸(光尚)ヲ同道シ小金ニ鷹狩シテ逸物ノ鷹ニテ數多ノ雁ヲ取セ忠利二モ贈リケルトナル

八年辛未十一月五日前将軍病ニ臥サレ別而思ヒ出サルゝ由ニテ三齋へ鷹ノ鶴ヲ給ハル 其後疾ノ容躰モ一定ナラス殊ニ長々悩マルゝ由ヲ聞三齋気遣ノ餘リ冬参府シケレハ前将軍ヨリ早速鷹ノ鶴ヲ給ハル 既ニ拝謁済退出ノ後前将軍本復ナリ難キ躰トテ落涙セシカ翌年正月廿四日薨ス

【肥後入国】
九年壬申十一月四日三齋屢故将軍ニ忠節ヲ盡シ且忠利常々ノ忠志恩賞トシテ肥後國ヲ忠利ニ給ル 右ニ就キ三齋モ召サレテ委曲台諭アリ 事ハ忠利譜ニ詳ナリ

十二年乙亥七月廿日六丸(光尚)元服ノ節三齋モ登城佩刀ヲ給り三齋忠節ノ次第台諭アリ 事ハ忠利譜ニ詳ナリ

八月三齋所労アリ将軍ヨリ使ヲ以テ切々容躰ヲ問セラル 快復ノ上二十一日幕使阿部豊後守ヲ以テ歸國ノ暇ヲ給ハリ色々拝領等アリ 右拝禮トシテ登城スルニ将軍ヨリ懇ノ命アリテ退出ノ節土井大炊頭ヲ以テ玄関ヨリ乗物ニ乗ルヘシトナリ 三齋一禮シテ玄関へ乗物ヲ寄セ近頃恐多ケレ共将軍ノ意ト申シ家ノ為ニナルユヘ一度ハ是ヨリ乗ルヘシトテ乗リタリシカ常ハ一門乗輿ノ處ニテ乗リタルナリ總テ三齋登城ノ節羽老中皆玄関マテ出迎ヒ大炊頭は三齋カ長袴ヲ引直シ遣ハス事ナト度々アリシトナリ

十五年戊寅正月肥前有馬ノ役アリ 其比三齋ハ京ノ吉田ニ在リシカ齋藤佐渡守ヨリ有馬へ下向ヲ望マレテ然ルヘシト申来リケレハ三齋答テ何事モ仕出シタル事ハナケレ共又仕損シタル事一ツモナシ最早暮年ニ及ヒ入ラサル事ナリ 若キ者ハ今時ナキ事ナレハ見テ置タルカ能キナリ殊ニ年寄テ口脇ノ黄ナルシユリン々々ナトカ下知ニ附ク事詮ナシ 尤此度ノ事我等ニ頼ム下知ヲモセヨトナラハ今程成リ共思ヒ立へケレ共代々ノ将軍ニ約束ノ筋アルニ任セ如此ノ時は江戸へ赴クヘキトテ其旨閣老中へ申遣シケリ

十六年癸卯十一月十八日三齋へ将軍自ラ茶ヲ點シテ給ハル 終テ書院ニ無準ノ墨蹟一軸俊成定家一紙両筆ノ一軸ヲ懸ケ置カレサテ台意アリケルハ三齋ノ勤労ニヨリ忠利ハ大國ニ封ヲ移サセツレ共三齋ハ隠居ノ事故今マテ何ノ心入モコレナク何方ニ居テモ長命ナルカ奉公成り萬一事アラハ後見ヲ頼ムヘシ此ニ軸イツレナリ共所望ニ任スヘシトアレハ三齋拝謝シ秀忠公ヨリ金渡シノ墨蹟ヲ既ニ給ハリヌ此節ハ仮名モノ拝領スヘシトテ両筆ヲ給ハリテ退出ス

【三齋死す】
正保二年乙酉十二月二日三齋八代城ニ於テ卒ス歳八十三 右訃音江戸へ相達ス 将軍家光哀惜少カラス 松平伊豆守ヲ使トシテ三齋死去ノ段愁傷イタスへシ天下ノ交割物タリシニ別シテ惜ク思ヘルトノ旨ニテ香奠銀三百枚ヲ與ヘラル
                            (了)

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする