津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

細川家譜--細川忠興譜 ・・ 14

2010-04-06 18:56:12 | 細川家譜

三将ノ軍ハ軽卒を前ニ立テ思ヒ々々歩立ニテ攀チ登ル 有吉與太郎康政十八歳初陳ニテ先登セリ 沼田小兵衛延元ハ樫井左近将監ト云者ニ立向ヒ将監ヲ谷底へ突落シ従卒ヲモ悉ク討捨タリ 忠興・嘉明共二士卒ヲ勵シ登リ進ミケルニ敵烈ク銃丸ヲ發シ防キケル故諸手ノ歩卒少シ■ミケルヲ中路次郎左衛門後軍ヨリ馬ヲ馳セ隊部ヲ乗廻シ士卒ヲ勵シ進マセケル 加々山少右衛門・牧新吾・井門正三郎・加々山半右衛門・中津海三郎・入江五郎作等槍ヲ合セ勇戦ス 敵モコゝヲ先途ト防キケルカ瑞龍寺ノ奔兵ニ押立ラレ少シ■メル気色ヲ見テ忠興蒐レ々々ト頻似指揮ス 與一郎忠隆・玄蕃頭興元・與五郎興秋・米田是政等各部下ヲ下知シ諸士ヲ勵シ進撃セシカ士気愈競ヲ得テ相戦フ 興元親ラ槍ヲ揮ヒ士卒ニ先テ闘戦ス 柳田久四郎衆ニ勝レ馳廻リ七曲リノ揚簣戸邊ニテ生駒平三郎ト槍ヲ合セ生駒ヲ突伏首ヲ取ル 此外三隊ノ軍士鱗次進撃双方奮戦セシカ敵終ニ敗レテ簣戸ノ内へ引退ク一村四郎三郎敵ヲ■テ柵ニ薄レリ 有吉康政ハ家士香西九兵衛ト共ニ柵門二迫リ戦ヲ挑ム 敵柵門ヲ開キ突テ出ルヲ康政迎テ激戦ス 敵柵内ニ引入ルヲ透間ナク遂ヒ踵リ安政敵ト組テ押伏セケルカ其マゝ坂下一間計轉落チ康政下ニナリテ兜ノ幖敵ノ胸板ニ押張リ刎反サント捫着セリ 香西九兵衛ハ太刀打シテ首ヲ取立上リ見レハ康政敵ト相摶テ下ニナリケル故取タル首ヲ投捨上ナル敵ヲ一太刀打テ引除ントシケル内康政刎反シテ首ヲ斬ル 敵将木造左衛門等部軍ヲ指揮シテ烈しく防戦セリ 忠興・嘉明・武藤團ノ邊マテ乗付ケ親ラ軽卒ニ令シテ激ク銃丸ヲ發シ沖六之丞柵ヲ乗越へ内ヨリ柵門ヲ闢ケリ 其外各劇戦敵次第ニ戦疲レ人數ヲ引揚本丸ニ入ル 我軍ハ息モツカス疾ク進テハヤ本丸ニ薄ル 澤村才八ハ昨日尾越川渡シノ奉行ニテ諸軍ニ後レ来リケレ共本丸城門ニハ一番ニ馳付ケ直サマ敵三人ニ渡リ合一人ノ縨武者ヲ頬ヨリ耳ニカケ刺貫キ今一人ノ縨武者ト相摶テ谷ニ轉ヒ落遂ニ敵ヲ刺シテ首ヲ獲タリ 其身モ創ヲ蒙ル事七ケ所澗渓ヨリ匍匐シ漸ク本道マテ上リシニ才八カ親族矢野六左衛門・同亀助幸ニ参リ合セ敵ノ首ヲ持チ才八ヲ肩ニ舁ケテ忠興ノ前ニ至リケレハ正則・嘉明同處ニ在テ戦功絶倫ノ由賞美セラル 忠興此者ハ今ニ始メサル儀ナリト云ヘリ才八獲タリシ首ハ秀信ノ臣中嶋傳右衛門トテ高名ノ者ナリ傳右衛門カ甲ノ袖三ツ鱗形ノ花章ナリケレハ忠興命ニ依テ才八家ノ花章トセリ 三隊ノ中ニテモ忠興ノ軍兵別テ先ナル故瑞龍寺ヨリ本丸へ退ク敵ニ渡合本丸二モ早ク薄リケル 忠興・嘉明・正則三将ヲ初同勢ノ諸将敵ノ本丸ニ引籠ルヲ一挙ニ攻破ルヘシト指揮シテ我先ニト塀下ニ薄リ乗込ント競ヒ蒐ル 敵銃丸激發シケル共忠隆■マス進テ本丸一ノ門二早ク着ク 米田是政ハ初ヨリ隊下ヲ進メ塀ニ取付乗入ラントスル時左ノ脇骨ヨリ砲丸ニテ打洞サレシカ忠隆ニ向ヒ死力ヲ盡シ報効ヲ致ント思シニ遺憾ナル事ニコソト云ケレハ忠隆愕キ顧テ創ヲ蒙リタルカ速ニ立歸リ保養イタスへシト云ケレ共重傷ナレハ其マゝ塀下ニ礑ト落テ死ス 嫡子與七郎是季生年十五歳初陳ニテ父ニ劣ラス進ミケルカ敵方ヨリ金ノ麾ノ指物シタル武者一騎是政カ首ヲ獲ント奔リ出ケルヲ是季迎テ之ヲ撃殺セリ 松井新太郎ハ最初ヨリ旗下ヲ下知シ大手ノ門下ニ在リケルカ頭ノ左ヲ砲丸ニテ洞サレ重傷ナレハ忠興令シテ歸陳セシム 正則・嘉明・京極高次ノ軍モ同クニ三ノ丸へ攻入本丸追手ノ門口マテ攻敗ル 浅野左京太夫・一柳監物・井伊・本多等ハ瑞龍寺ノ砦ヲ攻落シテ直ニ本丸ニ廻リ池田ノ軍兵ハ搦手ヨリ乗込テ本丸ノ臺ニ迫リ攻シカハ城兵笠ヲ出シテ降ヲ乞フ 寄手皆砲丸ヲ止メ戦ヲ休ム 同日巳ノ刻比城主中納言秀信下乗セリ 此由急逓ヲ以テ関東ニ報告ス 追テ内府并中納言秀忠ヨリ賞美アツテ父子共速ニ出馬有ヘキトノ趣ナリ 追手搦手ノ諸将各岐阜ノ本丸ニ参會ス 忠興ハ翌廿四日瘡痍ヲ慰労シ戦没ノ尸骸懇ニ埋葬セリ 戦死ハ米田是政痍ハ松井新太郎ヲ初數多ナリ 就中是政カ戦死ヲ哀惜シケリ八月廿五日忠興岐阜ヨリ赤坂へ陳ヲ移シ田伏八右衛門トテ間諜達セル者ヲ大垣に遣ス 程ナク歸テ容易ク乗取事成リ難キ趣ヲ具ニ演延シ大垣へ入タル證佐ニ敵ノ首ヲ取リ嶋津家ノ紋附タル腰指ヲ添持歸ル 九月朔日内府江戸發程同十四日赤坂着陳ノ旨ニ付忠興諸将ト共二呂久川マテ出迎ケレハ内府岐阜ノ軍功ヲ慰セラレ感悦浅カラス同日晩景ニ及ヒ忠興諸将ト共二本陳ニ参會シテ戦ノ利害ヲ啇議ス 諸将皆云大旆既ニ至ルノ上ハ大垣ノ城ヲ攻陥スヘシト内府申サレケレハ諸将ノ識見然ルヘシ サレ共秀家ヲ初メ諸将大勢ニテ楯籠ルトノ事ナレハ速ニ其功ナカルへシ廣原ニ敵ヲ誘ヒ出シ一戦ニ掃蕩スルニ如カス 然レハ敵ヲ致サンカ為陳所ヲ移シ替ヘラルヘキカトナリ 諸将皆感服シ總軍へ轉軍ノ事ヲ播布ス時二夜既ニ亥ノ刻ナリ 大垣城中ニモ軍議多端ナリシカ終ニ石田カ意見ニヨツテ関ヶ原二軍ヲ出スニ極リ栗原山ニ大篝ヲ焚セ其火光ヲ目當丑ノ刻ハカリニ總軍大垣ヲ押出ス 我軍ノ斥候是ヲ見テ追々中軍ニ報告シケレハ内府喜悦アリテ我彼ヲ誘ニ及スシテ彼巳ニ我機関ニ容ル 我軍改メ移ルニ及ハス總軍夜中ヨリ関ケ原へ發向シ明暁悉ク敵ヲ蹴散スヘシトテ先鋒ハ福島正則・加藤嘉明・黒田長政・藤堂高虎・田
中吉政・織田長益・京極高知・蜂須賀至鎮・寺澤廣高・生駒一生・津田信成・松平康長・井伊直政・本多忠勝等二テ忠興モ先鋒ノ一人ナリ 其外内外ノ諸将未明ヨリ人数ヲ出シ南宮山大垣等ノ押兵儆備厳重ナリ 旗下トモニ總軍七萬五千三百餘人ト聞へケリ

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逃げる百姓、追う大名

2010-04-06 16:39:56 | 歴史

逃げる百姓、追う大名―江戸の農民獲得合戦 (中公新書)

発行:中央公論新社【中公新書】
著者:宮崎克則
価格:720円+税

豊前時代の細川藩での出来事を主題としており、大変興味深い。

【本の内容】
江戸時代初期、よりよい生活を求めて、生まれた村を離れた農民たちがいた。大名たちは大事な年貢を生み出す耕作者をより多く手元に置こうと、他領から来た者は優遇し、去っていった者は他領主と交渉して取り戻すべく躍起になった。藩主と隠居した先代とが藩内で農民を取り合うことさえあった。「村に縛りつけられた農民」という旧来のイメージを覆す彼ら「走り者」を通し、大名がどのように藩を切り盛りしたかみてみよう。

【目次】
第1章 農民を欲しがる大名たち―「走(ら)せ損、取どく」
第2章 いかにして耕作させるか―「少の御百姓」
第3章 戦乱の終了から大開墾へ―「国に人を多く」
第4章 家臣の苦労、隠居の言い分―「去留自由」の原則
第5章 大名の台所事情―「天下の大病」
結びにかえて―走り者とは何だったのか
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細川家--蜂須賀家

2010-04-06 09:02:13 | 歴史
 先のブログで益田蔵人のことを書いたら、ぴえーるさんがご自分のブログに解説と系図をUPされた。(感謝) 蔵人の行方が判らずにいたが、息・正質が蜂須賀氏に仕えていた。非常に近い縁戚である事が判る。その蜂須賀家と細川家は至陳と忠利が共に小笠原秀政女を正室として相聟の関係にある。

               益田蔵人---正質
                 ∥
益田持正---+--正忠 ---●
        |
        +―●
           ∥
        蜂須賀正勝---家政---至陳・・・・→ ja.wikipedia.org/wiki/蜂須賀氏
                        ∥
        小笠原秀政 -------+--●徳川家康・養女氏姫(敬台院)
                     |              男子直系の大名家四家・・省略
                     +--●徳川秀忠・養女千代姫(保壽院)
                        ∥
               細川忠興---忠利

 蜂須賀正勝は小六の名で知られるが、面白おかしく「夜盗」扱いにされ、明治期の当主が歴史学者に依頼していわれなき言いがかりである事を調べ上げた。「大名の過去は野に伏し山に伏し」という名川柳がある。戦国時代名をはせた人たちは多かれ少なかれ、野に伏し山に伏した。
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