稲津氏は日向伊東氏の家臣であったらしい。シハス崎城主であったとされるが、この城の所在がはっきりしない。伊東氏ヲ退転、慶長十年加藤清正の家臣となった。加藤家侍帳には、加藤与左衛門与力・千二十七石五斗六升五合との記載がある。加藤家没落後細川家肥後入国後に召し出された。一族で著名なのは分家の弥右衛門であろう。
一
+---○
因幡守・重房 | ニ
稲津大膳---九郎兵衛---+--次郎兵衛---+--角之允---角之允・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→ 多仲家
| |
| +--次右衛門
| 三 ↓
+--弥右衛門-------次右衛門---+--弥右衛門 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→ 大九郎家
弥右衛門 |
+--●
‖------------+--市太郎(槐堂)
藪久左衛門(慎庵) |
+--茂次郎(孤山)
宝暦五年八月の大雨は高さ二百間・巾百五十間に渡り山が崩落、球磨川をせき止め堤防決壊など膨大な被害を与えたが。その修復に当たったのが弥右衛門である。高さ三十尺、基礎巾ニ十五間、堤上の巾七間、長さ二十餘町という当時日本一とされる堤防が構築された。
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あのや稲津様は佛か神か 死ぬるいのちをたすけたも と俗謡にうたわれた。完成の小宴で重賢公が自らこの俗謡を口ずさまれたとつたえられる。
また、妹は藪久左衛門(慎庵)に嫁し、その男子が市太郎(槐堂)と茂次郎(孤山)兄弟であり、共に宝暦の改革に尽力した。
ぴえーるさんから、シハス崎城とは「紫波洲崎城」である事をお教えいただきました。(感謝)
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関ヶ原戦(ウイキペディアより)
【関ヶ原戦】
(慶長五年九月)十五日未明ニ諸隊聊動揺ノ光景アリ忠興訝カシク思ヒ軍隊ヲ糾合シテ後諸軍ヲ巡視シ正則ノ陳ニ至ル 正則忠興ヲ見テ手招シケル故如斯ノ時密語スル寸ハ一軍猜疑ヲ生スルモノナリ声高ニテ述ラルへシト云ケル 寸正則云吉川ヨリ黒田へ告越ケルハ昨日東軍ニ属セント約束シケレ共今夜治部少俄ニ大垣ヨリ関ヶ原へ兵ヲ出シ東軍へ迫ルノ聞へアリ 昨日密約ノ事ナレハ東軍ニ嚮テ撃戦スル事ハ決テアルヘカラス サレト内應ハ成難シト云贈リタル由ナリ 忠興云夫ニテサツト済タリ進テスル合戦ヲ受テスルハ易シ急キ陳前ニ人数ヲ立ラレヨト云捨テヤカテ人數ヲ率テ垂井宿ノ方へ押行ク 先驅ノ諸将各関ヶ原表へ人數ヲ進ム 此時朝霧深クシテ物色辨シ難シ 忠興嘉明ト相議ルニハ南宮山栗原山ニ備タル安藝宰相吉川廣家ハ内府ニ欵ヲ納ルト雖共其心中量リ難ク殊ニ軽忽ニ人數ヲ進メ敵前後ヨリ襲ヒ懸ラハ一軍ノ敗ハ全軍ノ潰トナランモ測リ難ク内府ノ中軍間断ナク前軍ニ引續カルゝ様請フへシトテ其旨ヲ澤村才八ト嘉明家士田邊彦兵衛ニ含メケル両人既ニ兵刃接スルノ時ニ臨ミ後陳ニ立歸ラン事本意ナキ次第ナリト辭シケレハ忠興両人ニ向ヒ内府出馬ナキ内討死センモ詮方ナキ事ナリ然レハ此時ノ使ハ戦功ヨリモ忠節ナラント云ケル故両人承服後陳ニ馳行ケル處垂井ノ邊ニテ井伊直政ニ行逢主命ヲ述ケレハ直政ノ答ニ其趣我等ヨリ急キ中軍ニ請ヘキナリ先ツ我ト本多中務ト前軍ノ後ヲ継クヘシト云ケル内中軍ノ隊列漸々進ミ来リ内府ノ旗幟見ヘケル故澤村・田邊直ニ馳歸リ其段反命ス 是ヨリ先黒田長政・後藤又兵衛ヲ斥候ニ出シケルカ忠興・正則・嘉明等居ケル所ニ立歸リ敵ハ敗軍ト見ヘケルト云忠興否敗軍ニテハ有へカラスト云 長政彼ハ後藤又兵衛トテ武事熟練ノ者ナレハ容易ニ見損スヘキ男ニ非スト云 忠興何故敗軍トハ見ヘケルヤ又兵衛答フ騎馬隊ノ間ニ雑人等混入規律ナキ故敗軍ト見タリト 忠興ナル程見ル處面白シ福島氏人數ヲ進メ襲テ見給ヘト云 正則尤トテ三備ノ内一備ヲシテ進撃セシム 忠興何ト見テモ敗軍トハ見へス引揚ラルへシト云正則麾テ退カシム 忠興大ニ其號令ノ速ニ整ヘルヲ感ス サテ忠興ハ我人數ヲ纏メ伊吹山ニ續タル山際ニ進メ又先へ乗脱ケ合戦初ルマテハ嘉明・長政・金森ノ三将ト一所ニテ両軍ノ機ヲ察シ扣ヘタリ 斯テ漸々霧モ霽レ敵ヲ見渡シケレハ関ヶ原表ニハ宇喜田中納言秀家石原嶺ヲ背テ巽ニ向ヒ山ノ尾崎ニ陳セリ 其左ノ方ニ小西行長・島津義弘ヲ初メ西軍ノ諸将次第ニ陳列セリ 石田三成ハ小関山ニ陳ヲスヘ先手ハ北國街道小関野ニ出張シ小池村ノ前ニ二重柵ヲ立テ先手六千餘人柵ノ前ニ陳列ス 秀家ノ右ノ方ニハ河尻肥前守・有馬修理・戸田武蔵守・平塚因幡守等其他數隊一面ニ陳ヲ布ケリ 其右ニハ大谷刑部少輔父子・木下山城守・朽木河内守・小川土佐守・脇坂中務少輔・赤座久兵衛等各松尾山ノ麓へ周廻シテ備ヲ設ケ松尾山ハ中納言秀秋南宮山・栗原山ハ毛利秀元・吉川廣家・完戸備前守・安國寺恵瓊・長束正家・長曽我部盛親・鍋島勝重等ノ陳 南ハ南宮山ヨリ北ハ伊吹山ノ麓待て家々ノ旌旗馬幖等霧ノ晴間ニ見へ渡リ總勢十二萬八千六百餘人トナリ 東軍ノ先鋒福島正則ハ関ヶ原二至り大関村ニ人數ヲ立乾ニ向テ陳ヲ設ケ忠興・嘉明等ハ街道ノ北ニ出八幡宮ノ森ノ邊ヨリ合川ノ方ニ押出シ黒田・竹中は合川ヲ渡テ丸山ト云處ニ取登ル 此所號信の狼烟場ナリ 是等は何レモ小関ノ敵ヲ討取ントナリ 正則ノ左ノ方ハ藤堂・蜂須賀・京極・有馬・山内・生駒・寺澤・織田ノ數氏其餘松尾山ノ麓マテ軍ヲ進ム 関ヶ原茨谷ハ徳川忠吉・井伊直政備ヲ設ケ十九女カ池ノ邊ハ本多忠勝陳列シ其他小藩ノ諸将モ引續人數ヲ碁布セリ 少シノ接戦は數多有ケレ共機會ヲ察して■ニ進マス 敵方ハ内府南宮山ヲ後ニ成シ軍ヲ進ムル時前後ヨリ馳萃リ討取ヘキ為ニ備ヲ固メテ戦ヲ挑マス 斯テ両軍際ヲ進テ諸手漸ニ接戦ス中二モ田中吉政人數ヲ指揮シ螺ヲ鳴シ一番ニ軍ヲ進ム 加賀山少左衛門コレヲ見テ我人數ヲモ進メサセ然ルヘキ哉ト問忠興少シ扣へヨ時宜ヲ見テ下知ヲ加ント云フ 此時本多忠勝諸軍ヲ望見テ細川ノ軍鋭気ヲ蓄メテ妄ニ進マス競兵ヲ拒キ固キヲ破ランコト必ス此軍ニアルヘシト云ケルトナン 吉政ノ勢ハ七八町モ棹ノ如ク立並テ進ケルヲ忠興見テ長懸リスル程ニ駈崩サルヘキト云シカ果シテ石田カ先軍ニ突崩サル時ニ吉政馬乗廻シ今度ハ真丸ニ成テ蒐リシカ敵又大勢ニテ突蒐リ二三町程モ追立ル 此以前ヨリ當手人數は玄蕃興元ヲ初メトシテ山ヨリ下リ二三町敵方へ進ミケル時入江平内ヨリ使トシテ人數速ニ馳入ルヘシト下知シ忠興真先ニ敵中へ乗込ケレハ加賀山少右衛門忠興ニ暇乞シテ猶先へ進ンテ敵ヲ追立テ首ヲ取ル 其外騎馬歩立ノ差別ナク我劣ラシト真驀ニ成テ勝誇リタル敵中へ横ヨリ突蒐リ難ナク敵ヲ追靡カス 井伊直政ハ下野守忠吉ト共ニ嶋津ノ陳ニ突入本多忠勝等モ島津・小西ノ陳ニ向灯福島ノ先鋒ハ秀家ノ先鋒ト接戦し或ハ進ミ或ハ退ク 藤堂高虎等ハ大谷・戸田・平塚ナト勝負ヲ争ヒ加藤・黒田・田中ノ三氏忠興等其外先手ノ諸将一同ニ麾ヲ振リ自身手ヲ砕キ奮戦アル故士卒悉ク死ヲ顧ミス奮闘セリ 忠興槍ニテ突伏タル敵ヲ嫡子忠隆進テ首ヲ取ントシケルヲ忠興制シケレハ直ニ其場ヲ駈通リ槍ヲ揮ヒ激戦ス 有吉與太郎・米田與七郎等ヲ始トシテ各粉骨シテ高名シ又者中間マテモ手ニ合ハサルハナク總而東軍ノ諸将勇ヲ震ヒ戦ヒ敵方モ今日ヲ限リト格闘シ勝負未タ決セサル處ニ松尾山ノ麓にて筑前中納言秀秋兼テ謀リシ如ク内應西軍ニ向テ合戦アリ 彼表ノ関東勢殊ニ競ヒヲ益シ其外諸将一同ニ喊声ヲ發シ猶縦横奮撃セル故敵次第ニ粉乱戸田・平塚・太谷等ノ勇将追々ニ戦死東軍ノ諸将鋭気充満終ニ敵将宇喜田・石田・小西等四方ニ潰散シ總軍敗績ニ及フ
此時島津ノ軍ハ旗本ノ勢ヲ以テ差向ヒタル敵ヲ打拂ヒ諸勢ノ後殿シテ烈ク防キ遂ニ土岐多羅ノ山ニ懸リテ退ケリ 忠興ハ尾撃シテ五六町程進ミケルカ黒田長政跡ヨリ忠興ヲ呼カケ先時衆軍ヲ率ヒ大勢ノ中へ乗込ミ自身ノ血戦人數ノ指揮勇々シキ有様見届タル次第内府へ告ヘキナリ我等ノ働キモ足下見分アラハ報告玉ハルヘシト云フ 忠興答テ我等ノ戦功瑣細ノ事ナリ足下ノ働我等見受サリシト云ヘルニ澤村才八是ヨリ四五町程後ニ小キ森アリ彼我両軍三四千程對陳セル處ニ一番二番ヲ乗込敵ヲ追崩シタル武者振り見事ナリシカ唯今立物ヲ見ル二甲州公ニテアリシヨト云ケレハ長政一段能見ラレタリ其如ク少モ相違無ト云フ 忠興然ラハ我等ノ家士見及ケルト言上スヘシ 時ニ金森出雲守・外川肥後守・岡田将監等追々ニ集會皆々血戦ニ及シ躰ナリ 忠興ハ猶モ敵ヲ慕ヒ玉藤川ノ邊マテ進ミケル處向ノ山ニ引揚タル敵ノ勢一隊見へケレハ若立直ス事モヤト人數ヲ敵ニ對シ北向ニ備ヲ立堅メケルニ敵ハ戦ニ及ハスシテ退散セリ 今日ノ戦己ノ刻ニ始マリ未ノ刻ニ勝敗決セリ 忠興手ニ獲首百三十餘討捨ハ數知レス生捕十七人總而東軍戦死三千七百餘人西軍ノ死亡ハ二萬八千餘人トナリ