津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

ポルトガル船長崎来航

2010-04-16 22:21:55 | 歴史
長崎学デジタルアーカイブズに「 武藤文庫-新発見資料目録 」というサイトがある。
    www.lb.nagasaki-u.ac.jp/search/ecolle/muto/shinhakken/index.html

ここに熊本藩に係わる事柄が記されている資料が有る。

 【No.44】
「正保四年五月漢朝ホルトカル国ヨリ船来朝」 横帳 18丁 12.9×19.0 本文先頭長崎高商印有。
  正保4年ポルトガル船来航時の記録。

直接は少し読みづらいが、プリントアウトして読みたい素晴らしい史料である。
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江戸と国許

2010-04-16 18:05:55 | 歴史
 慶安十二月廿六日光尚が亡くなると、續助左衛門・柘植勘平の二人は幕府に示された光尚の遺言の写しを持参し國元へ急ぎ旅立った。江戸表からの指図は「城内ノ掃除等念ヲ入穏便ニ致シ江戸ヨリノ左右次第異儀無ク城池相渡スヘキ旨申遣ス」と家譜は記している。

 又、文政八年十二月中旬に発病した齊樹は、翌正月二日には危篤に陥ったが、幕府からは一橋家に対し養子を出すようにと話が有り、細川家に伝えられた。急飛脚が熊本に在る先主・齊茲の許へ走る。幕府の意向は齊樹公夫人蓮性院が一橋治済女(紀姫)であること以ってのことであろう。

 共に「御家の存続」にかかわる一大事であるが、江戸においては主君の遺言、又は幕府の意向をそのまま国許へ申し伝えている。

 前者に関しては嫡男・六丸が幼少であり、藩の分割を含め色々な取りざたが成されたが、長岡寄之や「袖引き梅原」の奔走で、無事に六丸への相続が認められた。

 後者は宇土支藩主・立政を急養子とすることを決し、杉浦仁一郎が「八昼八夜」で江戸へ駆け上り、国許の意向を一橋家に示し断りを申し入れ、細川家の血脈が途絶える事が阻止され、宗家十二代齊護が誕生した。

 共に藩主自身の死に伴うことで、藩の意思決定は国許で行われる。江戸における事の推移がそのまま国許へ伝達されるのであろうが、両者にいささかの温度差を感じるのは私だけだろうか。

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細川家譜--細川光尚譜 ・・ (全)

2010-04-16 07:40:44 | 細川家譜

 細川家譜巻之六 細川光尚譜
                           光尚所用胴具足

細川肥後守源光尚ハ故越中守忠利ノ嫡男ナリ 幼名ハ六丸寛永十二年乙亥七月廿三日従四位下侍従ニ叙任セラレ肥後守光利ト穪ス又光尚ト改ム 十四年乙丑十月肥前嶋原ニ切支丹ノ賊徒起テ衆民ヲ煽動ス時ニ光利江戸ニ在テ變ヲ聞キ急ニ暇ヲ請テ下國シ直ニ天草嶋へ押渡リ餘黨ヲ探索シ遂ニ原城ニ赴キ追手攻口先鋒ノ命ヲ蒙リ父忠利出馬スルニ及テ共ニ力ヲ戮セテ戦功アリ 事ハ忠利譜ニ詳ナリ
(寛永)十八年辛巳五月五日父忠利遺領相續ス
十一月朔日光尚登城老臣長岡頼母佐・長岡監物・三淵右馬助モ一同将軍ニ謁見して何レモ退クトキ又側近ク召返サレ越中守事入國後年齢モ相應ナリツルニ不圖死去セル事不便ノ至リナリ肥後守ハ年若ケレ共三齋以来ノ忠勤旁跡職相違ナク申付タリ殊ニ肥後守ハ筋目モ之レ有ル事ナレハ心易ク思フナリ 汝等治國ノ政務懈ルヘカラストノ台命アリ 頼母佐等命ノ辱ヲ拝シテ退ク

天草領主山崎甲斐守讃州丸亀ニ封ヲ移ス 其跡代官領トナリ光尚在番ヲ勤ヘキ旨奉書到来ス 以後備頭一人・番頭一人・小姓頭一人・鉄炮頭二人・弓頭一人及ヒ騎士ニ十人・弓二十張・鉄炮三十挺・醫師モ差添へ年々更番シテ寛文四年マテ二十四年在番ヲ勤ム

十九年壬午四月晦日光尚ニ歸國ノ暇賜ハリシ時特ニ台命有リ光尚若年ナレハ今年モ滞府シテ勤仕スヘキ志アルヘシ然レ共去年田方虫入領内殊ニ甚ク百姓困窮セリト聞ク因テ政事ノタメ暇ヲ遣ス故早ク歸國シテ政務ヲ施スヘシトナリ

七月六日天草嶋原耶蘇賊徒兵乱後百姓少ク田地多ク荒蕪ス 依テ領内ヨリ百姓遣ハスへキ旨奉書到来ス乃天草へ男女百七十人馬二疋・嶋原へ男女百八十人牛馬九疋各農具共ニ差越ス

正保元年甲申二月廿七日江戸三田村領白銀臺ニテ屋敷一万六千七百廿五坪ヲ給ル 此比屋敷ノ近所ハ野原ニテ人家無シ 光尚嘗テ云異ナル所二屋敷ヲ取タリト笑フ人モ有ルヘシ去ナカラ謀逆人ナト有テ品川口ヲ押ス事アランニ我等此所二アラハ阿容々々通スマシト思フ故ニ取タリト

二年乙酉九月八日細川刑部興孝へ知行ニ萬五千石ヲ與フ 此儀ハ三齋隠居後立孝・興孝共ニ幕府へ勤仕サセ度トノ志願ニテ知行内分ノ事ヲ申入ケルニ立孝病気ニ付其事ヲ果サス知行ノ儀ハ三齋領知ニ加ハリ居タリ 興孝ハ寛永十七年菊池郡高野瀬村ニ幽居シケルヲ此節知行ヲ與ヘ熊本へ引出古京町ニ住居ス

三年丙戌四月長岡佐渡興長ヲ八代城ニ差置度旨幕府へ請ケル處今度歸國前登城ノ時将軍家ヨリ直ニ許可ノ台命アリケル故此由ヲ興長へ申達シ八月十三日八代城へ遷ル 以来代々城代相勤ム

六月十一日細川宮松 帯刀丹後守行孝・従五位下朝散大夫 へ宇土益城両郡ノ内ニテ知行三萬石ヲ内分シ邸宅ヲ宇土ニ設ケシム 此事先達テ幕府へ請ケル處内分ノ事ナレハ心次第ノ旨ニテ事済ケレハ八月四日宮松将軍ニ謁見ス 宮松父ハ忠興四男細川中務大輔立孝ナリ 前年閏五月十一日江戸ニ於テ卒ス 於是宮松ヲシテ其跡ヲ継シメ代々宇土藩ニ居リ別家ヲ建ツ
【ポルトガル船の長崎来航】
四年丁亥六月廿四日肥前長崎沖へ黒舩二艘見ヘテ常躰ニ之レ無キ大舩ノ由熊本二告来ル 因テ鉄炮頭・弓頭一人充隊下ヲ率テ長崎ニ出張ス 廿六日夜其舩長崎入津ス 奉行所ヨリ使者ヲ以テ渡来ノ故ヲ尋ルニ右舩は カリアン・アマルタ ト云ホルトカル國ノ舩ノ由使者両人ニ總人數四百五十人ナリ 右使者口上ノ趣ハ日本ニ於テ南蛮人ノ渡海ヲ禁シ先年天川ヨリノ訴状モ焼捨ラレタル由兼テ承及ヒス 然レ共コハ國代替リニテ今ノ國王ヨリ新タニ申付此後年々日本ニ渡海シ商賣セン事ヲ請フタメニ差越タリ 其次第ハ則チ我國主ヨリ書翰ニアリ直ニ奉行所ニ差上ヘシト云 是ヨリ重テ使者ヲ差越シ我日本ノ法ナレハ石火矢玉薬ハ相渡スヘシト申越シケレ共我等ハ使ニ参リ別ニ何ノ子細モ無シ向後都会免許有無ノ返答ヲ承ルマテニテ石火矢等相渡ス事ナラサル由ヲ申ス 廿七日嶋原領主高力攝津守長崎支配目附日根野織部正・長崎奉行馬場三郎左衛門ヨリ熊本人數差越スヘキ旨申来ル 長岡勘解由即夜熊本ヲ發シ七月朔日長崎へ着直ニ奉行所へ出ケル處三氏議定アリテ若異舩ヲ進撃スルニ一決セハ一番筑前・二番肥前・三番肥後勢ト定ム サテ又異舩不意ニ走リ出サル様ニトノ事ニテ寺澤兵庫頭家老並河太左衛門ヲ以テ同七日諸手ヨリ瀬戸高鉾ニ大綱を張ル 九日奉行所二勘解由ヲ呼ヒ程ニヨリ黒舩ヲ焼討ニスヘシ密ニ焼草ノ用意スヘキ旨日根野氏演達 此頃長岡監物・小笠原備前・清田石見人數ヲ卒テ来着 十一日監物奉行所二出ル 馬場氏等三人ヨリ監物存意ヲ尋ラル 監物辞退ストイヘ共再三ノ尋ユヘ舩橋ヲ築キ舩栖樓ヲ揚ヘキ策ヲ述フ 三人甚感服有テ之ニ決定ス 十ニ日黒田氏ヨリ黒舩ニ使ヲ遣シ江戸ヨリ左右次第筑前守光陳ニテ乗取ルヘシ 其節ハ案内申入ヘキ間出合セ合戦スヘシ 其マテハ安堵シテ静ニ待ヘシト申遣タリ 甲比丹返辞ニ口上ノ趣領掌ス何ノ國モ武士ノ心得同前ト感シ入ス江戸ヨリ左右次第申聞サルヘシ出合セテ合戦スヘシト返答セリ 十六日船橋出来當手ハ高崎ノ方ニテ長サ三町 舩數三十二艘 四ケ所ニ栖樓舩両端ハ矢蔵ノ如ク構ヘ石火矢等ヲ備フ 諸手ノ持場モ皆如斯ニシテ舩橋ハ人馬モ平地ノ如ク往来シ栖樓ヨリハ黒舩ヲ目下ニ見下ス仕懸ナリ 十九日監物奉行所へ出ケレハ高力氏ヨリ一昨十七日黒舩ノ者共舩橋ニ迷惑セシト相見へ甲比丹モ上リ玉薬モ揚クヘシト申出心地ヨキ事ナリ何ソ方便ハ無キヤ異國ニ對シテノ儀天下ノ為ナル故申述ヘシト有リ 監物曰ク先日台使ヲ初メ焼討ノ内談ニテ焼草用意スヘキ旨申渡アリたる由彌其決議ナルヤ 日根野氏ノ曰クイカニモ其内談アリ此事ニ付テモ謀有ヤ 監物曰外ニ謀ハコレナシ去ナカラ異國舩ニ艘日本へ着ノ處乗取成難キトテ玉薬ヲ揚サセ焼打ニ仕タルト有テハ先日黒田氏へ黒舩ヨリ
返辞シタル趣モ有リ唯今唐舩モ數多来リ居ルニ歸帆ノ上彼邦ニテ嘲リ申ヘシ末代マテ日本ノ瑕瑾如何ト存シ奉ル由申ケレハ三人尤ト同シ焼打ノ評議止ミ又廿九日江戸ヨリ井上筑後守・山崎権八郎長崎へ着シ使者ヲ以テ南蛮舩ニ申遣シケルハ日本ノ禁令ヲ知ナカラ渡来スルハ憎キ事ナレ共代替リノ使者故助命シテ返ス 重テ渡来セハ殺スヘシトノ旨ナリ 八月六日異舩事故無ク歸帆シ諸家人數追々ニ歸國セリ 廿一日江戸城ニ於テ光尚・鍋嶋・立花両氏ト倶ニ召出サレ今度長崎ニ於テ家中骨折満悦ノ旨褒賞アリ
    参考  http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/nagasaki/motoyama.html

慶安二年己丑十一月光尚母ノ喪ニ居テ咳気ヲ患へケルカ十二月上旬ヨリ殊更勝レス愁傷ノ餘リ病苦イヨ々々差重リケルニ同十四日酒井讃岐守宅へ沼田勘解由ヲ呼寄セラレ光尚病悩ノ様子将軍ノ聞ニ達シ左程ニ有ルヘシトハ思ハサリシ 彌油断無ク養生スヘシ古モ母ノ喪ニ居テ病アレハ酒ヲ飲ミ肉ヲ食フナラヒアリ早ク精進止ムヘシナト懇ノ台意ヲ傳フ 光尚大ニ喜テ斯マテ懇篤ノ命ヲ受シ事今生ノ面目ナリトテ気色モ彌快ク有リケレハ國許ニモ申越シ何レモニ悦フヘシト言送リケルカ其後又々差重リ廿日頃ヨリ以ノ外病劇ク廿四日台使酒井讃岐守来テ懇ノ台意ヲ傳フ 光尚病ヲ快テ對面シ命ノ辱ヲ拝謝ス サテ申ケルハ不肖ノ身大國ヲ賜ハリ高恩ノ程有カタク何トソ忠ヲ竭シ報謝シ奉ラントノ志願ニテ在ツルニ今不幸ニシテ大病ニ罹リ甚遺憾ナリ 忰共幼少ナレハ跡職ナト賜ハリテ奉公成リ難ケレハ彌迷惑ナリ 故ニ今領國ヲハ奉還ス 此後若両人ノ忰共奉公ヲモ勤ムヘキヤウ成長セハ其節似合ハシキヤウ召仕ハレ玉フヘシ此段閣下聞置カレ可然周旋依頼ストノ段委細申入遺言認メ置シヲ披見ニ入ル 讃岐守落涙シテ退出直ニ台聞ニ達ス 将軍殊ノ外心元無ク思ハレ追々台使ヲ以テ慰問アレ共對顔シ難キ容躰ナリ 十二月廿六日國許へ使者續助左衛門・柘植勘平差立讃岐守へ披見ニ入シ遺言冩差下シ國元ノ儀ハ城内ノ掃除等念ヲ入穏便ニ致シ江戸ヨリノ左右次第異儀無ク城池相渡スヘキ旨申遣ス 
【光尚卒す】
同日(十二月廿六日)暮過龍口邸ニ於テ卒ス歳三十一 光尚為人威厳は父忠利ニモ勝リ當時三徳兼備ノ将ヲ以テ穪セラル 同時ノ大名小名之ヲ慕フ人尠カラス 適曽我丹波宅ニ集會ノ時光尚カ凶音来ル丹波守手ヲ柏テ天下ノ燈消タリト歎息ス 列座ノ内ヨリ天下ノ燈消ヌルトハ餘リノ過譽ニ非スヤト云人アリ丹波守聞テ事ノ様ヲ知ラサレハカク思ハルゝモ理リナリ拙者ハ肥後守膽略ノ程ヲ慥ニ知リタル事有リ去ヌル頃拙者台命ヲ奉シテ日光山ニ赴ケリ其事件一途ニ政道ヲ立ントスレハ後日ニ弊害有ルヘシ サリトテ後害ヲ思ヒ苟旦ニ計ラヒテハ政道立チ難シ如何セント執政ノ人々モ苦慮セラレシ時密ニ酒井讃岐守ニ申談シ光尚カ宅ニ至リ之ヲ謀ル 光尚再三謙遜スル共強テ請ヒケレハサラハ愚存ヲ申述ン定テ僻論タルヘシ 必ス外人ニ洩レ玉フヘカラス 若光尚カ領分ニテサルアラン時ハ先ツ云々措置シ跡云々區處スヘシト對フ其由執政ノ人々ニ語リケレハ皆々上策ナリト感心有リケル故光尚申ス儘ニ執リ行ヒタルニ政道モ立チ害モ無リシナリ 之ヲ以テ思フニ比類無キ大器量ノ人ニアラスヤト語リケルヨシ

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