分家の史料をよくよく眺めていたら、中根和泉守とある。
実は織田信長の弟に信照という人があり、これが中根和泉守の養子となり織田中根と名乗っている。この中根氏の嫡流と思われる家は徳川家に仕えたが、のち岡崎藩本多氏の家老職を代々勤めている。その中根氏について、岡崎市に於いては「中根氏文書」(上)(下)が近年発刊されている。細川家家臣中根氏に言及があるのかどうか確かめていないが、どうやら織田中根の弟筋ではないかと推測している。
上士は筋目といった事が重要視されているが、「これで納得」という次第である。
綿考輯録では光尚代を限りとしている。綱利以降は家譜に頼らざるを得ないが、この回から順次ご紹介する。
細川綱利譜
細川越中主源綱利ハ肥後守光尚ノ嫡子ナリ 幼名六丸正保二年十一月年三歳始テ将軍家光ニ拝謁ス 初メ父光尚モ三歳ニシテ将軍ニ拝謁セリ 吉例ナリトテ之ヲ許サル 家臣數輩老女乳母等附従フ
将軍躬ラ抱テ膝ニ居ヘラレ三歳ニハ大キナル子ナリ三代ノ大男ナルヘシトテ種々ノ玩物ヲ給ハリテ
退出ス
慶安二年己丑十二月廿六日光尚卒ス 是時六丸年甫テ七歳ナリ 翌朝閣老酒井讃岐守来リ諭シテ曰ク光尚ノ跡ハ遠境殊ニ大國ナルユヘ暫クハ其議決スヘキニ非ス宜ク穏便ニ心得相待ヘキ旨ニテ家老其餘歴々ノ者柄度ニ至ル事ヲ止メラル 是ヨリ先キ領國奉還ノ事光尚遺言ノ次第アレハ一藩擧テ往々ノ成行ヲ苦慮焦心ノ處翌三年庚寅四月重臣長岡式部寄之等召ニ依テ登城ス 老中列座讃岐守命ヲ傳へテ曰ク故肥後守平素奉公ノ志有テ果サス不幸短命将軍甚タ哀惜セリ 跡目ノ事早ク命セラルへキ処違例ニ依テ今日ニ及ヘリ 夫肥後ハ西海ノ遠ニ在つて大國ナリ 六丸幼稺ナレハ既ニ専ラ忠節ヲ竭シ且祖父忠利モ奉公ノ志厚ク故ラニ肥後ヲ領セシムルニ未幾シテ没巣 乃父光尚少シト雖共赤心既ニ見ハレタルヲ以テ忠利ノ跡目相違無ク申付タル處其後益報國ノ志深ク就中遺言シテ歴世ノ恩ヲ報スル事能ハサルヲ恨ミ愛ヲ其孤ニ割テ國ヲ公ニ還ス事最モ感賞スヘシ 依之六丸幼少ト雖共三世ノ忠節ニ對シ肥後國相違ナク領知申付ルナリ 宜ク此旨ヲ奉シ具ニ六丸ニ申含ムヘシ 凡ソ世ノ實子ナキ者猶他ノ子ヲ養テ跡目ヲ乞願フニ光尚ハ正シク子アリテ遺命如此将軍甚タ之ヲ嘉セリ 家臣等命ノ辱ヲ拝シテ六丸ヲ補佐シ奉公ノ志ヲ勵マスへシ 小笠原右近大夫忠眞ハ六丸カ外戚ニシテ幸ヒ隣國ニ在リ時々肥後ニ至テ政事ヲ議スヘシ 且六丸カ為メニ目附ヲ遣ハシ置クヘシト種々懇ノ台意畢リテ寄之等座ヲ起テ退カントスル時呼込シ重テ之ニ告テ曰台意ノ趣ハ六丸召出サレ命セラルヘキ處幼稚ノ故ヲ以テ其方共ニ傳フルナリ 速ニ國許ニ申越シ家来共孰モ難有存シ精勤スヘシトナリ寄之等謹テ命ヲ拝シテ退ケリ 初メ光尚ノ凶訃熊本二至ルヤ削封分知等種々ノ風聞アリ其事或ハ詭計ニ出ン事ヲ恐レ臣子ノ情手ヲ束子テ國家ノ危急ヲ俟ヘキニアラストテ評議ノ上老臣長岡佐渡興長ハ國ニ在リテ家中ヲ鎮撫シ其子式部寄之ヲ江戸ニ往カシメ又梅原九兵衛等ヲ差添フ 此九兵衛ト云者ハ使番ニテ江戸ノ事ヲ熟知シ且時ノ閣老ニモ懇意ノ人アレハ巨細ニ評議ノ趣ヲ申含メ差遣ス サテ九兵衛江戸ニ着スルヤ直ニ閣老某氏ニ對面シテ申スヤウ今度肥後守病死イタシ六丸事ニ付國元家老共内願ノ趣アリテ長岡式部ト申者出府セリ其譯ハ六丸幼少ナル故何トヤラ跡式減少セラルへキ歟ノ風評承リ果シテ然ラハ何トソ閣下ノ周旋ヲ以テ先規ノ如ク相違ナク賜ハリ度奉願ナリ 且分知ノ由モ風聞セリ 是モ實説ナラハ先祖幽齋以来殊更三齋ハ関原ノ一乱ニ付テモ度々ノ忠節ヲ抽テ将軍代々ノ殊遇ヲ蒙り相續テ故越中守モ右ノ譯旁ヲ以テ肥後國一國ヲ給ハリタル處今度若分知ノ命ヲ蒙ラハ長岡佐渡ヲ始メ家中ノ者承服イタサゝルハ必然ナリ 此儀台命既ニ降リテ後ニ愚意ヲ述ルハ恐レアリ故ニ只今内意ヲ申入ルゝナリ 萬一願ノ通相済ミ難キ趣ナラハ私ニ於テ屹ト了簡致スヘシト死ヲ決シテ膝下ニ迫リ反覆抏論シケレハ閣老サテサテカタクロシヤ肥後国一圓拝領セラレヒテ相済ムヘキヤ國士ハカタマシトテ笑ヒケルヲ九兵衛押返シ彌左様ナルヤト云ヘハ何カサテ其通仰付ラルへシトナリ 此時九兵衛座ヲ下リ謹テ一禮ヲ述へ六丸成長ノ上ハ厚情忘レ難ク感戴スヘシ 家老共ヲ始メ家中ノ者共難有仕合ニ存スヘシト申述テ退出セリ
六月廿九日台使朽木民部少輔植綱肥後仕置ノ為メ熊本二下着アリ兼松彌後左衛門正直差添ラレ目附ニハ能勢小十郎頼隆・牧田數馬長廣ナリ 小笠原右近大夫モ来着ス 同晦日台使ヲ始メ孰モ登城アリ此方ヨリハ家老ヲ初メトシテ諸物頭等出座ス 民部少輔台命ノ趣ヲ申渡ス 将軍黒印ノ條目ヲ古橋總左衛門之ヲ讀ム其略ニ曰ク家中ノ輩并國中仕置ノ儀肥後守時ノ如ク為ルヘシ一條 萬事家老ノ輩遂相談仕置申附ヘシ難相極儀コレ有ルニ於テハ小笠原右近大夫指圖ヲ得事ノ品ニ依リテハ言上スヘシニ條 隣國ニ於テ何遍ノ儀出来セシムト雖モ下知ナクシテ出合へカラス右近大夫并目付の面々指圖ヲ受ヘシ四條(ママ)家中ノ縁邊ノ儀知行三千石以上者言上スヘシ縦ヒ小身タリト雖共其仁躰ニ依リ之ヲ申上相結フヘシ四條 切支丹宗門ノ儀最前度々制禁セシム如ク彌以テ堅ク申付ヘシ五條 右ノ條々相守ヘキ者ナリ以上 右畢リテ口祝ヲ出シ饗應アリ其後両使八代城ニ至リ薩州境より天草・長崎・小倉へ巡行シテ江戸ニ歸ル
承應二年癸己八月五日大風田畑共二夥シク損毛潮入皆無ニ至ルモアリ六丸領内倒レ家凡六萬千五百四十七軒男女死亡ノ者四十一人此害怪我人數多アリ
十二月十一日従四位下ニ叙シ侍従ニ任セラル 是時ヨリ越中守綱利ト名乗ル 時ニ年十一歳
三年甲午二月郡中之掟ヲ定目郡奉行ニ申シ渡ス 條々略ニ曰年貢取立ハ総荘屋ニ申付自然依怙贔負スルモノアルニ於テハ其一類モ曲事タルヘシ一條 給知ノ免相ハ存寄ニスヘシ若承引セサル給人アラハ有體ニ言上スヘシニ條 郡邑ヲ預ケ置タル上ハ諸事存シ寄リニ埒明クヘシ若シ分別ニ参ラサル事柄誅伐スヘキ者褒賞スヘキ者ハ言上ノ上下知ヲ待ヘシ三條
四月十七日老中ヨリノ奉書至ル 去年内裡炎上作事ヲ命セラル 築地は先例ニ依テ諸大名ニ命セラレ手傳ノ儀ハ日傭任速タルヘシ 五萬石以上ノ面々ニ課ラル 綱利モ其一人ナリ
明暦三年丁酉正月十八日未ノ下刻江戸本郷六丁目ヨリ出火折節風烈シク大火ニ及ヒ翌拾九日マテモ止ス 其内傳通院近所又麴町ヨリモ出火四方ニ延蔓焼死スルモノ夥シク人々東西ニ奔走シテ命ヲ助カラント欲スルノミ 十九日晝過ニハ城内ニ火移リ本丸ノ樓櫓殿屋一時ニ燃上リ龍口居邸モ危クナリケレハ綱利 于時十五歳 白金邸ニ立退ントスル途中ニテ路地風下ニテ通行ナリ難ク所縁ノ下屋敷ニ往クヘシト勧メタル人アリケレ共斯ノ如キ非常ノ節ニ臨ミ我下屋アリナカラ他へ往テハ周章タルニ似タリトテ四五里程モ廻リテ白金ニ赴キ翌々日ニ至リ此節格別働キタル者ヘハ褒賞ヲ與へ又都下一統難儀ノ趣ヲ聞キ物好ミナトスヘキ時ニ非スト秘蔵ノ鷹及ヒ小鳥ノ類モ残ラス放チタリ
寛文元年辛丑二月三日綱利始テ歸國ノ暇ヲ許サレ五月三日熊本二入城して諸士ノ拝禮ヲ受ル
十一月豊後日田代官小川藤左衛門・小川又左衛門支配ノ百姓ト手代荘屋共争論アリテ隠ナラス 代官ノ方ニモ如何ナル仔細アルヤ持餘シタル躰ナレハ熊本ヨリモ無事ヲ計ラフカ為メ松野主膳・松野善右衛門ヲ遣ハシ百姓共ヲ鎮メ猶又鎌田杢之助・村山傳左衛門等ヲモ差越シ双方ヲ取扱ヒ幕府ノ沙汰ニ成ラサル様ニト色々心ヲ付ルト云へ共相熟セス 遂ニ手切ニナリテ主殿・善右衛門モ日田ヲ立テ歸ル 然ルニ十二月中旬日田ニ奉書到来両小川并手代頭取ノ者共江戸ニ呼ヒ登ラセ両小川ハ改易手代共并百姓ノ頭取共ハ誅伐セラレ其跡三ケ年ノ間綱利ニ預ケラレ番頭ヲ始トシテ數軰日田ニ在番シ追テ代官ニ引渡セリ