延寶四年と覺申候 芝之御屋敷に被成御座候刻紀伊大納言様御家頼衆尋被申候由にて森雲仙を以大木織部殿へ申来候 御右筆山崎角右衛門相調申如斯申遣候
慶長五年七月廿七日八條殿より家老大西甚助を以扱之儀被下候得共幽齋同心無御座其後
徳善院勅命を奉り双方に和議を入被取扱又勅命にて中院殿・三條殿・烏丸殿并前田主膳正
等を田邊江被下種々取扱有之候勅詔及再三申に付幽齋難默和議を以被成出城候
此通之紙面之様覺申候 江戸御書所には控茂可有御座候や其時分迄も慥成申傳も不承候 近年色々
古き書付抔出申候と存候 田中又助祖父は中院殿相聟(1)之様に覺申候 右之書之内に加茂大宮司の
松の下と御座候は河方安左衛門(2)と覺申候 先年田中又助に此紙面咄申候へはいかにも/\承及
申候 此方の御家譜は誰が書たるかと尋被申候へども不存候 拙者先年在江戸の砌田中一庵に被仰
付候て御家譜調申由にて拙者へ引両の事尋申候 三引両と申間二ッ引両と申ても可然哉などヽ申たる
儀覺申候 右之書付之内飯川妙佐の妹と御座候飯川殿とて譯ある人飯川何果(ママ・某カ)とか老父
咄被申儀も覺申候 委細に知れたる書様にて候 誰の作と申事も後々吟味候はヽ知れ可申存候
(1) 田中又助の祖父は長束大蔵正家、中院殿とは文脈から通勝であると考えられる。
長束正家の奥方は本多忠勝・妹、中院通勝の奥方は細川幽齋・養女だとされているが、傳右衛門殿の勘違いか?
(2) 500石河方九平家の家祖は松下民部少輔述久
「或記に松下民部小輔述久、古今箱禁裏に持参仕候由、田辺御出城の刻も御忠節申上候と云々、何れもいふかし、右松下は
加茂の神主の弟也、述久は従五位下禁裏に勤居たり、蹴鞠の御伽として幽齋君御懇に有之、内々御和睦をも御取持仕候
段は先祖附にも段々書加来候」(綿考輯録・巻五」
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衆妙集之内に玄旨公吉田の草庵に松ノ下民部少輔数寄に呼侍るに遅く来けれは即座に此一首を讀て路次迄持せけり
庭をおりて遅くたちよる松の下すきの道にはのへ足もなし
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・水戸家の御末子松平大炊頭様は従公儀一萬石五十年以前に御拝領被成候 小石川の御屋敷之内に被成御座候て妙應院様御振舞に被成御座候て御供衆皆共御座敷に上り御料理被下候 御馳走人に田中文右衛門と申仁出候而咄被申候 私儀は熊本へ久々居申候田中又助甥にて御座候 先年京都へ御座候長岡與八郎殿・同半左衛門殿御両人肥後へ御呼下し被成候時又助を被遣候 其刻も又助致同道候而京都上下仕候由噺被申候 我等共幼少之時分與八郎殿半左衛門殿より乗馬を迎に兄の是安方へ被遣候事覺申候 甲佐近邊に御両人共千石宛被下候て御在宅にて候 川狩にて是安を御呼被成候かと覺申候
妙應院様御入國上にて貮千石宛御加増被遣御一門の格に被仰付候 其時分細川将監殿・細川修理殿・長岡與八郎殿・長岡半左衛門殿此四人にて候 右の田中文左衛門娘かと承候津田平助妻・田中又助妻・谷権右衛門姪にて権右衛門より津田・田中江遣被申と覺申候