津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

旦夕覺書をお読みいただいて

2011-06-14 21:21:49 | 徒然

 いつも貴重なご教示を給わっているさいたま市のTKさまから、「旦夕覺書」をお読みいただいてコメントを頂戴した。お許しを頂き全文をご紹介する。このようにご熱心にお読みいただき、有り難いきわみである。感謝

貴blogで旦夕覺書を楽しく拝読しております。先日花--21で大坂城士「佐治頼母爲重」が登場しましたので、一寸報告申し上げます。
 
堀内傳右衞門は、親から聞いた安濃津籠城の話が余程印象的だったのでしょうか。同じく肥後文獻叢書所収の堀内傳右衞門覺書によると、吉田忠左衞門、原惣右衞門、堀部彌兵衞等が「傳右衞門殿は馬御數寄と何れも咄にて承候、馬咄可仕」と近寄ってきたのを幸い、関連して佐治の話も披露したところ「傳右衞門殿は古き事を能く御覺被成候」と褒められたそうで、ちょっと得意顔の傳右衞門が目に浮かびます。
 
ちなみに「佐治頼母(縫殿)爲重」は、近江國甲賀の士で、九歳の時に上田吉之丞の養子分になり、十一歳の時富田信高に出仕し、十四歳で知行三百石を取りました。安濃津籠城の時分は十六歳で、戰後の行賞により信高着用の具足、甲、小鞍という伊勢家作の鞍、鎧、河原毛の馬を拜領し、更に知行二百石加されましたが、翌年秋には立退きました。その後小早川秀秋に出仕し、知行八百石を取りました。小早川家絶家の後田長政に近習として出仕しましたが、五年後には遠國につき後藤又兵衞を通じて賜暇、退去しました。その後藤堂高虎に出仕の際に知行高の手違いが生じ、退去しようとした處を追々加するのでと押留められ、慶長十九年には藤堂良勝手に屬して出役して働きました。しかしその後も特に沙汰の無いまま、慶長二十年四月には舊知の後藤又兵衞の誘いを受けて大坂方となり與力二十五騎を授けられ、五月六日道明寺合戰で軍功を樹てています。その後流落して江戸柳原の町家の裏に借家して妻と二人浪居していましたが、寛永十年池田光政に知行千石で召出され、鐵炮二十挺を預かりました。明暦三年七月四日に死去し、子孫は岡山池田家中と桑名松平家中に連綿と続いています。
 
ところで、旦夕覺書の佐治のくだりは、五本關原日記と類似性があるように思えます。父の話を思い出しつつ、こうし軍記類の表記を参照にしたのかもしれませんね。
『津ノ城籠城叶ヒカタキニヨリ、冨田信州自害セントアリシ時、兒小姓差シ頼母ト云フ者申シケルハ、味方ノ兵、今ニ支テコレアリ、某シ見テ參ラント云テ出ル處ニ、敵四五キハヤ城内ニ攻入ケルヲ上田吉之丞、佐分利九之丞二人ニテサヽヘタリ、然ルトコロニ頼母來テ、鑓ニテ一人突伏ケレハ、上田、佐分利モ敵ヲ討取リケル故、是ニ支ヘラレテ敵モ左右ナク攻入ラス、カヽルトコロニ扱ヒニ成テ城ヲ渡シケリ、此時信濃守ヨリ作ノ鞍鐙ヲ佐治頼母ニ賜フ、後ニ松平新太郎光政卿ニ仕フ、縫殿ト名ヲ改ム』(五本關原日記)

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南條氏のこと--(3) 南条元信

2011-06-14 08:21:28 | 歴史

 南条元宅は嫡孫・藤八郎に跡目を継がせる意向をもって死去した。
前回も書いたように嫡子は病気であり、側室の子作十郎周辺の者が動いて元宅の意向は成就しなかった。藤八郎は家来とともに熊本を離れ、豊前の細川家を頼り三齋により召出を請けることになる。三齋の意向は「南条家は名高き家ニ付」とする。

「三千石可被下由ニテ被召抱」られ、「成長之上ニ而与五郎様御女お鍋殿を藤八郎へ被遣、五百石御知行御添被下候」とある。
「於豊前御侍帳」には頭衆として「三千石 加茂 南條左衛門元信」とある。また鍋については「五百石 なべ 廟所禅祥寺 忠興公御二男也長岡與五郎興秋女・南條大膳元信妻円乗院 大膳后改左衛門」と記す。「福岡県史・近世史料偏-細川小倉藩」所載の「日帳」によると寛永三年(1626)七月「鍋」の結婚話が記載されている。「おなへ様御祝儀ノ御使者」が「御乳人」に書状を届けた記録である。この年内に結婚したのであろう。

元信については「藤八郎名を大膳と改め、其後御国へ御供ニ而罷越唯今木下屋敷被為拝領」と「藻塩草」は記す。寛永二十年(1643)細川忠興末子勝千代(三歳)を養子とする。元信は万治三年(1660)隠居、天和二年(1682)死去した。室・鍋は元禄二年(1689)まで長生きした。

そんな中、寛文九年(1669)南條家にとっては厄年ともいえる事件が二件勃発する。
     ■南条以心事件・・・・・・以心(元信)の不可思議な事件である。
                    キリシタンと疑われたようだがこれで罪は得ていない。
                    しかしながら帰国後は竹の丸の質屋(牢)暮らしをしたという。
     ■陽明学徒追放に関し、元知の藩主綱利への諫言事件
                    綱利(甥)の怒りをかい、永蟄居となる。
回を改めてご紹介する。

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「旦夕覺書」 花--23

2011-06-14 08:14:20 | 旦夕覺書

紀伊古大納言頼宣公御制法
     父母孝行守法度へりくたり不驕人々勤家職正直を本とする事誰も存たる事なれとも■下へ可申
     聞者也
     右之通被仰出候由にて熊本にて寫置候六十二三年に成可申候 殉死御制禁之事も紀伊大納言
     頼宣公被仰上たるよし諸大名家中之證人も此時節御赦免かと覺申候 拙者覺候ても御家中よ
     り御一門にては細川刑部殿御家老衆并御城代田中左兵衛此分と覺申候 其後御法度故追腹之
     沙汰不承候 右之紀州大納言様は其刻聖賢之様に沙汰仕候

 仁 忘自恵他救危扶窮都テ於物先■觸事ニ有憐心名テ謂之仁
     他を恵み我を忘れて物ことに慈悲ある人を仁と知るへし
 義 富て不驕積テ能施■天■地凡交衆不静守謙相譲名テ謂之義
     へつらわす奢る事なく諍す慾を離れて義理をあんせよ
 禮 臣尊君子孝親兄敬老愛幼居上不悔為下不猥名テ謂之禮
     君をあふき臣を思ひて假初も高きいやしさ禮義みたすれ
 智 廣學詩文■■萬藝温故知新凡三度思■是非分■名テ謂之智 
     何事も其品々を知る人にひろく尋て他をそしるなよ
 信 心直詞正非■不行非道不興惣テ不筋内外勤行有眞名テ謂之信
     心をは直なるへしと祈るへしあしきを捨てよきに友なへ

心に物ある時は心狭躰窮屈なり物なき時は心廣體ゆたか也

心に我慢ある時は愛敬を失ふ我慢なき時は愛敬そなはる

心に欲ある時は義を思はす欲なき時は義を思ふ

心に飾ある時は偽をかまふ飾なき時は偽なし

心に奢有時は人をあなとる奢なき時は人を敬う

心に私有時は人を疑ふ私なき時は疑ふ事なし

心に誤り有時は恐る誤りなき時は恐る事なし

心に邪見有時は人をそこのふ直なる時は人をそこなはず

心に怒有時は言葉はけし怒なきき時は言葉柔なり

心に貧有時はへつろふ貧なき時はへつろふ事なし

心に堪忍なき時は事をそこのふ堪忍ある時は事とヽのふ

心に優なき時は悔事をなし優有時は悔事なし

心に自慢ある時は人の善をしらす自慢なき時は人の善を知る

心にいやしき時は願發る賤からされは願ふ事なし

心に迷ひ有時は人をとかむ迷ひなけれは咎る事なし

心に誠有事は分を安んす誠なき時は分しらす

      草々のほと/\における露の玉
         おもきはおつる人のよの中
                          八十歳
     享保九甲辰十一月十七日 堀内旦夕入道判
                堀内傳右衛門殿
                同   小傳次殿 

                 (花の巻・・了)

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