いつも貴重なご教示を給わっているさいたま市のTKさまから、「旦夕覺書」をお読みいただいてコメントを頂戴した。お許しを頂き全文をご紹介する。このようにご熱心にお読みいただき、有り難いきわみである。感謝
貴blogで旦夕覺書を楽しく拝読しております。先日花--21で大坂城士「佐治頼母爲重」が登場しましたので、一寸報告申し上げます。
堀内傳右衞門は、親から聞いた安濃津籠城の話が余程印象的だったのでしょうか。同じく肥後文獻叢書所収の堀内傳右衞門覺書によると、吉田忠左衞門、原惣右衞門、堀部彌兵衞等が「傳右衞門殿は馬御數寄と何れも咄にて承候、馬咄可仕」と近寄ってきたのを幸い、関連して佐治の話も披露したところ「傳右衞門殿は古き事を能く御覺被成候」と褒められたそうで、ちょっと得意顔の傳右衞門が目に浮かびます。
ちなみに「佐治頼母(縫殿)爲重」は、近江國甲賀の士で、九歳の時に上田吉之丞の養子分になり、十一歳の時富田信高に出仕し、十四歳で知行三百石を取りました。安濃津籠城の時分は十六歳で、戰後の行賞により信高着用の具足、甲、小鞍という伊勢家作の鞍、鎧、河原毛の馬を拜領し、更に知行二百石加されましたが、翌年秋には立退きました。その後小早川秀秋に出仕し、知行八百石を取りました。小早川家絶家の後田長政に近習として出仕しましたが、五年後には遠國につき後藤又兵衞を通じて賜暇、退去しました。その後藤堂高虎に出仕の際に知行高の手違いが生じ、退去しようとした處を追々加するのでと押留められ、慶長十九年には藤堂良勝手に屬して出役して働きました。しかしその後も特に沙汰の無いまま、慶長二十年四月には舊知の後藤又兵衞の誘いを受けて大坂方となり與力二十五騎を授けられ、五月六日道明寺合戰で軍功を樹てています。その後流落して江戸柳原の町家の裏に借家して妻と二人浪居していましたが、寛永十年池田光政に知行千石で召出され、鐵炮二十挺を預かりました。明暦三年七月四日に死去し、子孫は岡山池田家中と桑名松平家中に連綿と続いています。
ところで、旦夕覺書の佐治のくだりは、五本關原日記と類似性があるように思えます。父の話を思い出しつつ、こうし軍記類の表記を参照にしたのかもしれませんね。
『津ノ城籠城叶ヒカタキニヨリ、冨田信州自害セントアリシ時、兒小姓差シ頼母ト云フ者申シケルハ、味方ノ兵、今ニ支テコレアリ、某シ見テ參ラント云テ出ル處ニ、敵四五キハヤ城内ニ攻入ケルヲ上田吉之丞、佐分利九之丞二人ニテサヽヘタリ、然ルトコロニ頼母來テ、鑓ニテ一人突伏ケレハ、上田、佐分利モ敵ヲ討取リケル故、是ニ支ヘラレテ敵モ左右ナク攻入ラス、カヽルトコロニ扱ヒニ成テ城ヲ渡シケリ、此時信濃守ヨリ作ノ鞍鐙ヲ佐治頼母ニ賜フ、後ニ松平新太郎光政卿ニ仕フ、縫殿ト名ヲ改ム』(五本關原日記)