江戸の大名屋敷を歩く<ヴィジュアル版>(祥伝社新書240) | |
祥伝社 |
出版社からのコメント
著者:黒田諒氏のブログも楽しいですよ・・・・
http://ameblo.jp/edojyo/archive1-201106.html
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南条元信(大膳-以心)の養嗣子・元知は細川忠利の四男である。井上正氏の論考「南条元宅とその一族」にある「南条系圖」にある「細川忠利二男」は明らかな間違いである。寛永十八年(1641)二月廿七日の生まれ、寛永二十年(1643)には大膳の養嗣子となった。(三歳)大膳とその室・鍋(細川興秋・女)の間には女子(伊千)があるが、男子がなかったためであろう。伊千は米田是長に嫁ぎ寛永二十年娘・吟を生み、正保二年(1646)死去した。承応三年(1654)元知(14歳)は養母の孫娘である吟(11歳)と結婚、明暦三年(1657-17歳)に元服する。万治二年(1659-19歳)500石拝領、万治三年養父・元信の隠居に伴い跡式相続、寛文五年(1665-25歳)で家老になった。
そして寛文九年十月(1669-29歳)で思いがけない事件に遭遇することとなる。
いわゆる「陽明学徒追放事件」であるが、高野和人氏の著「肥後の書家・陽明学者 北嶋雪山の生涯」に詳しい。幕府は朱子学をして官学と定めてきた。寛文七年熊本には幕府巡見使が入り、肥後の陽明学は比較的高禄の士の信奉するところが報告されたらしい。そして寛文九年藩主綱利の帰国早々陽明学が禁じられることと成った。そして御小姓頭を勤める二千八百余石を拝領する朝山次郎左衛門や、北嶋雪山など十九名にお隙が言い渡されたのである。史料はその理由について何ら述べていない。
幕府の圧力に対し藩内でも是非の論議があり、藩主綱利にとっては叔父に当る長岡左近(南条元知)が諫言したとされる。十月六日の「御奉行所日帳」には「長岡左近殿御儀今日御前にて病気に御成候事」とある。八日には「左近殿乱心に付御知行上り」となる。侍帳の「寛文元年以来病気乱心ニ而知行被差上又者依願御暇被遣候面々名付之覚」には、寛文九年十月十一日 「煩ニ而知行被差上候 五千石 長岡左近殿」とある。十月廿六日隠居料二千俵を賜り竹部村に蟄居した。十一月五日剃髪して道固と称する。元禄十年(1697)に至り、藩主綱利から頭巾・小袖などが届けられた。この時期28年に及ぶ蟄居が解かれたとされる。
なんともお粗末な綱利の仕様である。道固はあたらの人生を棒にふった。元禄十六年(1703)死去す。元信-吟夫妻の嫡子是庸は延宝五年(1677)命により米田是長の養子(外祖父養子)となり、家老米田家を継ぐことになる。これにより南条家は絶家することとなった。
南条家及び細川興秋家の血は米田家により継承されていく。
次回は興秋女・鍋--伊千--吟の三代に亘る女性にふれたい。