一、同姓二観郡奉行勤候時分在宅より致出府候時道筋左右見候へは畑の崩れ不申候様に芝をつか
せ申候故道もせまくは成候へとも畑のくすれ申さぬ様とも見掛に不構申付候 其時節は中々後年
の儀を打捨當分の能様に諸人心得候分故扨も/\能仕候 妙解院様御代ならは御意に叶可申儀と
感心仕内入に咄候へは夫は文左衛門預りの郡にて候間文左衛門申付たると被申候 其後文左衛門
に尋候へはいかにも左様にて候唯今時分尋候ては前のことく/\と諸事聞へ申候故尋不申心まヽ
に申付候 若悪敷成候ても郡奉行さのみ望に存不申と申候 尤■極と感心仕其時分山名殿御働の儀
に候へは委細に申道すから感申候へは文左衛門預と内入申聞候
妙解院様御代ならは御意に叶可申と神以如書付咄申候 本より文左衛門儀故如斯に咄申たるにて
も神無之候 他人にてもケ様の儀當座/\の御意には叶申間敷候へ共後年の御為と心を付申候へ
は信實と奉存信實は天の好むと承り候 同名にても能に能悪は悪と見へ申候
一、同名弾蔵御聞番相勤候趣十七人の衆へ刀脇差可被下候間其心得仕刀屋共にそろ/\申聞金貮
三枚の札有之を才覺仕候へとの御内意三宅藤兵衛殿・松野一二なと覺申候 其座に横山五郎太夫
も居被申候而承候て拙者に咄被申候 扨ヽ弾蔵に能申たると拙者に被申候故神以即座に申候は惣
躰同名共打寄咄申時分は萬事吟味仕咄申候 本より左様の儀申兼候 弾蔵にて無御座候由返答仕
候 委細に事永く書付不申候覺書共傳右衛門見候はヽ咄可申候御聞可有候 其後町宅へ弾蔵参候
てケ様/\と申候折節三枚の正利の刀拵出来仕目釘打申時之儀に御座候へは同名中並平九郎差
替差上可申と申候故則刀は是より上ケ可申候たぶん内蔵助に可被為拝領候 數年數寄候て求申候
にケ様の時御用に立申儀武冥加に叶たると申候 定て弾蔵覺居可申候 其後熊本への出府の刻右
の刀初て差出候に内入屋敷前にて家来走りで候 不相應かと存召置候處其後油屋源二郎承及申候
御刀在宅にて當分御用になくは御拂被成候へ去る御大名さま方御聞及被成候て申上候由在宅へ
申越候 其刻圖書殿御妹か縫殿殿に縁邊被仰出候時分にて多分此衆と存拂申候へは十左衛門殿
御取被成唯今に帯刀殿差料と承り候 其後十左衛門殿咄申笑申候 若き時分刀脇差馬を數寄申候
老父被申候は武士の數寄尤に候へとも人により刀脇差數寄は取賣の名を請馬數寄は馬苦労の名
を請申候間無左様に心得申候へと若き時分に被申たる事神以少も失念不仕尤至極に存候 尤大小
共に拂たる事多く御座候へとも御國中にて拂申事は叶不申候ハ拙者道具とて取申自然切兼候時き
れぬ故に拂たると申候へは御國中皆々朋友も心にて古人の傳にては快く不存候 此咄は於江戸舎
人殿小屋にて互に刀脇差見申時拂物多く参候時拙者申出候へは尤と被申たる儀迄失念不仕候置候
宣紀公 (綱利養子--実新田藩主・細川利重二男)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E5%AE%A3%E7%B4%80
一、宝永五年四月十四日 宣紀公 此時奉称利武公 御部屋住ニ而初而熊本江之御暇被仰出
六月十九日江府御発駕 七月廿七日熊本御着 鶴崎路御通行
一、同六年正月廿七日熊本御発駕 三月三日江戸御着
一、同七年五月廿八日御暇被仰出 七月六日江戸御発駕 八月六日熊本御着
一、正徳元年 宝永八年改元 二月四日熊本御発駕 三月七日江戸御着
一、同二年御在府 七月十一日御家督此年家宣公薨御 家継公御代替
一、同三年四月十六日御暇被仰出 御家督以後御初而 同廿七日江府御発駕 五月十二日大坂御着
同所より御出船 鶴崎路御通行 同廿八日熊本御着
一、同四年三月四日熊本御発駕 鶴崎より御出船 同廿三日大坂御着 四月十一日江府御着
一、同五年四月十五日御暇被仰出 同廿二日江府御発駕 五月六日大坂御着室路御越
室湊より御出船 同廿五日熊本御着
一、享保元年 正徳六年改元 閏二月廿八日熊本御発駕 三月十三日室湊御着船室路御通行
同十七日大坂御着 東海道御旅行 四月三日江戸御着
一、享保二年四月十三日御暇被仰出 同十九日江戸御発駕 東海道御旅行 五月四日大坂御着
同所より御出船 鶴崎路御通行 五月廿二日熊本御着
一、同三年二月廿七日熊本御発駕 三月十三日大坂御着 四月朔日江府御着
一、同四年四月十三日御暇被仰出 同十八日江戸御発駕 五月朔日大坂御着同所より御出船
鶴崎路御通行 同十八日熊本御着
一、同五年二月廿七日熊本御発駕 従鶴崎御乗船 三月十六日大坂御着船 東海道御旅行
四月朔日江府御着
一、同六年四月十二日御暇被仰出 同十九日江府御発駕 東海道御旅行 五月朔日大坂御着
同所より御出船 同十五日熊本御着
一、享保七年二月廿七日熊本御発駕 鶴崎より御乗船 三月十五日大坂御着船 東海道御旅行
四月二日江戸御着
此年公儀江上ケ米被仰付 御在江戸半年宛御免 御書付之内左之通
辰三月参勤 細川越中守
同九月御暇
此翌壱ヶ年休息
一、同八年三月十三日御暇被仰出 同廿七日江戸御発駕 東海道御旅行 四月九日大坂御着
同所より御出船 同廿四日熊本御着
一、同九年正月廿七日熊本御発駕 二月十三日大坂御着船 東海道御旅行 三月朔日江戸御着
一、同年九月十三日御暇被仰出 十月四日江府御発駕 東海道御旅行 同十七日大坂御着
同所より御出船 鶴崎路御通行 十一月四日熊本御着
一、享保十年御在国
一、同十一年二月四日熊本御発駕 同廿日大坂御着船 東海道御旅行 三月六日夜江戸御着
一、同年九月十三日御暇被仰出 十月四日江戸御発駕 同十七日大坂御着同所より御出船
十一月七日熊本御着
一、同十二年御在国
一、同十三年正月廿八日熊本御発駕 鶴崎路御通行 二月廿日大坂御着船 東海道御旅行
三月七日江戸御着
一、同年九月十三日御暇被仰出
此年宣紀公日光山為御社参九月廿六日龍口御屋敷御発駕 九月廿九日御宮御拝礼
十月二日夜御帰府 十月十八日為御帰国江戸御発駕之筈之処 同月八日より御病気ニ
付御快気次第被遊御発駕度旨 御願之通被仰出 十一月廿一日猶又御滞府御願之通
即晩被仰出
一、享保十四年御病気ニ付来春迄御滞府之儀 閏九月十三日御願 同十九日御願之通被仰出
一、同十五年三月御病気ニ付御参勤之御礼以御使者御献上
此年四月十五日上ケ米従来年被遊御免候 依之来年より参勤交替可為前々之通由被仰渡
御書付如左
当九月御暇可被下候間
来亥八月中旬為参府候 細川越中守
一、同年五月廿八日
宣紀公御登城 御病後之御礼
一、同年九月廿二日御暇被仰出
今年御暇被仰出候得共 御病後長途難遊御旅行 来秋迄御滞府之儀
九月廿五日御願 同廿九日御願之通被仰出
一、享保十六年御滞府
此年八月中旬被遊御参府由前年被仰出置候 依之八月十五日御参勤之御礼
御病中ニ付以御使者 御家老脇小笠原多宮 御献上
一、同十七年御滞府
此年六月廿六日御逝去 (57歳)