津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

職五郎殿

2011-06-06 14:37:14 | 歴史

                       

 現在県立図書館「細川コレクション永青文庫展示室」で開催されている、「細川コレクションの知られざる名品展」に出品されている細川茲詮所用の胴丸具足である。

美しいいかにも若武者の具足であることが伺えるが、文政元年(1818)茲詮は23歳で亡くなっている。細川齊茲の三男・職五郎(のりごろう)のことである。寛政八年(1796)の生まれだが、享和二年(1802-7歳)と文化元年五月(1804-9歳)の二度にわたり、父・齊茲の実家宇土細川家の和泉守(齊茲弟・立之)の急養子になっている。
立之は兄立禮(齊茲)が本家相続をした際、宇土細川家を継ぐことになるがわずか四歳であった。嫡男・與松が生まれるのが文化元年九月である。職五郎の二度の急養子というのは立之が病気にでもなったことが伺える。
齊茲の嫡子・齊樹は文政九年に亡くなるのだが、職五郎が健在であれば跡目相続も有り得たかも知れない。
文政元年、宇土支藩藩主立之も死去、立之の子・與松は十五歳で宇土支藩を相続する。そして文政九年には宗家の齊樹の危篤に伴い急養子となり宗家を相続(齊護)することとなった。

きらびやかな具足を見ていると、職五郎殿の無念の息づかいが聞こえてくるような気がする。

そして、宗家・支藩を無事に次代に相続せしめるための、見事な連携が見て取れるのである。

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「旦夕覺書」 花--16

2011-06-06 08:13:10 | 旦夕覺書

一、三齋公忠利公光尚公御三人於江戸御咄之節光尚公へ三齋公被仰候は何を稽古被致候哉と御尋被成候へば御請に小畑勘兵衛に軍法を被聞召候由御意被成候へば三齋公終に軍法御聞不被成候軍法は常々家頼能召仕候へば何事之時にても軍配能候 唯侍を能召仕其程々に能召仕候へば何時も軍法能と被成御意候と也

一、忠利公肥後御入國二年目に唯今之出町小笠原備前屋敷之木戸より外に町被仰付候由 其後御後悔被成清正は半國之時に城石垣等調申し候 一國之力にても中々難及思召候 當分之御城荒不申候様にと思召候 御城下廣く成候はヾ荒可申と思召此後は御廣め被成ましきととの御意の由御座候 委細は八代に居申候白江元咄承候御城付三百石山名殿懇意之人

一、忠利公御在江戸之時被得上意候て御下國之上にて白川筋浅き処を御掘せ被成可成事あらば川尻江着仕候船を熊本長六橋邊に船付候様に被成候はば熊本賑やかに可成と思召候てそろ/\と御掘せ被成候由古監物殿へ誰か出入の侍衆咄申候へば夜中にて御聞被成候て扨々夫は曾て不聞事とて其儘御花畑へ御出候て可得御意儀御座候て夜中にても罷出候旨被申候へば其儘被為召何事ぞと御意之時唯今初て承申候白川筋御ほらせ長六橋邊船着に被成旨私存候ば唯今之如く其儘にて川尻船着能奉存候 子細は熊本之町中に駄賃馬持居候長六橋邊に船着候ては駄賃少く成可申候 左候ては小身なる侍とも俄に馬を求申儀成兼可申候 何卒馬を澤山に持申様に仕度私は存候旨御申上候は扨々尤至極に思召候 今度御在江戸之刻御願被成候間先少々掘候て其後ならぬとて制止可被成と御意之旨于今其堀懸申跡御座候由御郡奉行金津助十郎勤申時承申候 海船も昔は澤山に町人共持居申候 浦番とて御侍衆両人づヽ熊本にて代々在宅者致逗留相勤申候 拙者心安く咄申候津崎庄九郎百石にて御留守居組 追腹仕候津崎五助か跡かと覺申候 定て島原御陣の刻大分御船入たると存候 四十五七年此方御國中の船持とも次第/\に少く成申と承覺申候 他刻船定て運賃下直成故と存候

一、寛文元年丑辛正月十五日巳之刻禁裏炎上餘煙及民家仙洞様は修學寺江渡女院様は岩倉江渡御炎上之内鳳祥院様岩倉江伺御機嫌被成御座候節御菓子御用意其外洛中洛外之餅鼻紙草履迄不残御調させ御持参被遊候由尤女院様御機嫌洛中洛外迄其節は是のみ沙汰仕候由鳳祥院様は三齋公御姫様御幼少之時はおまん様と申候て三齋様別而御寵愛にて烏丸大納言殿御簾中也

  参考:http://www.himoji.jp/jp/publication/pdf/symposium/No05/F021-028.pdf

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