家老・松井家は将軍家からも知行をいただいている。為に将軍家の代替わりのときなどには御禮が義務付けられている。天保12年(1841)当主・章之が江戸に上っているが、これは家督相続による御目見の為である。このときの旅の様子を章之自身が日記に書きとめている。その内容は「熊本藩家老・八代之殿様 松井章之の江戸旅日記」として、「八代古文書の会」が刊行された。(2008/10)
章之一行は4月7日八代を発ち、28日伏見に着いた。29日には先代藩主・治年女就姫の嫁ぎ先久我家を訪れている。就姫は天明七年(1787)の生まれであるから、このときは55歳である。(生まれた数ヵ月後父・治年は亡くなった)そしてこの時期には養子・久我建通(一条忠良男子)の代と成っている。就姫の実子・志通は文化7年(1810)10歳で亡くなっている。解題に「中納言とあるのは彼女の子供で、虎丸というのは孫にあたる人のことと思われる」とある。実際は「中納言=養子・一条忠良男子・建通」であり、就姫の子・志通の跡を継いだことになっている。建通の生母は細川齊茲女・邰姫である。(細川家史料では見受けられないが、一条家では富子と名乗っていたらしい)就姫からすると姪の子を養子として迎えたことに成る。女系(細川家系)を頼んでの相続であることがわかる。
建通はこの年27歳、通久なる人物が久我家を継いでいるが、久我家史料によると「天保12年生まれ-長男」と紹介されている。松井章之が久我家を訪れた年の生まれである。ならば章之の接待に当ったという虎丸なる人物ではない。「解題」がいう「孫に当る?」虎丸とはいったい誰なのか・・・?
この謎解きに相当の時間を費やしたが、そろそろギブアップという処か・・・・