津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

避難勧告

2011-06-12 18:11:49 | 熊本

 昨日今日と熊本はすごい降りです。現在熊本市西部と北部の20の小学校の校区に住む、6万6674世帯、15万4664人に対し、避難勧告が出されています。幸い私が住んでいるところは、市の東部の高台で心配は要らないのですが、側溝の水があふれたりしていますから、近所の水無し川も現在は大変なことになっているのでしょう。現在は小康状態ですが、明朝まで降り続くらしく、勧告を受けた皆さんは眠れぬ一夜を過ごされるのでしょう。何事もないようにただ祈るだけです。
 この時期雨が降ると、昭和28年の大水害が思い出されいやな気持ちになります。
東北地方に加えて大雨の被害がないように願うばかりです。

 追記:6/13 8:30
その後小康状態が続き、心配された状況は避けられたようです。
今日は新聞の休刊日で詳しいことは判りませんが、田んぼが冠水したり、小さな川の水があふれたりしたようです。午後からはお天気になりそうです。まずは一安心・・・・

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南條氏のこと--(1)

2011-06-12 09:41:28 | 歴史

 播磨屋さんのメールマガジン「家紋WORLDニュース48号」が送られてきたが、ここに「風雲戦国史 http://www2.harimaya.com/sengoku/ トップページのコラムを 南条氏に更新」とあった。

南條氏といえば細川興秋の娘・鍋(なべ)が南條大膳元信に嫁いでいる。興秋の室は氏家元政女であるが、興秋の没後飛鳥井中納言持信に再嫁した。鍋が誰の手に依り育てられたのか詳しいことが判らないでいる。

さて南條元信なる人物だが、細川家記は南條左衛門元次息と紹介している。残念ながらこれは間違いである。(下に記す) 元次については「東北文庫-小寺融吉の盆踊りの研究」というサイトに次のような記述が見える。

【島根と隣の山口県の岩国を中心とする南條踊は、天正年間に吉川元春が伯耆の南條元次の城をやはり歌舞に事寄せて奪つたに始まるといふ。しかし或は南條の戦死者を弔つたものかも知れぬ。これは旧藩時代に旧藩の子弟に限り稽古して、夏の夜や祝い事に踊り、最近は辛くも保存されている。紋服に袴、白鉢巻、白足袋、わらぢ、脇差に軍配を手にした姿である。いはば武士階級の盆踊といふべきものだ。】

興味深いこの記述は元次=元続であることを示唆している。

そして、元次と元信の関係は次のようになる。(細川家記を正しいとすると元信が元次の跡を継いだということも考えられるが、詳細は不明である。) 元次(元続)の弟・元宅(小鴨元清)の孫が元信である。
南條家は断絶し、女系によって受け継がれた細川興秋のDNAは米田家の血に伝えられた。

                                           
                            米田是長=====是庸・・・・・・・・・→代々家老・米田家 
                               ∥-----吟    ↑
  +---元次     細川興秋---鍋   +---伊千    ∥----是庸      
  |                  ∥----+         ∥                         
  +---元宅-------勘三郎---元信   +=====元知(細川忠利末子)

       (出典:宮村典次「藻塩草」42巻所収-南條家系)+津々堂責任編集

この元信、なかなか面白い人物である。回を重ねてご紹介する。

 武家家伝_南條氏 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%9D%A1%E6%B0%8F
 南條元続 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%9D%A1%E5%85%83%E7%B6%9A 
 南條元宅 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%B4%A8%E5%85%83%E6%B8%85

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「旦夕覺書」 花--21

2011-06-12 08:44:12 | 旦夕覺書

一、大友家の侍森迫三十郎甲の前立物三本菖蒲金にして討死の時
       命より名こそ惜けれ武士の道をは誰もかくや思はん

一、冨田信濃守知信は関ヶ原御陳泰平の後被召出伊與國宇和島にて拾貮萬石賜也 或説曰勢州の城
  にて籠城かなひかたく信濃守自害せんとありし時上田吉之允か児小姓佐治頼母と云者信濃守前に
  来たり申けるは味方の言今に支て罷在候 某見て参らんと出し處に敵四五騎早城に責入けるを上田
  吉之允佐分利九之允二人にて支へたる所に佐治も馳付鑓にて一人突伏る かヽる所に扱に成城渡
  す 此時信濃守より佐治に作の鞍鐙を賜る 頼母は後に松平新太郎光政家に来て佐治縫殿と號領地
  線石にて足軽預りたると也
       此佐分利は當御家の佐分利也 佐治頼母事は老父三盛度々咄候被申候

一、難波戦記の内浅野采女正も城兵と刃を交進んつ進れつ討つ討れつ鋒より火烟を出し汗馬に息を不
  継せ戦ける 采女正か家人牧野金彌 或は數野とも有 一番に首を取て来る所に山城半左衛門も浅野内匠頭殿
   内奥野将監祖父也
首を持参す 金彌是を見て我取所の首は二番也 某は二の備成故に本陳に近し依之
  早く来る山城は先手に在て本陳に遠し是故に遅く来ると申遣れは浅野大に是を感し先手の一番首
  を半左衛門二の備の一番首は金彌也と定られ正月具足の祝にも左右の上座を替々勤けり 又是に似
  たる事有り昨六日の合戦に松平陸奥守政宗か軍士浦倉仁兵衛と云者一番に鑓を取て来る所に歩
  行立の侍も同く首持参せり浦倉是を見て渠か取處一番首也其故は某は馬にて馳来る此者は歩行な
  れは遅参せり 敵を討時刻においては足下一番也遅速大に相違あれは論するにたらすとそ申ける
  歩卒聞も不敢譬騎馬にても歩行にても本陣へ来る事一番なれは是を實の一番首なりと申す 政宗大
  に是を感し馬上の一番首は浦倉仁兵衛歩行立の一番首は汝也とて二人を被褒美ける 惣して義士
  の振舞は斯こそ有へけれと皆人大に感じける 青山伯耆守忠利組大久保玄蕃允武功あり此度先登に
  進む 御帰陳有て御加恩給り駿府の御城代を命す 行年九拾余にて卒す

一、名将の曰敵國へ押寄明日辰の刻城責と云にて有へし心懸る者は宵より可参諸人より勝れたるは
  日の暮さる内に可参そ萬事如此ならされは諸人の中より人に先立事は難成もの也 

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