津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

宣紀公・男子

2011-06-10 16:14:20 | 旦夕覺書

「宣紀公女婿」を数回にわたってご紹介したが、男子もご紹介しないと片手落ちだろうと考えてご紹介することにした。21人の子女を為されたが、第一子から九子までは夭折されている。第十子が宗孝公、十三子が重賢公、第十六子に紀休、廿子が興彭(刑部家相続)、廿一子が龍五郎でこれは夭折した。
宗孝公・重賢公はさておく。

第十六子紀休(のりやす)は享保八年江戸の生まれ、病がちで有ったらしく熊本へ帰り横手筒口の屋敷に入った。史料は「うつし心無く」と表現する。しかしながら「一病息災」とでもいうか六十一歳まで生きながらえている。称細川、伊三郎、紀豊、織部、清記、後改長岡姓。

廿子の興彭(おきはる)は享保十一年熊本生まれ、宝暦六年長岡圖書興行(刑部家・五代)の養嗣子仰出さる。(31歳) こちらも六十一歳で死去した。養父興行の男子典弥を養子とした。(七代・興貞) 兄・重賢とは六歳年下であるが、興彭とともに細川興里夫人・清源院、重臣長岡是福夫人・壽鏡院の三方となられ大変仲がよかったと伝えられる。
銀臺遣事に曰く
   ことにあはれなりし事は、天明三年君関東の御首途の程にや有りけむ 興彭主に向はせ
   給ひておことの許に茶屋しつらわれよ やがて帰り来てかならず住給ふ所をも見む 其折
   茶給らばやと宣ひしかば、興彭君難有御事にこそとてなヽめならず よろこび程なく茶屋い
   となませられ、おもふまヽに出来にけれども君のわたらせ給はむ時、はじめていれ奉らむ
   とて其身はかりにも立入られず、明暮御帰国の程を待たれけるに御所労ありて滞府まし 
   まし、同五年十月遂に関東の屋形に於て卒し給ひければ、其設もいたつらになりて興彭
   主のなげきいはむかたなし やがて其年の十二月にこれもみまかり給ひぬ 紀休主もう  
   つヽなき御心にてひたすら君の御別れをなげき給ふなど聞えしほどに、御痛もいやまし
   同七年九月むなしくなり給ひ、壽鏡院の御方は君に一とせ先たち給ふ 天明四年二月の
   頃なりき

一番末の子供である龍五郎は、家老木村半平豊持の養子となったが、わずか三歳でみまかった。

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漱石俳句探偵帖

2011-06-10 14:27:12 | 書籍・読書
       漱石俳句探偵帖 (角川選書)
            半藤一利
            角川書店

      漱石が熊本にいたということもあるが、俳句も大変親しみを感じている。
      今は熊本の歓楽街のど真ん中という位置なのだが(光琳寺通りというのがある)

          涼しさや裏は鐘うつ光琳寺  などというお馴染みの句が楽しい。

      さきに(5/13)「漱石の長襦袢」でご紹介した、漱石夫人の孫にあたる半藤末利子さ
      んのご夫君一利氏も中々洒脱な方である。どのような内容なのか大変興味有る処で
      ある。角川書店での出版というのも所を得た感じがする。  

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治年男子・年和殿

2011-06-10 13:54:44 | 歴史

治年には側室に三男二女がある。長女壽姫は松平播磨守頼説に嫁いだが十七歳で亡くなっている。二男應五郎は六歳で死去、三男浄丸は即日亡くなった。末娘就姫は久我前内大臣通明に嫁いで六十一歳で亡くなった。
この項で取り上げる年和殿は治年公にとっては期待の嫡子であったが20歳の若さで亡くなっている。称長岡・雄次・寅次、天明元年十一月晦日熊本生、寛政十二年四月十三日熊本で卒。父・治年は天明七年に亡くなっているがそのとき年和は七歳、綱利の例に倣うならば年和の跡式相続もありえたと思うのだが、どうだったのだろうか。治年は室の弟・宇土藩主立禮を養子として跡目を継がせた。
あまり記録に現れない人である。

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「旦夕覺書」 花--20

2011-06-10 09:50:59 | 旦夕覺書

一、岐阜城責の時福島左衛門太夫正則軍使櫛田勘十郎塀の手へ上りける時しなへの差物上につかへ
  乗入難きに付差物を下人にもたせ城に乗入然處に櫛田か差物持たる下人鉄炮にて打立られ坂より
  下へ迯下る 岐阜落城の後櫛田が同役の使武士十九人正則に訴て曰櫛田勘十郎御差物を預なか
  ら卑しき下人に持せ置たるに依て坂下へ迯下る 他の備より是を見は當家の軍使迯たると申さん若
  明日にも某共御機嫌を背く事有りて他家の奉公を望んに彼岐阜の城責に迯たる者にやと疑れ可申
  事可有然は勘十郎に切腹御申付可給と申達る 正則も暫く無同心色になため扱申されけれとも承
  引仕依て是非なく勘十郎は切腹被申付由

一、関ヶ原御陳前黒田如水の歩士山中市内と云者如水の使として息甲斐守長政に書状持参る 長政如
  水の状拝見せらる 石田治部少輔三成佐和山出て大坂へ下り逆意を企る聞へ有に依て軍勢を揃へ
  三成に組する敵地へ責入軍功を顕す覺悟也貴殿も志を堅して内府の下知に可任との趣也 長政彼市
  内を呼彼申付は先日より度々如水公より此書来ると云へ共此度汝か持参せし委細なる御文言終な
  し此状を関東へ差下し内府の御目に可懸汝乍若身此状を持参せよと被申遣れは山中違背して曰
  筑後より遥々参たるを又関東へ馳下るへしとの仰近頃無御情御事也別人に被仰付と云 長政以の外
  気色を替て如水も我も己がために主人不成や彌違背するにおいては座を立せしと怒られける 其時
  山中申けるは筑紫より遥々参り候事申立るには更に苦身をいとはす候如水公既に御出陳之御沙汰
  有之半なれ共主命成に依て此表へ馳来候 然るに近日此邊に於て御合戦可有風聞有関東に下れ
  と被仰は無御情と申物也但如水公於筑紫の戦をも見たるにもあらす亦人數ならぬ某か関東へ下り
  たれはとて何の御為に成可申哉依之愚意を廻らすに御身近き輩には御ひいき有て如水公へ御奉公
  申某なとは御不便も薄き故此御意を承るにやと申立けれは長政忽気色を直し誠に汝か申所至極せ
  り汝を関東へ下すへしと云しは我の誤り也とて山中か訴訟を叶へ其後如水の状二三通井伊兵部少
  輔所へ遣し直政返書を送らる
      従如水公此中貴様へ被差越候御状共數通被下拝見仕候
      内府披見に入可申候 今度於御國元別而御情被入殊に御
      人數多く御抱被成内府次第何方へ成共御行候半由に候
      此節に御座候間何分にも被入御情を御手に可入所は何
      程も御手に被入候得と可被遣候 何事も面止可申上候
      恐々謹言
        八月廿五日           井伊兵部少輔直政
                黒甲州様
  彼山中市内長政の前を退て黒田三左衛門一成後号美作逢て某に鎧一領御借有りて給れと云
  三左衛門返答に我等も必替の具足なし家来の鎧を抜せて御邊に與んもいあかヽ也 所詮金子を一
  両與る程に是に用意せられよとて遣しける 山中悦て清洲の町中走廻り右具足一両求出し合渡の合
  戦に先を争ひ働ける 石田三成か家人松井又右衛門と云者に突伏られて果たり まつい山中か首を
  取りけるに笠印の緒に文字書付たる是を取揃て三成實検に備ふ其詞に
      今日之闘に可極功名若不然者討死し義を可守者也
         月日         黒田如水内山中市内
      うたるヽも討もよろしき武士の道より外は行方そなき
石田三成山中か頭を見て彼は志の者ならんとて松井又右衛門に恩賞を厚く與へたると也

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