「宣紀公女婿」を数回にわたってご紹介したが、男子もご紹介しないと片手落ちだろうと考えてご紹介することにした。21人の子女を為されたが、第一子から九子までは夭折されている。第十子が宗孝公、十三子が重賢公、第十六子に紀休、廿子が興彭(刑部家相続)、廿一子が龍五郎でこれは夭折した。
宗孝公・重賢公はさておく。
第十六子紀休(のりやす)は享保八年江戸の生まれ、病がちで有ったらしく熊本へ帰り横手筒口の屋敷に入った。史料は「うつし心無く」と表現する。しかしながら「一病息災」とでもいうか六十一歳まで生きながらえている。称細川、伊三郎、紀豊、織部、清記、後改長岡姓。
廿子の興彭(おきはる)は享保十一年熊本生まれ、宝暦六年長岡圖書興行(刑部家・五代)の養嗣子仰出さる。(31歳) こちらも六十一歳で死去した。養父興行の男子典弥を養子とした。(七代・興貞) 兄・重賢とは六歳年下であるが、興彭とともに細川興里夫人・清源院、重臣長岡是福夫人・壽鏡院の三方となられ大変仲がよかったと伝えられる。
銀臺遣事に曰く
ことにあはれなりし事は、天明三年君関東の御首途の程にや有りけむ 興彭主に向はせ
給ひておことの許に茶屋しつらわれよ やがて帰り来てかならず住給ふ所をも見む 其折
茶給らばやと宣ひしかば、興彭君難有御事にこそとてなヽめならず よろこび程なく茶屋い
となませられ、おもふまヽに出来にけれども君のわたらせ給はむ時、はじめていれ奉らむ
とて其身はかりにも立入られず、明暮御帰国の程を待たれけるに御所労ありて滞府まし
まし、同五年十月遂に関東の屋形に於て卒し給ひければ、其設もいたつらになりて興彭
主のなげきいはむかたなし やがて其年の十二月にこれもみまかり給ひぬ 紀休主もう
つヽなき御心にてひたすら君の御別れをなげき給ふなど聞えしほどに、御痛もいやまし
同七年九月むなしくなり給ひ、壽鏡院の御方は君に一とせ先たち給ふ 天明四年二月の
頃なりき
一番末の子供である龍五郎は、家老木村半平豊持の養子となったが、わずか三歳でみまかった。