享保二十年閏三月三日宗孝は熊本を発駕江戸へ向った。十九日に大阪に着き、江戸着は四月八日である。
・閏三月廿日朝食後 於・大阪 藩主御前に於いて大阪詰留守居・下河辺十兵衛に対し、御書出頂戴さる。
用人・額田和多理、右筆頭・大田茂右衛門列席 津川平右衛門より渡す
・閏三月廿二日朝食後 於・伏見 京都詰の者、御前に於いて頂戴
京都在住の築山兵庫・兵馬も伏見御次にて頂戴
・四月廿七日 江戸詰面々に対し、朝五つ時の揃いにて
一、於・御次 小笠原多宮、三野政右衛門
一、於・御長座敷の間 藩主臨席、用人・額田和多理、右筆頭・大田茂右衛門列席 小笠原多宮から頂戴人次第に従い渡さる
一、於・御次 御次方御者頭~組付 全てが頂戴 大田茂右衛門不参
寛永九年正月廿四日書状(488)は、忠利から三齋(貴田半左衛門宛)にあてた、秀忠の死を伝える速報である。
文面から情報は医師・通仙院からもたらされた「撚」であることが判る。内証の知らせであったのだろう。
忠利からの書状は、急使の手により愛宕下の三齋の元に届けられ、三齋は届けられた書状に返事をしたためている。
17,8×11,6センチという小さな紙面に緊迫感が漂っている。
只今如此ニ申来候
方々より申来候
以上
廿四日 越中
仙よりノ撚見申候せい入たる儀候
半左衛門殿
此きりかみ可被遣候也 大日本近世史料・細川家史料十から引用