先に「女持不申候者」顛末」を書いた。松野正照に関する資料があったので「続」とする。
寛永十年七月廿一日忠利から三齋宛の書状(661)の抜粋である。
いつそや被仰越候爰元女を持不申ものゝ書付進上申候内、右京殿一人縁邊除置可申候由
得其意存候、其後何共不被仰越候故、阿蘇之神主、前々より大友殿と一ツ之續にて、右京殿
へと心さし申候つる、更共、右之書付故、極不申候間、彌如御意除置可申候、此等之趣可
有御披露候 中略
尚々、右京殿儀、事之外不辦ニ御座候付而、知行五百石増候へ共、中/\當年な
と女房よはれ候儀ハ調兼可申と、推量仕候、更共、御意御座候條、如何様にも可
被仕候、同ハ来年にも被成可被遣哉、思召外すり切と承候、以上
同八月十三日書状案(668)抜粋
松野右京殿縁邊之儀、先書にも如申上候、右書付上申候内にて御座候故、阿蘇之神主ヘハ
未不申出候、就其、先度御意之旨、右京殿へ内證ニ而申聞候、被仰出可有御座候間、内々
被得其意候へと迄申聞候つる、如何可有御座候哉、重而之 御諚次第と奉存候、其外縁邊
無之者共書付上申候分、被仰付間敷候條、如何様にも可申付由、左候ハゝ、追付縁邊可申
付候、此等之趣可有披露候、恐々謹言
改めて記すると、松野右京(進)正照とは、 大友宗麟の子・大友左兵衛義統(吉統・コンスタンチノ)の三男である。
「女を持不申ものゝ書付」とは、寛永九年三月十日書状案(490)に付けられた「別紙覺書案」であり「女持不申候者」とあり、頭注では「家臣ノ妻帯セザル者」とある。前回も延べたとおり、この書付は村上河内女の縁邊へと三齋が取り寄せたものだが、松野右京進については上記のような経緯を知り除外させたものである。しかしながら、この組み合わせもなかなか難航していることが判る。
上級武士の内情が伺えて興味深い。