津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

シに可申様ニハ無之候

2012-08-17 10:10:40 | 史料

                           右のてくひより
                      手なへ申計ニて候
                      シに可申様ニハ
                      無之候可心安
                              候

                      以上

 寛永十八年三月十日付、忠利の光尚に宛てた最後の書状(1411・端書)である。 
この後三月十七日忠利は没することになる。

寛永十八年に入ってからの光尚宛の書状は九通に及んでいる。正月五日(1403)、十二日(1404)、廿六日(1405)、二月六日(1406)の書状には体調に付いての記述は見えない。

同じく二月六日書状(1407)には次のように在る。(抜粋)
             我等事之外息災ニ候、正月廿四日慶安見舞ニ被参候、幸と存、疝氣之養生申候、其薬ニひ
             ともしニてむし候療治ニ候、はれハやわらき候へとも、事之外上氣心ニ候間、二日養生
             中、先達やめ申候、上氣故、あろき候ヘハふら/\と仕候間、鷹野へも不参養生申候、腫
             物はとけ一段よさそうニ候、いまた上氣やミ不申候、物も一段能くい申候、心も能候へと
             も、あろき候へはふら/\と仕、折々足之筋右之かいな筋引つり申候條、上り候迄か様ニ
             若候ハゝ、筋つり候時ハ足かゝめかね候條、路をゆる/\と可参候、其様子道より又御老中
             へも可申入候、上り候内ニ山鹿之湯へ入可申候間、すきと能成可申とハ存候、越中も又疝
             氣少發、足之筋つり候由申越候なとゝ、心安衆ヘハ物語候て可被置候、必見舞ニ飛脚なと
             被越候程之事ニて無之候、可被得其意候事

二月十五日書状(1408) (抜粋)
             爰元彌替儀なく候、我等氣色、先度佐野藤兵衛遣候刻口上ニ申候、今以其分ニ候、少も氣
             遣有事ニ而無之候、若中風ニ可成かと存候ヘハ、疝氣故筋つり候、あるき候ヘハ悪候故、
             為養生此比は鷹野ニも不出候、食事も如常進、氣相悪敷事も無之候、頓而山鹿之湯へ参候
             事

二月廿七日書状(1409) (抜粋)
             我等氣色彌疝氣ニ而候故、急ニ能可在之とハ覺不申候、彌物も能給、少つゝ能候間、彌三
             月廿日ニ出可申候、更共廿日ニ出候て、道ニ而煩發候ハゝ、其時御老中迄状を可進之候、
             煩發候ヘハ、足之筋をつりつめ、小便つかへ候故、其時ハ中/\乗物をかゝれ候事も、ま
             して馬もなるようニハ無之候、身をあらく仕候程小便つかへ候故、右發候時も迷惑申候つ
             る事、今ハ左様ニハ無之候、内々被得其意、柳生殿・讃岐殿なとへハ物語候て、道中いつ
             ものことくげ候事ハ成間敷と存無心元由、可被申候事

三月九日書状(1410) (抜粋)
             昨日今日キとくなる薬にて、しょうへん心安通、か様ニ候ハゝ道ものり物にて成
             可申候ハゝ、満足申候、物ハ今ニよくくひ申候、あまりニきとくなる薬にて、まこと
             しく無之候、其方心安ために申候間、さたニ不及候、以上

そして最後の書状である。三月十日書状(1411)全文

             我等煩之儀ニ付而、御老中へ松下掃部・熊谷孫兵衛下候間、申候
           一、昨日も以飛脚申候つる、疝氣、昨朝事之外能候ニ付而、其段昨日之書状ニ、自筆ニ而は
             しかきニ申候、昨晝こしゆニ入候ヘハ、それ故候哉、上氣候而、右之手足なへ、舌内難叶
             候、然は、去ル七日より大便ニ血下り候、七日ニ四度之内夜ル三度、八日ニ九度之内夜三
             度、九日ニ九度之内夜七度、今日十日四ツ過迄ニ一度、下り候、今迄三十六度血下り申
             候、血下り様之儀、多ク下り候時ハ、つねのさかつきニ一度ニ三盃ほと、又ハ二はい一は
             いほと下り候、少つゝハうすく成候事
           一、御年寄衆へも状を進候間、伊順齋・曾丹州へ談合候而、御老中へ右之趣可被申候、かすか
             殿へも文を進候間、是へもくハしく可被申候、御年寄衆へ之状之寫進候事
           一、何とそ仕、廿日ニ立申度覺悟ニ候、田舎ニてハ養生不成候間、成ほとニ候ハゝ、上り可申
             と存候事
           一、細川家之系圖之儀、おそからぬ儀ニ候間、よく/\相改、従是可申入候事
           一、食事ニ替事なく、氣相ニ別ニさゝハる儀も無之候、猶両人口上ニ可申入候、恐々謹言

                                                      越中
                   三月十日                                忠利(ローマ字印)

                        肥後殿
                           進之候 

                                (そして最初に挙げた忠利自筆の端書がある)

 

   忠利という人は身体頑強というタイプではない。江戸にあっても度々温泉で湯治療養をしているし、参勤の途中でも有馬などに寄っている。
  その身体を更に痛めたのは、天草・島原の乱である。病身を押しての出陣からわずか三年余の命の終焉であった。 

             

 

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