寛永九年十一月廿一日書状案(549)
忠利から三齋に宛てた書状(案)である。新しい領地熊本へ出立(12月6日)前のものであるが、興味深い書状である。
切支丹であるがゆえに、後一族郎党十数名が死罪となった小笠原長定の処遇について触れられている。その他の項文も又興味深い。
廿一日之御書、申之刻ニ参候へ共、上使衆振舞半にて御請延引仕候
長定・玄也 小笠原忠真
一、小笠原與三郎事、同名なとゝ右近殿被申候て、馳走候ヘハ如何候間、肥後へ召つれ、如此
中可申付之由畏存候、先度江戸へ罷下候刻、此段々可申上と存候へとも、御事多候而不
申上候、宗門を落候へと申聞候處、三齋様へ堅御請仕候間、不罷成候間、此上如何様ニ
もと申候、我等申候ハ、只今切腹申付候共、其沙汰隠有間敷候、然時ハ 三齋様も我等も
不届様ニ候ヘハ、却而如何候、今迄か様ニ候て有へき仁にて無之候、宗門ををちす候ハゝ
我等不届との公儀より之御使請可申候、其時ハ 三齋様も不可然と申聞候故、か様ニ候てハ
生たる甲斐も無御座候、果候ても其聞可在之と申上候、 三齋様御意と及候而、宗門をこ
ろひ申候、其分ニ、尚又懸御目候刻、可申上候事
一、被成御拂者共も、心儘ニ可罷出候、當國ニ不被成御座上ハ不入儀と思召、科人も籠を被成
御出候由、扨々何も忝儀ニ可奉存候事
立花宗茂
一、坂崎三四郎事、此前飛騨殿御詫候へとも、御誓文を御立、不被成御同心候へとも、當國を被
成御拂候からハ不入候と思召候段、我等次第ニ可罷出候、無失念飛騨殿へ此通可申理由、
坂崎成定
奉得其意候、親道雲煩、以之外ニつまり候條、先御諚之通申聞候、難有可奉存候事
御 松井興長室・松井寄之 填島昭光・一色
一、乍○次、右之御諚候間申上候、御こほ・いわ事、御詫事申上度常々奉存候、尚、云庵・杢
所迄致言上候事
一、我等所へ御用被仰越候もの、両人可申上之由、尚又心安ものをとの 御諚、又江戸へ両人
可政 立成
共ニ召連候ヘハ、跡之御用かけ申候條、皆々ニ召連候者を可申上由、加々山主馬・道家左
近右衛門所迄可被下候、此等之趣可有披露候、恐々謹言
霜月廿一日
魚住傳左衛門尉殿
小笠原与三郎は、ガラシャ夫人の介錯役を務めた小笠原少齋の二男である。兄・長光室が細川忠興の姪(吉田左兵衛兼治女・たま)である。
与三郎は家族共々熱心な切支丹信者であり、岳父・加賀山隼人は元和五年小倉で殉教した。三齋・忠利父子は与三郎に対し棄教を迫っている。
これらのことについては、片山瑠美子氏の論考「小笠原玄也一家の殉教」に詳しい。 http://repository.cc.sophia.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/26653/2/200000010063_000472000_38.pdf
そんな中での細川家の肥後熊本への転封である。その状況がここに記されている。上記論考でも触れられておらず、又大日本近代史料-細川家史料においても小笠原与三郎に関してはこの記事のみしか見受けられない。今我々が知る与三郎等の史料は、奇しくもこの書状に登場している従兄弟・加賀山主馬に届けられ四年の後忠利の元へ提出され、密かに城内に隠し置かれたものである。
その他のことについては、日を改める。