細川三齋が亡くなった翌年の四月十七日、幕府の酒井讃岐守は光尚に対して以下のような質問状を発している。
尚々、此状御披見候は、御さきすて可被下候様子委御返事可承候
明日阿対州御上使ニて御暇被遣儀可有御座候、対州よりいまた何
共御案内これなく候哉、承度候事
一、三齋御養子之御息女ハいくつ計ニて候哉、たれの息女ニて候哉、
三齋御ため何ほとちかく御座候哉、承度候事
一、三齋より貴様へ御ゆい物何を被遣候や、承度候事
一、中務殿子息ハいくつニて候哉、母儀ハかろき人にて候哉、此子息ハ
京都にいられ候事、三齋又貴様なとも前かと御存ニて候哉、此度中
書御はて以後御存や、承度候事、恐惶謹言
卯月十七日 酒井讃岐守
細川肥後守様
人々御中
これについての返書
覚
一、三齋養むすめ年之儀被仰下候、拙者もしかとハ不存候へ共、大かた
十歳計かと存候、三齋ためには何ニても無御座候、三齋召仕候女の
親類にて御座候由承候事
一、三齋方より拙者所へ此度遺物とてハ何ニても不参候、十ケ年ほと以
前ニ北国物信長の作刀一腰くれ申候、其節遺物同前之由申つる事
一、中務せかれ当年十歳ニ罷成候、此母之儀ハかろきものニて御座候
はゝせかれの儀まへかとハ拙者も不存候、今度中務病中ニ此せかれ
儀承候、いまゝてハ京都ニ罷在つるよしニ御座候、三齋も最前ハそん
しさるようニ承候、中務相果候以後存候由ニ御座候、此忰宮松儀中
務相果候已後当御地へ罷下候、以上
卯月十七日 細川肥後守
酒井讃岐守様
追而申上候、三齋遺物としてひかし山殿所持之たるまのかけ物并
利休所持仕候しばくりのつほ四五ヶ年已前ニ差上申候、定而ご存
知可被成候得共、先申上候、以上
宇土支藩が立藩されるのは、「正保三年丙戌七月廿九日、本家肥後守光尚前以奉願、肥後国宇土ニテ三万石内分」したことによる。
酒井讃岐守による質問は、初代藩主になる宮松(行孝)と、関連する事柄についてであろう。
・三齋養むすめ 佐舞、三(忠興号三齋ノ一字ヲ遣サレシモノ) 実ハ加来佐左衛門女、初名せい
元禄十一年戌寅二月廿三日卒、享年六十四(六十一)法号源立院照乗宗珠 宇土細川廟所ニ葬ル
・中務殿生母 布施野左京女(祝宮内女)志保子 元禄四年辛未六月十(十四)日卒 享年八十三
法号慈廣院雲岩性浄 江戸天眞寺ニ葬ル
・京都育ち 萩原兼従(吉田兼治・伊也-忠興妹の息)に預けられ、一時期養子とされる。立允(立孝)は従兄を頼ったということになるが、
本当に忠興が知らなかったのか疑問が残る。