熊本市中央区新町にあった高麗門の、遺跡発掘調査がこの炎天下の元行われている。
近々経過説明会も行われるようだが、新たな発見も有ったようだ。この門は「櫓門」であるにもかかわらず「高麗門」と呼ばれているのだが、これを解決するに至る資料がない。ところが最近宮村典太が書き残した記録集「藻塩草」に「高麗門記」があることに気づいた。
また、その写しが「上妻文庫」に所載されていることもわかり、こちらをコピーすることが出来た。
これによるとどうやら、三韓征伐の折、清正が古城の材料を解体して持ち帰ったらしい。この古材をもって高麗門が作られたということらしい。
はっきりしないが櫓門が作られる前に、この古材によって高麗門が作られたということも考えられるのだが(私見)、この「高麗門記」ではこれを裏付ける記述は見受けられない。「高麗門」の名前はどういう経緯で付けられたのか謎は解けないままである。
昔豊臣氏之伐三韓也肥之先鋒加藤氏小西
氏為先鋒加藤氏有殊功及其還師也取其門
材而還以作城西郭門以為京観焉開在西南
隅無曲城無羊馬似不便守禦焉葢聞熊城之
制因蔚山城而規昼焉東北之門最固矣麗門
特無羊馬曲城何也夫祇山在城之西南而最
近焉若一旦有虞之事授兵登■則敵■此山 ■ 阝に旱 扌に處
而陳不可熊城一日守也守禦之没先拠此山
而救應之備則麗門猶方城之門也夫吾之兵
在祇山則西南之地勢無陣屯之地可使救應
奇詭之兵申此門而出也其所以異於他門者
為是故也夫加藤公之営此城也雖一曲一折
之微無不得其制者豈矧於門桜塁濠之類乎
独■兵法者以知公之識量也夫公之有功於 ■ 氵に罕
斯士也豈少小哉水利於是乎治焉賦貢於是
乎正焉民至于今奉承厥法保安其利如二百
年一日也豈特殅営之巧而己哉
黙齋文集
ご覧の通り白文であり、何方か読み下しをいただければ大変有り難いのだが・・・・・
(文末にある黙齋文集とは、肥後文献解題によると中山昌礼の筆によるものらしい。写しが存在するように記されているが、それがこの「藻塩草」のことであろうか)